9.わたしの主は、優しい吸血鬼

 母も父も妹も、もういない。
 そろって流行り病で亡くなってしまったから。
 死神はミンメイだけを残して、みんなを連れて行ってしまった。
 三日泣いて、四日目にはこれからの身の振り方を考えた。
 女は一人では生きていけない。
 手に職でもあれば別だろうけれど、あいにくとミンメイに誇れるようなものは何もなかった。

 そんなときにタイミングよく声がかかった。とある屋敷の掃除婦をしないかと。
 掃除婦とは名ばかりで、実質は愛人であることはミンメイにもわかっていた。
 それでも、それを断れるほどの理由も、気力もなかった。
 わずかばかりの蓄えもすぐに尽きるだろう。
 どうせ、顔向けできなくなる家族ももうこの世にいない。
 どこか投げやりに、ミンメイは屋敷へ上がることを決めた。

 自分で決めたはずなのに、夜に一人でいると、これでよかったのかと自問が胸中にわいた。
 屋敷へと上がるのは数日後。もう後には引けない。
 なのに今さら、自分の身がかわいくなってきて。

「母さま……父さま……アンライ……」

 意味もなく、家族を呼んだ。
 もう、この世界にはいない家族。
 大切だった。何よりも大切な人たちだった。
 ミンメイ一人の命で助けることができたなら、迷うことなくこの命を捧げたのに。

「どうしてわたしだけが生き長らえてしまったのかしら」

 生きていることが罪悪のように感じられた。
 どうしてみんな、ミンメイを置いて逝ってしまったのか。
 自分も一緒に連れて行ってくれればよかったのに。

「……このまま、消えてなくなってしまいたい」

 ぽつり、と本音がこぼれ落ちた。
 涙はもう枯れてしまった。心はもう折れてしまった。
 家族がいない世界に、大切な者のいない世界に、生きていたって仕方がないように思えた。
 色を失った世界で、どうやって生きていけばいいというのだろう。
 たった一人で、どうやって――。

 ああ、でも、駄目だ。
 どんなにつらくとも、どんなに苦しくとも、生きなければ。
 家族は、生きたくても生きられなかったのだから。
 生き残れたミンメイが、意味もなく命を散らすことなど許されない。
 たとえ、それがどんなにつらい生でも。
 どれほど無意味に思える生でも。

 ミンメイは、生きなければ。


  * * * *


 悲しみも苦しみも通り越して、ただ空虚に生きることだけを考えていた。
 この魔界に落ちてきたのは、そんな時だった。
 耳鳴りがして、風を感じて。
 気づいたら、赤いバラの咲くこの城の庭に、ミンメイは座り込んでいた。
 目の前にいたハルウをぼんやりと見上げ、状況を把握する前にミンメイはこの城で暮らすことに決まっていた。
 どうせ、どこでも同じだろう。意味もなく生きていくだけなら。
 そう思っていたのは、最初だけ。
 すぐに、ここがミンメイの居場所となった。

 この世界に落ちてきて、一年近くが経った。
 ハルウに血を吸われ、守れもしない約束を交わし続け。
 ずっと傍にいさせてもらう契約をしてからは、まだ三ヶ月程度。
 ミンメイに居場所をくれた主、吸血鬼のハルウの部屋に、彼女は花を飾りにやってきていた。

「また赤バラが咲きましたよ、ハルウさま」

 庭師に刺を取ってもらったバラを、隣まで来たハルウに見せる。
 ああ、とハルウのバラ色の瞳がやわらかく和む。
 城のバラの中には、返り咲きや四季咲きのものがある。だから庭全体を見れば、いつでもどこかしらでバラが咲いている。
 吸血鬼にバラというのは、あまりにも似合いすぎていて少しおかしい。
 ハルウの両親が生きていたときから、ほとんどそのままに整えているらしい。

 丸いフォルムが愛らしい赤いバラと、枝分かれした小さな白いバラを一緒に花瓶に飾る。
 テーブルの上の花瓶と、窓辺の花瓶。
 あとはハルウの寝室にも飾って、それでも残ったらミンメイの部屋にも飾らせてもらおうか。
 そう考えていると、すっとハルウの手が眼前に現れた。

「一本、もらえるか?」
「いいですけど、どうするんですか?」

 好きなものを取ってもらおうと、花を入れていたカゴごとハルウに差し出す。
 ハルウは背の低い花瓶用にと茎を短く切ってある、小ぶりな赤バラを手に取った。
 カゴを床に置いてから、どうするのかとじっと見ていると、ハルウはそれをミンメイの髪へと挿した。
 そのままそっとミンメイの茶色の髪を梳く。
 優しい手つきに、ミンメイの胸がドキッと高鳴った。

「よく似合う」

 自然とこぼされたような微笑みに、ミンメイは魅了される。
 真紅の瞳は鮮やかで、バラジャムのように香り高く甘やかに感じられた。
 鼓動が耳に響く。頬が熱いのは、気のせいではない。
 この人が好きだ、と自覚させられる瞬間。
 熱い想いがあふれそうになって、どうしたらいいのかわからなくなる。

「……ミンメイ?」

 ハルウが困ったようにミンメイの名前を呼んだ。
 それはそうだろう、いきなり抱きついたのだから。
 けれどミンメイは離れようとは思わなかった。

「こうしているのは、嫌ですか?」
「そんなこと、あるはずがない」

 ハルウを覗き込みながら問いかければ、すぐに答えが返ってきた。
 聞かなくても、予想できてはいたのだけれど。
 だって、ハルウの顔は見るからに赤い。
 ミンメイと同じように、ハルウも意識してくれているのだとわかった。

「わたし、もっとハルウさまの近くにいたいんです。
 わたしが一番ハルウさまの傍にいて、わたしが一番ハルウさまのことを知っているんだって、言えるくらいに」

 ハルウの肩に額をくっつけて、ミンメイは語った。
 契約を交わしたあの日から、ハルウは少しだけ成長を遂げた。
 数センチほど背が伸び、身体つきも大人のものへと変わってきている。
 止まっていた時が動き出したのだと、ミンメイのおかげだと、ハルウはうれしそうに言ってくれた。
 ミンメイが、ハルウを変えるだけの存在になれたことが、とてもしあわせで。
 もっと、ずっと傍にいたいと、強く願うようになった。

「こうしてハルウさまのお傍にいると、すごくドキドキして、すごく安心します。
 ハルウさまが、わたしの居場所なんです」

 魔界に落ちてきたあの日、赤バラの咲く庭で、ミンメイは居場所をもらった。
 ハルウの傍、という居場所を。
 そこはとてもあたたかくて、優しくて。
 ミンメイをありのまま受け入れてくれる、これ以上ないほどの素敵な場所だった。
 ずっと、許されるかぎり、ミンメイはここにいたい。

「……できるだけ、居心地のいい場所でいられるようにするから。
 ずっと、ここにいてくれ」
「もちろんです。
 嫌って言われたって離れません」

 本気だとわかるハルウの言葉に、クスリとミンメイは笑った。
 何も、心配することはないというのに。
 ハルウの傍を望んでいるのはミンメイのほうだ。
 ミンメイの望みを叶えてくれて、傍にいてほしいのだと、ハルウ自身も望んでくれている。
 これ以上のしあわせがあるだろうか。

「しあわせですね」

 自然と、そう口にしていた。
 本心がそのまま言葉としてこぼれた。

「……そうだな」

 少しの間があいて、肯定が返ってくる。
 今ある幸福を噛みしめるような、そんな穏やかな声だった。



 わたしの主は、吸血鬼。
 世界で一番優しくて、臆病で、愛おしい人なのです。



前話へ // 作品目次へ