また、約束をやぶってしまった。
これで何度目になるだろう。
ハルウの頭は正確に記憶している。今回で六度目だ。
ミンメイの血はどんな甘味よりも甘い。
その味を知ってしまっている以上、吸血鬼の本能から逃れることなどできないのかもしれない。
白い肌にしたたる赤い甘露は、ハルウを惑わしながら、ハルウを責め立てる。
首に残る吸血痕は、ハルウの罪をそのまま示している。
誰が許しても、彼女自身が許しても、ハルウは自分を許せない。
人界の書物にあるように、陽の光を浴びて灰になることができたらいいのに。
そうすれば、これ以上ミンメイを傷つけることはない。
誰よりも、何よりも大切にしたいのに。
自分が一番、彼女を傷つけてしまっている。
「よ、ダンナ」
あてどなく庭を歩いていたハルウに声をかける者がいた。
声のしたほうを振り返れば、そこにいたのは朱金の髪の大柄な男。
「……アケヒ」
「しけた面してんなぁ。
ああ、いつものことだっけ?」
そう言ってアケヒは何が楽しいのかカラカラと笑った。
「何をしに来た」
「別に、様子を見に来ただけだ。
ダンナは放っとくと全然会いに来てくんねぇからさ」
あまり外に出ないのは、立場的な問題もあるからだ。
アケヒもそれはわかっているはずだから、冗談のようなものなんだろう。
責めるつもりがないのはその顔を見ればすぐにわかる。
「あの子とはうまくやってるか?」
狙ったわけではないだろうが、核心を突く問いにハルウは息を止めた。
アケヒはミンメイを名前では呼ばない。
ハルウがどれだけ彼女に焦がれているか、知っているから。
「アケヒ、ミンメイを引き取ってくれないか」
気づけばそう口からすべり落ちていた。
もう、すべてを放り出したくて仕方がなかった。
どうにも身動きが取れなくて、誰かに現状を壊してもらいたかった。
「……それ、本気で言ってるのか?」
アケヒの声が低くなった。
その眉間には深いしわが刻まれていた。
「ダンナも知ってのとおり、オレは淫魔だ。
俺に女をあずけたら、どうなるかはわかってると思うんだけど」
「アケヒでなくてもいい。
信頼できる者に彼女をあずけたい」
とにかく自分の元から彼女を解放できるならそれでよかった。
口ではどう言おうと、アケヒは無理強いはしないだろうとわかっていた。
ミンメイは嫌なことは嫌だとキッパリ拒否できる人間だ。
ハルウのことを突き放すことのできない、甘さにも近い優しさも持っているけれど。
「ダンナのそれは、単なる逃げだろ」
アケヒの言葉が鋭く胸に突き刺さる。
自覚はあった。自分はただ、逃げたいだけなのだと。
吸血鬼としての本能から、彼女から、彼女への思慕からも。
「……逃げでも、なんでも。
俺の傍にいては、彼女は傷つくばかりだ」
ミンメイをハルウのうちにひそむ狂気から守りたかった。
傷一つつけられることなく、健やかでいてほしい。
彼女には笑顔が似合う。
それを、ハルウはくもらせてしまう。
好きで、愛おしくて、大切にしたくて。
だからこそ、狂おしいほどに求めてしまう。
まるで己を刻み込むように、血を流させて、傷をつけて。
これは自分のものだ、とでも言うように。
本当は、彼女は一度だってハルウのものになどなったことはないのに。
「傷ついたかどうかなんて結局は主観なんだから、ダンナが思ってるほどには傷ついてないかもしんないぜ。
それに、女ってのはさ、好きな男になら少しくらい傷つけられても、許しちまうもんだよ」
アケヒの言うことはよくわからなかった。
そもそもハルウはミンメイの好きな男ではない。
ハルウは、魔界に落ちてきたミンメイを拾って、衣食住を与えただけの存在。
恩人だとミンメイは言う。わたしの主、と。
自分に向けられているのは愛情どころか、友情でも親愛でもない、恩に報いらねばという思いだけ。
ミンメイは優しいから、いつもいつもハルウのことを許してしまうけれど。
それは、ハルウのことが好きだから、という理由ではない。
ハルウがミンメイの恩人だからだ。
嫌われてはいないんだろう。
好かれているほうだとも思う。
けれどそれは、一人の男としてではない。恩人として、主としてだ。
だからこそ、身動きが取れなくなっているというのに。
「ダンナ、どーせ『俺は好きな男ではないから』とか思ってんだろ。
そんなの聞いてみなけりゃわかんねぇじゃねぇか」
それが聞けたら苦労はしない。
答えを出すのが怖いから、ハルウは悩んでいるのだ。
それこそが逃げなのだと、わかっていながらも。
「どうすればいいと言うんだ」
「一度、本音でぶつかってみれば?
アンタらに足りないのは、話し合いだとオレは思うわけだ」
思わずこぼれた弱音。それに、アケヒは助言をくれた。
そう言うからには、アケヒはハルウの本音を、望みを知っているんだろう。
敏い彼になら、気づかれていても当然かもしれない。
「本音など、言えるわけがない」
ハルウの心は、望んでしまっている。
ミンメイに、ずっと、永い時を共にいてほしいと。
それはただの人間である彼女には、永遠にも近しい年月だろう。
彼女を縛りつけるわけにはいかない。
そんな資格は、自分にはない。
「意気地ねぇなぁ、ダンナは」
しょうがないな、というようにアケヒは笑う。
一見冷たく見えるアイスブルーの瞳は、子どもを見守るような優しい色を宿していた。
出会ったころはハルウよりも背が低かったのに、あっというまに大きくなり、たくましくなってしまったアケヒ。
今では精神面ですらアケヒには敵わない。
ハルウは、停滞したままだ。
きっと、家族を、大切なものを一気に失ったその瞬間から。
前にも後ろにも、一歩も動けなくなってしまっている。
このままではいけない、ということだけはわかっていた。
何度となく約束をやぶり、ミンメイを傷つけて、そのたびに結局は許されてしまって。
アケヒの言うように、本音で語り合うことも必要なのかもしれない。
けれど、もしもそのせいでミンメイを失うことになったなら。
そう思うと、ハルウはどうにも決断できずにいた。
「今はまだ、いいけどよ。
きっと、いつか逃げらんなくなるからな」
それは来たるべき未来を指し示す予言のようだった。
何も変わっていないようでいて、少しずつ逃げ道はなくなっていっている。
約束をやぶるたびに、確実にその時は近づいてきている。
いつか、ハルウは決断しなければいけなくなる。
ミンメイを望むか、ミンメイを解放するか。
その時、ハルウはきちんとこの手を放せるのだろうか。