4.進退維谷

 また、約束をやぶってしまった。
 これで何度目になるだろう。
 ハルウの頭は正確に記憶している。今回で六度目だ。

 ミンメイの血はどんな甘味よりも甘い。
 その味を知ってしまっている以上、吸血鬼の本能から逃れることなどできないのかもしれない。
 白い肌にしたたる赤い甘露は、ハルウを惑わしながら、ハルウを責め立てる。
 首に残る吸血痕は、ハルウの罪をそのまま示している。
 誰が許しても、彼女自身が許しても、ハルウは自分を許せない。

 人界の書物にあるように、陽の光を浴びて灰になることができたらいいのに。
 そうすれば、これ以上ミンメイを傷つけることはない。
 誰よりも、何よりも大切にしたいのに。
 自分が一番、彼女を傷つけてしまっている。

「よ、ダンナ」

 あてどなく庭を歩いていたハルウに声をかける者がいた。
 声のしたほうを振り返れば、そこにいたのは朱金の髪の大柄な男。

「……アケヒ」
「しけた面してんなぁ。
 ああ、いつものことだっけ?」

 そう言ってアケヒは何が楽しいのかカラカラと笑った。

「何をしに来た」
「別に、様子を見に来ただけだ。
 ダンナは放っとくと全然会いに来てくんねぇからさ」

 あまり外に出ないのは、立場的な問題もあるからだ。
 アケヒもそれはわかっているはずだから、冗談のようなものなんだろう。
 責めるつもりがないのはその顔を見ればすぐにわかる。

「あの子とはうまくやってるか?」

 狙ったわけではないだろうが、核心を突く問いにハルウは息を止めた。
 アケヒはミンメイを名前では呼ばない。
 ハルウがどれだけ彼女に焦がれているか、知っているから。

「アケヒ、ミンメイを引き取ってくれないか」

 気づけばそう口からすべり落ちていた。
 もう、すべてを放り出したくて仕方がなかった。
 どうにも身動きが取れなくて、誰かに現状を壊してもらいたかった。

「……それ、本気で言ってるのか?」

 アケヒの声が低くなった。
 その眉間には深いしわが刻まれていた。

「ダンナも知ってのとおり、オレは淫魔だ。
 俺に女をあずけたら、どうなるかはわかってると思うんだけど」
「アケヒでなくてもいい。
 信頼できる者に彼女をあずけたい」

 とにかく自分の元から彼女を解放できるならそれでよかった。
 口ではどう言おうと、アケヒは無理強いはしないだろうとわかっていた。
 ミンメイは嫌なことは嫌だとキッパリ拒否できる人間だ。
 ハルウのことを突き放すことのできない、甘さにも近い優しさも持っているけれど。

「ダンナのそれは、単なる逃げだろ」

 アケヒの言葉が鋭く胸に突き刺さる。
 自覚はあった。自分はただ、逃げたいだけなのだと。
 吸血鬼としての本能から、彼女から、彼女への思慕からも。

「……逃げでも、なんでも。
 俺の傍にいては、彼女は傷つくばかりだ」

 ミンメイをハルウのうちにひそむ狂気から守りたかった。
 傷一つつけられることなく、健やかでいてほしい。
 彼女には笑顔が似合う。
 それを、ハルウはくもらせてしまう。

 好きで、愛おしくて、大切にしたくて。
 だからこそ、狂おしいほどに求めてしまう。
 まるで己を刻み込むように、血を流させて、傷をつけて。
 これは自分のものだ、とでも言うように。
 本当は、彼女は一度だってハルウのものになどなったことはないのに。

「傷ついたかどうかなんて結局は主観なんだから、ダンナが思ってるほどには傷ついてないかもしんないぜ。
 それに、女ってのはさ、好きな男になら少しくらい傷つけられても、許しちまうもんだよ」

 アケヒの言うことはよくわからなかった。
 そもそもハルウはミンメイの好きな男ではない。
 ハルウは、魔界に落ちてきたミンメイを拾って、衣食住を与えただけの存在。
 恩人だとミンメイは言う。わたしの主、と。
 自分に向けられているのは愛情どころか、友情でも親愛でもない、恩に報いらねばという思いだけ。
 ミンメイは優しいから、いつもいつもハルウのことを許してしまうけれど。
 それは、ハルウのことが好きだから、という理由ではない。
 ハルウがミンメイの恩人だからだ。

 嫌われてはいないんだろう。
 好かれているほうだとも思う。
 けれどそれは、一人の男としてではない。恩人として、主としてだ。
 だからこそ、身動きが取れなくなっているというのに。

「ダンナ、どーせ『俺は好きな男ではないから』とか思ってんだろ。
 そんなの聞いてみなけりゃわかんねぇじゃねぇか」

 それが聞けたら苦労はしない。
 答えを出すのが怖いから、ハルウは悩んでいるのだ。
 それこそが逃げなのだと、わかっていながらも。

「どうすればいいと言うんだ」
「一度、本音でぶつかってみれば?
 アンタらに足りないのは、話し合いだとオレは思うわけだ」

 思わずこぼれた弱音。それに、アケヒは助言をくれた。
 そう言うからには、アケヒはハルウの本音を、望みを知っているんだろう。
 敏い彼になら、気づかれていても当然かもしれない。

「本音など、言えるわけがない」

 ハルウの心は、望んでしまっている。
 ミンメイに、ずっと、永い時を共にいてほしいと。
 それはただの人間である彼女には、永遠にも近しい年月だろう。
 彼女を縛りつけるわけにはいかない。
 そんな資格は、自分にはない。

「意気地ねぇなぁ、ダンナは」

 しょうがないな、というようにアケヒは笑う。
 一見冷たく見えるアイスブルーの瞳は、子どもを見守るような優しい色を宿していた。
 出会ったころはハルウよりも背が低かったのに、あっというまに大きくなり、たくましくなってしまったアケヒ。
 今では精神面ですらアケヒには敵わない。
 ハルウは、停滞したままだ。
 きっと、家族を、大切なものを一気に失ったその瞬間から。
 前にも後ろにも、一歩も動けなくなってしまっている。

 このままではいけない、ということだけはわかっていた。
 何度となく約束をやぶり、ミンメイを傷つけて、そのたびに結局は許されてしまって。
 アケヒの言うように、本音で語り合うことも必要なのかもしれない。
 けれど、もしもそのせいでミンメイを失うことになったなら。
 そう思うと、ハルウはどうにも決断できずにいた。

「今はまだ、いいけどよ。
 きっと、いつか逃げらんなくなるからな」

 それは来たるべき未来を指し示す予言のようだった。
 何も変わっていないようでいて、少しずつ逃げ道はなくなっていっている。
 約束をやぶるたびに、確実にその時は近づいてきている。
 いつか、ハルウは決断しなければいけなくなる。
 ミンメイを望むか、ミンメイを解放するか。

 その時、ハルウはきちんとこの手を放せるのだろうか。



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