ここは魔力を持つ人たちが住んでいる、魔界と呼ばれる世界。
どうしてそんなところに普通の人間であるミンメイがいるのかというと、本当に偶然、魔界に落ちてきてしまったからだ。
魔界と人界は違う次元にあるけれど、そこら中でつながっているらしい。
力に満ちあふれた魔界に、なんの力も持たない人間が迷い込んでしまうのは、たまにあることなのだとか。
ミンメイは運がいいことに、つながった先がハルウの住む城の庭だった。
覚えのない人の気配を探って庭に出たハルウと出会い、さらに運のいいことに、この城で暮らせることとなった。
置いてもらう代わりにミンメイは使用人として働いている。
掃除洗濯、料理のお手伝いに、庭師のまねごとまでしている。
使用人以外はハルウ一人しか暮らしていないというのに、この城は恐ろしく広い。
普段使っている部屋だけでなく、使っていない部屋も最低限整えなくてはならないのは、大変な作業だ。
やることはいくらでもあった。
夕食までは時間があるからと、ミンメイは廊下に飾られた花を取り替えていた。
魔界と人界は、植物に関してはあまり違いがない。
あくまで外見上のことだけで、中には魔力を秘めていたり、意思を持ち自在に動く植物もいるけれど。
動く植物はハルウの城にはいないので、そのことはほっとしている。
たまに色や大きさは違っているものもありつつも、庭に咲いている花はほとんどが人界で見知っているものだ。
庭師から分けてもらった花を一通り生け終わり、一息ついたところで。
「まだ落ち込んでらっしゃるんですか? ハルウさま」
さっきからずっとミンメイを陰から見ていた人物に声をかけた。
隠れているつもりなのかもしれないが、ちらちらと服の裾がはみ出しているのが見えていた。
人外なんだからもっとうまくできるだろうにと、不器用な主に苦笑がもれる。
「……すまない」
柱に近づいていくと、ハルウはやっと顔を出す。
何を謝っているんだろうか。
別にこの屋敷の主はハルウなのだから、何をしていたところで問題はない。
しょんぼりと肩を落とすハルウに、ミンメイは笑いかけた。
「ハルウさまがそんなふうに元気がないと、みんな心配します。
もちろん、わたしだって」
彼が落ち込んでいる理由は、聞かなくたってわかった。
ミンメイが血を吸われて倒れた日から、今日で三日。
被害者よりもずっとずっと気に病むハルウは、本当に優しすぎる。
「もう、痛くはないか?」
ハルウの手が、ミンメイの首の、包帯の上をそっとなぞる。
きっと、それを聞きたくてミンメイのあとを追っていたんだろう。
「痛くないですよ。大丈夫です」
「そうか……」
ミンメイが笑顔で答えると、ハルウはやっと表情を和らげさせた。
もっと笑えばいいのに、とミンメイは思う。
血だって少しくらいならあげてもいい。痛いのだって我慢できる。
ミンメイはただ、ハルウに笑ってもらいたかった。
ハルウは行き場のないミンメイに居場所を作ってくれた、命の恩人だから。
恩を返せるなら、少しくらいの痛みや貧血は気にならないのに。
「ハルウさま、お庭に行きましょうか」
気分転換をしてもらおうと、ミンメイはそう提案をした。
「庭に?」
「青バラが見頃なんですよ」
「ミンメイは青いバラが好きだったな」
ハルウは何かを思い出したのか、ふっと瞳を細めた。
前にミンメイが言ったことを覚えていたらしい。
「好きというか、めずらしくて。
人界には存在しませんでしたから」
魔界には人界にない色の花が存在している。
七色の花や、毒々しい色合いのマーブル、青いバラなど。
花自体は見知ったものであるために、逆にめずらしくて興味を引かれる。
「俺にとってはありふれた花だが、貴女が喜んでくれるのなら、庭一面に咲かそうか」
「そこまでしなくてもいいんです。
他の花だってどれもきれいなんですから」
めずらしくてきれいな花は別に青バラに限らない。
白にピンクと黄色をにじませたような色のチューリップだって、半透明のスズランだって、とてもきれいだ。
魔界でしか見られない花。それらを目にするたびに、魔界に来たことにも何か理由があるのかもしれないと思えて。
だからミンメイは庭を見て回るのが好きだった。
青バラだけというのは他の問題もある。ただでさえだだっ広い庭なのに、右も左も同じ花しか咲いていなければ迷子になってしまいそうだ。
それからも花の話をしながら、二人は庭に出た。
青バラが咲いているのは北の庭と中庭。今回は中庭で見ることにした。
中庭には青バラで作ったアーチがあるからだ。
晴れた空のような真っ青なバラが、きれいな曲線を作っている。
「きれいですね、ハルウさま」
「そうだな」
花を眺めるハルウの横顔は安らいでいるようだった。
気分転換は成功したと思っていいかもしれない。
「でも、ハルウさまには青バラよりも赤バラのほうがお似合いかもしれませんね」
ミンメイは周囲の花を見回しながら、そう何とはなしにこぼした。
青バラの近くには白バラとクリーム色の小さな花しか咲いていなかった。
色の相性があるからだろう。青と赤では喧嘩してしまうから。
ハルウの静かな性質は青バラと近しいけれど、似合う色はと聞かれたら、ミンメイは赤だと答える。
それは……。
「それは……血の色だからか?」
「え……?」
ハルウの沈んだ声による問いに、ミンメイは思わず聞き返してしまった。
「いや、なんでもない」
あわてたようにそう言い、彼はそのまま顔を背けてしまった。
ミンメイからの答えを拒んでいるかのように。
血の色。吸血鬼であるハルウにとって切っても切れない色。
けれど、ミンメイはそんなつもりで赤バラが似合うと言ったわけではなかった。
ハルウは何をそんなに気にしているんだろうか。
何をそんなに……怯えているんだろうか。
顔が背けられているほうへと移動し、ミンメイはハルウの頬へと手を伸ばす。
見開かれる真紅の瞳を見つめ、ミンメイは微笑んだ。
「血の色というよりも、ハルウさまの瞳の色です。
宝石みたいな、真っ赤な瞳。
ハルウさまの瞳よりもきれいなバラはないかもしれませんね」
花の赤、宝石の赤、夕焼けの赤。
この世に存在するきれいな赤をすべて溶かし込んだような、そんな色。
ミンメイはハルウの赤い瞳が好きだった。
人が持つには恐怖を呼び覚ますような色だろうに、ハルウのその赤は不思議と優しくあたたかい。
血を吸われるその時でさえ、悲しいくらいにきれいだと思ってしまう色。
血の色というのも、間違いではない。
ハルウの感情を映してくれる、血の通った色だ。
「貴女は……目を、そらさないんだな」
どこか呆然としたように、ハルウはつぶやく。
「そらす必要がありませんから」
ミンメイはどんなハルウでも見ていたい。
だから、目をそらしたりなんてもったいないことは、絶対にしない。
ハルウの手が、ミンメイの髪を梳く。
長くはないその髪に、ハルウは口づけを落とした。
ミンメイは声にならない悲鳴を上げた。
「ありがとう、ミンメイ」
混乱したミンメイには、その言葉の意味を半分も理解できなかった。
お礼を言われるようなことなんて何もしていない。
けれど、ハルウの瞳があまりにも優しく彼女を映していたから。
ミンメイは何も言えなくなくなってしまった。
ただ、はぁ、と意味もなく相づちを返すことしか、できなくて。
それでもハルウは、赤い瞳にやわらかな光を宿していた。