真夜中。草木も寝静まる頃。
彼はミンメイの部屋へと忍び込んでいた。
もし彼女が起きていれば――起きるだけの元気があれば、きっと真っ赤になって怒ることだろう。
年頃の女性の部屋に勝手に入るなと。
ミンメイがここで暮らすことになったとき、そう注意されたことを思い出す。
長らく旧知の使用人しかいなかったこの城に、ハルウが入ってはいけない部屋などなかった。
他人がいるということに慣れず、城中を意味もなく歩いていたハルウがたどり着いたのが、彼女の部屋だったのだ。
声をかけることなく、時間も考えずに、ハルウは部屋に入った。
あのとき浴びせられた怒声は、ハルウを驚かすのに充分なもので、とても新鮮だった。
もう、ずいぶんと昔のことのようだ。
それだけ彼女がこの城になじみ、己の心の中に住み着いてしまっているということなのだろう。
「……すまない、ミンメイ」
ベッドに横たわる彼女に、ハルウは謝る。
五感の鋭いハルウには、この暗闇の中でも彼女の青白い顔色が見えているし、血の匂いもかぎ取れる。
それらは、他でもないハルウの手によるものだった。
吸血鬼の本能に負け、ミンメイの血を満足するまで貪り尽くしたから。
ハルウが我に返ったときには、ミンメイはすでに気を失っていた。
錯乱しそうになったハルウはそれでも使用人を呼び、治療を任せた。
こういったことは初めてのことではないどころか、そろそろ片手では足りなくなる回数同じことをくり返しているので、使用人も慣れたものだった。
できればずっとミンメイについていたかったけれど、まずは本能を抑え込まなければならなかった。
吸血鬼にとって血は栄養源であると共に、嗜好品。いくらでも摂取できるものだ。
おいしそうな血の匂いから、すぐに離れる必要があった。そして、自身についた彼女の血を洗い流す必要も。
ようやく飢餓感が去り、次におそってきたのは、死にたくなるほどの罪悪感。
ただ謝りたいと、ハルウはミンメイの眠るベッドの横で、まんじりとせずに彼女が目覚めるのを待った。
ミンメイの部屋から一歩も動こうとしないハルウに、両親の代から仕えてくれている使用人は苦笑して、介抱は任せました、と言った。
それからミンメイは半日の間、目を覚まさなかった。
やっとその深緑の瞳が開かれたのは、夜と呼ばれる時分。
ミンメイは起きたばかりだというのに元気にハルウを怒り、すぐに悲しそうな顔をして、結局はハルウのことを許してしまった。
ハルウはそのことに、安堵と落胆を覚えた。
愚かなほどのミンメイの優しさに、己が甘えきっていることを自覚していたから。
『約束、やぶってもいいんですよ』
その誘惑はとても甘美で、抗いがたいものがあった。
それでもハルウは、どうしてもうなずくことができなかった。
ミンメイのしあわせを願うのなら、許されることではなかったから。
「ミンメイ……」
深い眠りに沈む少女の名を、音にする。
いまだ血が足りず体調の悪い彼女は、多少の物音では目を覚まさないだろう。
ただの人間であるがゆえに、気配にも敏くはない。
だからこうして、ハルウは彼女に知られることなく、部屋に訪れることができた。
やわらかな頬に触れれば、ぬくもりを感じることができる。
心臓からは、血脈に血を流す音が聞こえる。
彼女は、生きている。
それを確認したくて、ハルウはここに来た。
草葉よりも生き生きとした、深い緑の瞳を見るだけでは足りない。
倒れたためにか細くかすれた、けれど彼女らしさを失わない芯の通った声を聞くだけでは足りない。
血の流れる肌に触れ、その体温を感じても、まだ足りなかった。
ハルウはそれほどまでに、ミンメイそのものに飢えていた。
いけない、とわかっている。
ハルウが彼女の血を欲するのは、彼女自身を欲しているから。
理性をなくすまでの間隔がだんだんと狭まっているのは、想いが深まるほどに耐えがたくなってきているから。
ミンメイのしあわせのためには、この想いは断ち切らなければならない。
胸を焦がす愛おしさを、消してしまわねば。
『また、約束しましょう』
きっとミンメイは、その約束もまたやぶられることを理解していた。
それでもハルウのために、約束をしてくれた。
それは頼りなくもたしかに二人をつなぐ、絆だったから。
けれどその約束に縛られ、身動きが取れなくなっていることも事実だった。
守れない約束は、悲しい。
交わせば交わすほど、己の惨めさを思い知る。
いっそ自分を殺してくれ、と思う。
彼女の手で灰となれるならこの上のない至福だろう。
そうすればミンメイは自由だ。
束縛されるわずわらしさからも、噛まれる痛みからも、解放される。
そして自身も、ミンメイをこの手で殺めてしまうかもしれないという恐怖から、解放される。
飢餓は、唐突に襲ってくる。
守るべき約束を、守りたい約束を、思い出す間もない。
ハルウが我を忘れて、傷ひとつないすべらかな肌に牙を突き立てるとき、ミンメイは笑うのだ。
彼女の微笑みを見ると、ハルウは思ってしまう。
またなのか、と。まだなのか、と。
また、彼女はハルウを許すのだ、と。まだ、彼女はハルウを見捨てられないのだ、と。
あと何度くり返せば、ミンメイはハルウに愛想を尽かしてくれるのだろう。
どうしてミンメイは毎回毎回、ハルウを許してしまうのか。
ミンメイがハルウを見限らないかぎり、ハルウは彼女との日々をあきらめることなどできない。
彼女の隣にいる幸福を、自分から捨て去ることはできない。
もう少し、もう少しだけと、望んでしまう。
彼女をこの狭い世界に縛りつけ、人としてのしあわせから遠ざけてしまっていると理解していても、なお。
「俺は……どうすればいいんだろうな」
声に出したところで、答えは出ない。
否、自分の中での答えならばとっくに出ている。それを実行するほどの覚悟がないだけで。
彼女を解放すること。
ここは魔界。本来なら人間の住むべき地ではないのだから。
最初は、単なる好奇心だった。
自分の領地に落ちてきた人界の娘。
どうせ帰っても親も親戚も、頼れる人はどこにもいないと寂しげに語る彼女に、ならばここで暮らせばいいと告げた。
誰からも顧みられず、誰からも必要とされることのないハルウ。
そんな彼に、彼女は屈託のない笑みを向け、心からの怒りを向けた。
彼女はなんの力も持たないというのに、健やかで朗らかで。
興味は、すぐに好意へと変わった。
その深緑の瞳に自分を映してほしくて、そのあたたかな心に自分を住まわせてほしくて。
ほのかな想いが、ハルウに彼女の血への渇欲を生んだ。
守りたい。けれど、傷つけたい。
彼女のためには、手放さなければ。それでも、彼女が欲しい。
心中で対立する意志は、どちらもたしかにハルウ自身のものだった。
「すまない。……けれど、もう少しだけ」
ミンメイの髪を梳きながら、ハルウはそうつぶやく。
やわらかな髪はさわり心地がよく、ハルウの手を受け入れているように思えた。
陽の光を浴びると金にも見える栗色の髪は、ミンメイそのもののように明るくあたたかな色をしている。
「もう少しだけ、傍にいてくれ」
小さくささやいて、ハルウはミンメイの額へと口づけた。
そう願ってしまうのは、ハルウの弱さでしかないのだろう。
ミンメイが許してしまうから、望みを捨て去ることができない。
幾度約束をやぶっても、許されてしまうから、またくり返してしまう。
もしいつか、約束が必要なくなる日が来るのなら。
きっとその時、二人の関係は変わることになるのかもしれない。
それまでは、不安と期待を抱いたまま、彼女に見限られる日を待ちながら。
彼と彼女は何度でも約束を交わすんだろう。