ああ、まただ。
目が覚めて一番に思ったのは、あきらめを含んだやるせなさ。
ベッドから起こせない身体。覚えのある倦怠感。
重いまぶたを無理やり上げると、そこには泣きそうな顔をした美少年。
彼女が倒れた原因が、心配そうに覗き込んでいた。
「わたし、言いましたよね。噛むなって。
あなた、言いましたよね。噛まないって」
開口一番、ミンメイはそう言った。
「ああ」
ハルウは顔に似合わぬ低い声で返事をする。
情けない顔をしているわりに、声は落ち着いていた。
それに腹が立って、ミンメイはだるい身体に鞭打って勢いよく身を起こした。
ベッドの横に直接座り込んでいたハルウを見下ろし、キッと睨む。
彼の血のように赤い瞳がかすかに揺れる。
「何度目ですか、約束やぶるの!」
「四度目」
「数を答えてほしいわけじゃありません!」
ずれている、とミンメイは思う。
それとも魔界の住人にとってはこれが普通なんだろうか。
ここで暮らすようになって半年ほどになるが、主であるハルウの交友関係が狭いせいでよくわからない。
「もうしない」
「それも何度目ですか!」
「四度目」
「だからっ……!」
「すまない」
ぽんぽんとすぐに返ってくる声は、けっして適当に答えているわけではなく。
それ以外に言葉が見つからないから、なのだと思う。
きっとミンメイが起きるまでの間、どう謝ろうかずっと考えていたんだろう。
青ざめた顔に、潤んだ瞳。断罪を待つような心地で、ずっと。
「……謝ってほしいわけでも、ないんです」
怒りはしぼんで、代わりに悲しみがわき上がってくる。
約束をやぶるあなたが。約束をやぶらずにはいられないあなたが、悲しい。
「別に、あなたが欲しいなら、ちょっとくらいわたしの血を飲んでもいいんです。
そりゃあ、頭からばっくり食べられちゃったり、体中の血を飲まれちゃったりしたら困りますけど。
あなたはそんなことしないって、わかってますから」
自分の首に巻かれた包帯に触れる。
ハルウが好きに貪った痕は、完全に消えるまでしばらくかかるはず。
これまでの経験から言うと二週間程度。その間、ハルウは何度、今みたいな泣きそうな顔を見せるのだろう。
まるで、彼のほうが被害者であるかのように。
正しい被害者であるミンメイは、それほど気にしていないというのに。
「だけど、ハルウさまが言ったんです。
血を飲むのは嫌だって」
ミンメイから言い出したものではあったけれど、元々は彼のための約束だった。
本能に負けて、初めてミンメイの血を飲んでしまった時。
今と同じように、貧血で倒れた自分よりも真っ青な顔をしていたハルウのために。
『もう噛まないって約束してくれれば、それでいいです』
あなたがそれを望むなら、と思いつきで交わした約束だった。
それ以外に理由なんてない、約束だった。
少なくともミンメイにとっては。
「貴女を傷つけたくない」
「約束をやぶられるほうが、傷つきます」
「……すまない」
ハルウはしおれるように、うつむいた。
床に座っている彼がそうすると、ミンメイからは表情をうかがうことができない。
話すときは目を合わせて、と何度も言っているのに。
思わずむっとして、ミンメイはベッドの端に座ってから、少年の頬に手を添えて上向かせた。
魅せられそうになるきれいな真紅の瞳に、ふくれっ面のミンメイが映る。
「本能に従うなら最初からそう言ってください。
本能に抗うなら最後まで抗い通してください。
あなたが中途半端だと、わたしもどうすることもできないんです」
ミンメイとしては、さっきも言ったように加減さえしてくれるなら血を吸われてもかまわない。噛まれるのは痛いけれど、彼が生きるためと思えば大丈夫。
問題なのは、彼の気持ち。
ためらいながらも、結局本能に負けるなら、もう開き直ってしまえばいいのに。
少しくらい、傷つけても気にしなければいいのに。
身体の傷はちゃんと治るものなのだ。血はまた作られるものなのだ。
我慢した反動でたくさん血を取られて倒れるより、定期的に摂取したほうがお互いのためになるはず。
意味のなくなりつつある約束に、ハルウはいつまですがっているんだろう。
「貴女を、傷つけたくない」
「希望じゃ、駄目なんです」
傷つけたくない、という気持ちはわかる。
ミンメイも、ハルウを傷つけたくないと思うから。
でも、彼女と彼は違う。
ミンメイは動物の肉を食べるとき、こんなふうに悲しんだり傷ついたりしない。
自分が生きるためだからと、当然のように受け止めている。
彼には、それができない。
とても優しくて、臆病な人だから。
ミンメイを傷つけることを恐れながら、それでも本能に負けてしまう弱い人。
「貴女の血を見たくはない。
まして、俺が流させるなど……」
こんなふうに、泣きそうな顔で切々と理想論を語るような人。
血を見たくない吸血鬼なんて、彼以外にいるんだろうか。
「わたしを傷つけないでください。
わたしを傷つけたことに傷つくあなたを見たくないんです」
ミンメイが傷つくのは、ハルウに噛まれるせいじゃない。
彼が彼女を傷つけたと思って傷つくから。
首につけられた傷なんかよりも、自分を責める彼を見ることのほうがよっぽどつらい。
ハルウに守られているおかげで、傷ひとつない肌に牙を突き立てるとき、彼は泣くのだ。
泣きながら、それでも本能に抗いきれずに、ミンメイの血を貪る。
少年の涙を見ると、ミンメイは思ってしまう。
またなのか、と。まだなのか、と。
また、彼は約束をやぶるのだ、と。まだ、彼は約束を守りたいと思っているのだ、と。
あと何回くり返したら、この人はあきらめるんだろう。
約束なんて、しなければよかった。
ハルウの罪悪感を減らすために交わしたはずの約束が、ハルウを縛る。
苦しいなら、抗いがたいなら、あきらめてしまえばいいのに。
ハルウがあきらめないかぎり、ミンメイは彼との約束を取り消すことができない。
守られない約束は、意味がなくても、約束として残ったままだ。
「約束、やぶってもいいんですよ」
朔月の夜のような、真っ黒のきれいな髪をそっとなでながら、ミンメイは言った。
わたしは大丈夫だから、と思いを込めて。
それでもハルウは首を横に振る。
ああ、やっぱり、まただ。
「約束する。
もう、貴女を傷つけたりはしない」
すでに形だけになってしまっている約束。それでもたしかに二人をつないでいる、約束。
すがっているのは、もしかしたら彼だけではないのかもしれない。
ハルウは包帯の上から、ミンメイの首に口づけを落とした。
いたわるように、優しく。
傷が治るまで過保護に磨きがかかりそうだ、とミンメイは苦笑する。
「また、約束しましょう」
そうしてまたくり返す。
この約束も、きっとまた一月もすればやぶられる。
それでもいつか、約束が必要なくなる日まで。彼があきらめるその日まで。
彼女と彼は何度でも約束を交わすんだろう。