5.わたしの主は、もろい心

 つかまれている肩が痛い。
 爪が食い込んでいるような気がする。
 けれどそんなことは今はどうでもよかった。
 それ以上に、痛いところがあったから。

「っ、あ……」

 じゅる、と液体をすする音がする。
 それはミンメイの首元からだ。
 首に穿たれた牙が、ミンメイに血を流させる。
 その血を吸っているのは、もちろん我が主、ハルウだ。

「ハルウ、さま……」

 ミンメイは少年の名前を読んだ。
 今の彼には、きっと聞こえてはいないだろう。
 ひやりと、首に冷たいものを感じた。
 それがハルウの涙だと、ミンメイは知っている。

「……泣かないで」

 首に顔を埋めるハルウの頭を、ミンメイはそっとなでた。
 短いのがもったいないくらいにきれいな黒い髪を、梳くようにして。
 ミンメイの痛みを思って泣く少年を、そのままにはできなかった。
 大丈夫、大丈夫。
 これくらい、全然痛くなんてない。
 あなたを生かすための糧になれるなら、我慢できるから。
 言葉の代わりに、ミンメイはハルウの頭をなで続けた。

「ん……やっ……」

 痛みはだんだんと、快楽に近くなっていく。
 吸血鬼の唾液のもたらす効果なのだと、以前ハルウに教えてもらっていた。
 ちゃんと手順を踏めば、甘噛みされた程度の痛みしか感じさせずに血を吸うこともできるのだという。
 いつもミンメイが痛みを堪えなければいけないのは、ハルウがいきなり噛みついてくるから。
 ほとんど自我が残っていない状態で吸血するからだ。

 身体から力が抜けていく。
 ハルウの頭をなでていた手も、だらんと垂れ下がる。
 血が減っていっているからなのか、体温が低くなっていっている気がする。
 もぞもぞとするような気持ちよさを感じながらも、少しずつ意識が遠くなっていく。

「ハルウ、さま」

 気にしないで、泣かないで、と言うように。
 ミンメイはもう一度、彼の名前を呼んだ。
 それきり、ぷつりと意識が途絶えた。


  * * * *


 目が覚めても、そこにハルウはいなかった。
 八度目にして、初めてのことだった。
 いつもなら、心配だからなのか謝るためになのか、ハルウはミンメイが起きるのを待っていたのに。
 使用人に聞いたところ、自室にこもっているらしい。
 ハルウさまを怒らないであげてね、とついでに言われてしまったけれど、そもそもミンメイは怒ってなんていない。
 いつもと違うことに戸惑い、どうしたんだろうか、と心配にもなった。
 とにかくハルウに無事な姿を見せようと、ふらつく身体を叱咤しながら、ハルウの部屋へと向かった。

「ハルウさま、いらっしゃいますか?」

 トントンとノックをしてから、そう呼びかけてみる。
 中から返事は返ってこなかった。
 けれど、使用人から聞いた話では、ハルウは部屋にいるはず。
 意を決して、ドアノブを回して扉を開いた。

「……ハルウさま」

 部屋には、たしかにハルウがいた。
 ソファーに丸まって座り込み、手のうちの何かを見ているようだった。
 ミンメイが近づいていくと、ハルウは持っていたものを握り込む。
 そして、もう片方の手の動きで、ミンメイに隣に座るように促した。

「これを」

 ハルウはそう言って、抱きつくように首に手を回してきた。
 いきなりなんだろうかと驚いたが、首に冷たいものが触れたのがわかり、ペンダントをかけようとしているのだと気づいた。
 プレゼント、だろうか。
 言葉だけで謝るのでは足りないと思って、アクセサリーを用意した?
 なんとなく納得がいかなかった。

 金具を無事につけられたのか、ハルウが離れていく。
 その手をなんの気なしに目で追って、ミンメイははっとしてハルウの手首をつかんだ。

「ハルウさまっ!?
 手が……」

 手のひらも指も、熱を持って真っ赤になっていた。
 特に握り込んでいたほうの手は、火傷を負ったように皮がただれている。

「ずっと、こうしておけばよかった。
 これなら私はミンメイの血を吸えない」

 ハルウのその言葉で、自分の首にかけられたものがなんなのか、ようやく理解した。
 銀製のチェーンに、銀製のペンダントトップ。
 日の光も十字架もニンニクも怖がらない吸血鬼が、忌み嫌うもの。
 さわることができない、というわけではないらしい。それはハルウがペンダントを持っていたことからもわかる。
 けれど、火傷のようになってしまっているように、銀は吸血鬼の肌には毒になる。

 たしかに、これをミンメイの首から下げておけば、抑制にはなるだろう。
 わかっている。ハルウの気を楽にするためにも、そうしたほうがいいのだということは。
 それでも、自分は。
 ハルウの手首をつかんだ手に、ぎゅっと力を込めた。
 この人を、傷つけたくない。

「せっかくのハルウさまからのプレゼントですけど、いただけません。
 ハルウさまは、わたしの主です。
 主を傷つけるものを身につけるわけにはいきません」

 きっぱりとそう言って、ミンメイはペンダントを外した。
 ペンダントは皮肉にも十字架をモチーフにしていた。きっと吸血鬼避けにと作られたものなんだろう。
 ハルウの肌を傷つけないよう、ハンカチでくるんでからハルウに手渡そうとする。
 けれどハルウは受け取ろうとはしない。

「お願いだ、ミンメイ。
 俺に貴女を傷つけさせないために」
「できません」

 再度、ミンメイは断った。
 ミンメイにはできない。
 たとえ、間接的だろうと、ハルウを傷つけるようなことは。
 それが他でもないハルウの頼みだったとしても。

「貴女の血を見るたび、俺は死にたくなる。
 自分の罪を自覚させられる」

 ペンダントを持った手を、両手で包み込むように握られる。
 顔は伏せられていて、表情は見ることはできない。
 まるで祈っているようだ、とミンメイは思った。
 魔界の住人に、祈る対象があるのかは知らなかったけれど。

「……いっそ、俺を殺してくれ」

 それはとても静かで、けれど切実な響きを宿していた。
 泣いているのではと思うほどに、震えた声。
 本心から、そう言っているのだと、理解できてしまった。

「ハルウさまの、バカっ!!」

 ミンメイは思わず、そう叫んだ。
 言わずにはいられなかった。
 ハルウが驚いたように顔を上げたけれど、止まらなかった。

「どうして、どうしてそんなことを言うんですか!
 ハルウさまが、わたしを救ってくれたのに。わたしに居場所をくれたのに。
 そのハルウさまが、今さらわたしを一人にするんですか……?」

 最後のほうは涙声になってしまった。
 ハルウは、一人ぼっちだったミンメイに、ここにいてもいいと言ってくれた。
 それがどれだけうれしかったのか、ハルウにはわからないんだろうか。
 ミンメイにとっては、この城ではなく、ハルウ自身がよりどころで、居場所そのものだ。
 そのハルウが、殺してほしいと、死にたいと言った。
 ミンメイを置いて、一人で。
 また、自分は一人ぼっちに逆戻りになってしまう。
 ハルウがいなくなるということは、ミンメイにとって恐怖であり、絶望だった。

「違う、違うんだ、ミンメイ」
「違いません。ハルウさまはわたしを見捨てようとなさってます」

 責めるように、ミンメイはハルウに厳しい視線を向けた。
 本当なら、殺したくなんてない、死んでほしくはない、そう言うべきなんだろう。
 けれどミンメイは、ハルウの言葉が衝撃すぎて、自分の欲求に素直になってしまっていた。
 置いていかれたくない。一人にされたくない。
 お願いだから、見捨てないで。

「違う。見捨てられなければならないのは、俺のほうだ」
「……わたしが、ハルウさまを見捨てるわけがないじゃないですか」
「そうだな、ミンメイは優しいから」

 真紅の瞳が細められる。
 悲しげに、ハルウは苦笑する。
 ハルウは勘違いしている。ミンメイは優しくなんてない。
 本当は、誰よりも臆病なのはミンメイのほう。
 優しく見えるのなら、それは見返りを求めてのものだ。
 わたしを一人にしないで、と。
 ミンメイは心の底で、そればかりを願っている。

「ハルウさまは吸血鬼なんです。
 血が欲しくなるのなんて、当然です」

 吸血鬼は血を糧にする。毎日のご飯と同じだ。
 きっと、人が孤独を厭うものであるように。
 血を欲してしまうのは、吸血鬼なら仕方のないこと。

「俺を許さないでくれ、ミンメイ」
「無理です、そんなの。
 わたしは、ハルウさまにあげられるものがあることが、うれしいんですから」

 ミンメイは笑ってみせた。
 臆病で、もろくて、優しすぎる主に。
 自分の心に嘘はつけない。
 ハルウにあげられるものは、すべてあげたい。
 死にたくはないから、血をすべてあげることはできないけれど。
 ハルウが生きるために必要な量なら、きっと自分でもあげられる。

「……ミンメイのほうこそ、馬鹿だ」

 ハルウの瞳は、少しうるんでいるように見えた。
 朝露に濡れた赤バラのようだ、とミンメイは思った。

「二人ともバカってことですね。
 似た者同士でいいじゃないですか」

 ふふっ、とミンメイは笑う。
 それにハルウも少しだけ笑みをこぼした。
 馬鹿なのも、臆病なのも、相手に対して優しくしたいのも。
 二人は似ているのかもしれなかった。
 ミンメイは、ハルウとは違ってずるいだけだけれど。

 ハルウの優しさには、敵わないとわかりきっていたけれど。



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