前に述べたと思うが、魔術師は毎朝勇者姉を起こしに部屋まで入っている。
やましいことは何もしていないと、もちろんご理解いただけていることだろう。
これは、そんなやましくもなんともない、日常的な朝の一コマだ。
「アーネリア、起きて」
魔術師はベッドに近づき、勇者姉の肩をつかんでゆさゆさと揺らす。
その力に遠慮や加減は見られない。そんなことをしていたら勇者姉はいつまで経っても起きないのだ。
以前は半ば三人で暮らしていたようなものであったため、魔術師は勇者姉の寝汚さを充分すぎるほどに理解していた。
「おはよぉ〜」
しばらくゆすっていると、ようやく勇者姉は眠りから覚めたようだ。
だが、ここからが長いことも魔術師は知っている。
まだ勇者姉は完全に目覚めてはいない。寝ぼけている状態である。
その証拠に、まぶたは閉ざされたままだった。
「おはよう、アーネリア。朝食は何がいい?」
魔術師は身体をゆする手を休めず、音量大きめで声をかける。
布団はすでに最初の段階ではぎ取ってあった。
今は春だから、寒さで目が覚めるということは期待できなかったが。
「なぽりたんすぱげてぃ……ぴーまんぬきで……」
「わかった。ほら、起き上がって」
言いながら魔術師は勇者姉の背中に手を差し入れる。
少々強引に起こそうとするが、勇者姉は起き上がろうとはせず、ぐずって抵抗すらしてみせた。
所詮は男と女。二歳の年の差程度で男女の力の差を覆すことはできない。無理やり起こすことも、魔術師にはできた。
けれど基本的に、魔術師は勇者姉に甘い。
無理強いすることなく、根気よく身体をゆさぶりながら声をかけ続ける。
「……ね……むい……」
けれど勇者姉は一向に起きる気配を見せない。
今日はいつも以上に眠気が強いようだ。
きっと前日に夜遅くまで仕事でもしていたのだろう。勇者姉は職人気質で、一度集中すると周りが見えなくなる。
今日は勇者たちと合流するのが少し遅くなるかもしれないな、と魔術師は脳内で冷静に時間を計算していた。
だから、反応が遅れてしまった。
「わっ」
一つに結んで前に流していた髪を勇者姉に引っ張られ、魔術師は勇者姉の上に倒れ込んだ。
ぎりぎりのところで腕をつき、勇者姉をつぶすことだけは避けられた。
けれどこの体勢、見ようによってはとても怪しい。いかがわしい。下手をするとムーン行きである。
逃げようと思えばできなくはないが、ふかふかのベッドにその気力が萎えてしまった。
何より、魔術師のものよりも高い、勇者姉の体温。
日の光をたくさん浴びて育った野花は、きっとこんな匂いがするだろう、と魔術師は思った。
「いっしょ、ねよ〜」
舌っ足らずなしゃべり方で、勇者姉は提案してきた。
それは魔術師にとって大変魅力的な誘いだったが、是を返しそうになる口を理性が押しとどめた。
勇者姉に、規則正しい生活をさせること。
自分のことに無頓着な彼女の健康のために、魔術師と勇者がずっと気を配ってきたことだ。
今ではそれは魔術師の生きがいにもなっていた。
「寝ぼけてないで、起きて」
「や〜」
勇者姉の横に身体をずらし、力を込めて起こそうとする魔術師に、勇者姉は思いきり抵抗する。それはもう癇癪を起こした子どものように。
力いっぱい髪を引っ張られるものだから、痛い痛い。
いっそのこと魔法でベッドを破壊してしまおうか、と魔術師の脳裏に危険な案がよぎる。勇者がいたら盛大に突っ込まれそうである。
「ふふふふ、まーじゆのかみはきれいよねぇ」
笑い声をもらしながら、勇者姉はつかんでいた魔術師の髪に指を通す。
魔術師の黒くつややかな髪が、勇者姉の指の間からこぼれていく。
その様子を魔術師はじっと見つめていた。
「そんなこと言うのは、アーネリアくらいだよ」
ぽつりと、魔術師はつぶやいた。
小さくて、頼りなげで、いつもの彼らしくない声音で。
困ったように微笑む魔術師は、どこか泣きそうにも見える。
けれど、寝ぼけている勇者姉はもちろんそんなことには気づかない。
「わたし、すきよ、まーじゆのかみ」
「髪だけ?」
「もちろん、まーじゆがだいすきよ」
ふんにゃり、と勇者姉は笑顔を浮かべてみせた。
その安心しきった表情に、魔術師の中の、普段は厳重に鍵をかけてある欲が反応を示した。
「ねえ、アーネリア。そんなに無防備だと、襲うよ?」
勇者姉が聞き逃さないように、魔術師は彼女の耳元でささやく。
寝ぼけたままの勇者姉の、はちみつ色の巻き髪を一房すくい取って、口づけた。
反対の手で勇者姉の頬にそっと触れると、くすぐったかったのか彼女はふふっと笑みをこぼした。
「まーじゆはおそえないわよ〜」
少しも動揺することなく、それどころか眠気が失せることすらなく、勇者姉はそう返した。
勇者姉は得意顔をしていた。
寝ぼけていて、目は完全に閉じているのに、とても表情豊かだ。
どこか憎めない表情を見て、魔術師はくすりと笑った。
「……襲えない、ね。たしかに」
魔術師はため息と共にそうこぼす。
図星を指されて、手を出してしまおうかという気は急速にしぼんでいった。
男として見られていないようで複雑ではあるが、理解されていることが面映ゆくもある。
何があろうと、魔術師には勇者姉の望まないことはできない。
それがどれだけ忍耐力を必要とすることであっても。勇者姉のためなら我慢する苦しみすら甘美に感じられる。
勇者姉を第一に考えるのは、魔術師にとって当然のことであった。
「ね。だから、ねよ〜」
「……まったく、アーネリアは」
自分を共犯者に仕立て上げようとする勇者姉に、魔術師は苦笑してしまう。
ベッドはふかふかで、勇者姉の隣は心地よく、二度寝とはとても抗いがたいものだ。
勇者姉の誘惑に、魔術師の理性が負けた瞬間だった。
魔術師が勇者姉を抱き寄せると、ぬくもりはおとなしく腕の中に収まった。
目を閉じれば、感じるのは日だまりのようなあたたかさと、健やかで可憐な野花の匂い。
こうして一緒に寝るのはいつぶりだろうか、と魔術師はぼんやり思案する。
それは別に答えを必要としている疑問ではなく、浮かんですぐに消えていった。
あとに残ったのは、幸福だ、という強い実感だけ。
「朝食が遅くなるのも、僕があとでユースに怒られるのも、アーネリアのせいだからね」
魔術師は勇者姉に責任をなすりつけるが、すでに夢の中へと旅立っていた勇者姉には聞こえていない。
勇者姉が寝ていると知っていて、魔術師は彼女の額に口づけを落とした。
それだけで満足したようで、魔術師も本格的にベッドに身を沈めた。
すうすうという穏やかな寝息をBGMにしていると、ゆるやかに眠気は訪れた。
結局、二人が二度寝から目を覚ましたのは昼ごろだった。
魔術師は昼食を作ってから勇者一行の元に戻り、当然ながら勇者に雷を落とされた。
連絡すらよこさないでいったい何をやっていたんだ、という勇者の当然の問いに、魔術師は正直に寝ていたと答えた。
それが誤解を呼び、魔術師は危うく聖剣の錆になるところだった――と言うほど危うくはなく、魔術師はあっさり勇者の攻撃を防いでいた――が、誓ってやましいことはしていないと言った魔術師に、勇者も剣を収めた。
そう、やましいことは何もしていない。
たとえ一緒のベッドで寝ようとも、たとえ髪や額にキスをしていようとも、たとえ「襲うよ?」とか言っちゃったりしていようとも。
R指定になるようなことはしていないのだから、決してやましくはないのである。