父親がいなくなったのは、奈穂子が三歳のときだったらしい。
そのころの記憶はほとんどなくて、父親の顔も、声も、父親との思い出も、なんにも覚えていない。
ただ、奈穂子を抱き上げてくれた大きな人がいたような記憶だけは、うっすらと残っていた。
父は蒸発したのだという。
元々女性関係に問題のある人で、母と結婚してからも複数人と付き合いを続けていた。
そのうちの一人と、遠くへ行ってしまったんだと。
近所の人の噂話をつなぎ合わせると、そういうことらしかった。
母親からはっきりと聞いたことはない。
当時は蒸発の意味すらわからないほどに子どもだったし、ある程度大きくなると多少空気を読めるようになっていた。聞いてはいけないことだとわかった。
けれど、きっと当たらずとも遠からずなんだろう。
奈穂子を育てるために、母親は一生懸命働いてくれた。
朝から夜まで働きづめで、保育園に迎えに来るのはだいぶ暗くなってからだった。
いつも保育士と一緒に遊んでいた奈穂子は、ある日、部屋の隅で本を読んでいた男の子を誘った。
それが、健司だった。
健司の母親もその当時はパートに出ていて、奈穂子の母と同じくらい迎えが遅い日がちょくちょくあった。
暗くなってからは外では遊べないから、室内で本を読んでもらったり、歌を歌ったり、折り紙や工作をしたり。おままごとに渋々付き合ってくれたりもした。
奈穂子は健司のことがとても好きだった。
健司はいつも、どんなときでも、奈穂子を拒絶しなかったからだ。
遊ぼう、と言うと遊んでくれた。本を読んで、と言うと読んでくれた。これなんて読むの、と聞くとちゃんと教えてくれた。
みんなの前で奈穂子から手をつないだときも、恥ずかしそうにしていたけれど決して振り払ったりはしなかった。
奈穂子は誰よりも、健司が好きだった。
どの先生よりも健司に懐いた。
帰りたくない、けんちゃんと一緒にいる、と泣くほどに。
幸い奈穂子の家と健司の家はそう離れてはいなかった。
自然と、休日には互いの家に遊びに行くくらいの仲になった。
奈穂子と健司が五歳のときのこと。
保育園に金魚がやってきた。
園児が夏祭りで金魚をすくったけれど、家には水槽がなかったらしい。
保育士の一人が金魚鉢を持っていたので、保育園で飼うことになったのだ。
園児が中に手を突っ込んだり、鉢を倒したりしないよう、金魚鉢はいつも保育士の管轄下にあった。
初めは物めずらしさに金魚鉢に群がっていた子どもたちも、ただせまい鉢の中を泳いでいるだけの金魚に、次第に興味を失っていった。
奈穂子はその金魚鉢を眺めているのが、とても好きだった。
薄水色のまあるいフォルム。白や灰色の小石。ゆらゆらと揺れる水草。そしてそこで優雅に泳ぐ赤と黒の二匹の金魚。
どれだけ長い時間見ていても飽きなかった。
そして、それは健司も同じだった。
今まで好きな遊びがかぶったことのない奈穂子と健司は、そのとき初めて意気投合した。
二人で金魚鉢を眺めているだけで、うれしかった。楽しかった。気づいたら驚くほど時間が過ぎていた。
いつまでも金魚鉢の前から動かない二人に、保育士はたまに餌やりをさせてくれるようになった。
金魚は餌をあげたらあげただけ食べちゃうから、気をつけてね。
餌の入った箱を受け取るとき、そう保育士に注意された。
その言葉に、奈穂子は怖くなった。
人よりも食べる量が少なかった奈穂子は、お腹いっぱいの苦しさをよく知っていた。
お腹いっぱいのときにさらに食べようとすると、お腹がはちきれそうになる。
なのに、金魚は満腹がわからずにもっともっとと食べてしまうという。
きれいな二匹の金魚に、苦しい思いをさせたくなかった。
自然と、あげる餌の量は激減した。
そのせい、だったのかはいまだにわからない。
ある日、奈穂子が金魚鉢を覗いたとき。
そこには赤い金魚しかいなかった。
あれ? あれ? と奈穂子は探した。金魚鉢を両手で抱えるようにしながら。
そうして、見つけてしまった。
水草の間に隠れていた、半分以上食べられて、尾と骨だけの姿になった、黒い金魚を。
奈穂子は悲鳴を上げて、両手を離した。
金魚鉢は棚の上から転がり落ちて、ガッシャンと割れた。
何がなんだかわからなくて、奈穂子は泣いて泣いて泣きまくった。
ビックリした。恐ろしかった。申し訳なかった。
いろんな感情が複雑に混じり合って、みんなが集まってきても涙は止まらなかった。
いつのまにか、奈穂子の手を握る手があった。
だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ。そう声がかけられた。
こわくないよ、だいじょうぶ、なかないで、おれがそばにいるよ。
手の主は、声の主は、健司だった。
健司は懸命に奈穂子を慰めようとしてくれていた。
それから、保育士の手によって赤い金魚は救出されて、違う水槽で飼われることになった。
金魚の死骸を見てしまった奈穂子を案じてか、別の部屋で。
割ってしまった金魚鉢は、もう古いものだったということで、弁償する必要はないと言ってもらえた。
物を壊してしまったことで、保育士にも母親にも叱られはしたけれど、奈穂子のショックが大きかったからか、そこまで強くは言われなかった。
あの時は、本当に本当に、怖かった。
数年ほど骨のついた魚を食べられなくなるくらいに、トラウマになった。
それでも、一番記憶に残っているのは、ずっと奈穂子の手を握ってくれていた健司の手のぬくもりと、優しい声だった。
ごめんね、ありがとね。
金魚共食い事件のあとすぐに、奈穂子は健司にお礼を告げた。
なほ子はアホ子だから、おれがそばにいてあげる。おれが守ってあげる。
健司は、真っ赤な顔をしながら、黒い瞳でまっすぐ奈穂子を捉えてそう言った。
うれしい、と思った。
ずっと傍にいてくれる。ずっと守ってもらえる。
奈穂子がアホ子だから。健司がいないとダメだから。
だいすき、と奈穂子は心のままに言葉にした。
おれも、と健司は照れながらもちゃんと返事をしてくれた。
しあわせだった。
二人で一緒に金魚鉢を眺めているときのように、満たされていた。
ちゃぷんちゃぷん、水が揺れる音がする。
あたたかな水で満たされているとしあわせで、冷たい水が注がれると悲しくて、水が減ると寂しい。
そんな、奈穂子の心の金魚鉢。
ガッシャン。
今はもう、金魚鉢は壊れてしまった。