誰か、誰か。
誰でもいいから、ナホを慰めて。
ぎゅっとして、何も心配ないよって、大好きだよって、ささやいて。
そう、思っていたはずなのに。
奈穂子は学校から直接、健司の家に向かっていた。
健司はきっと、奈穂子を慰めてはくれない。
そんなことはいつもの健司とのやりとりを思えば簡単に想像がつくことだった。
わかっていても、奈穂子の足は、奈穂子の心は正直だった。
考えるよりも先に、たった一人を求めていた。
彼氏だった雅に裏切られた奈穂子は、他の彼氏のことも信用できなかった。
彼氏だけじゃない。他の誰も、信じられない。
なのに、どうしてか、健司は大丈夫だと思った。
どんなに嫌そうな顔をしても。どんなにひどいことを言っても。
健司はきっと、奈穂子に嘘だけはつかないと。
不思議と、信じている自分がいた。
「……健ちゃん」
健司の部屋のドアを開いて、こちらに背を向けている健司に声をかける。
階段を上がってくる音で、いや、もしかしたらピンポンの音で、奈穂子が来たというのはわかっていただろう。
振り返らないのは、健司の意志だ。
いつも、いつも、その背中ばかりを奈穂子は見ていた。
その背中に話しかけて、たまに振り返ってくれるとうれしくなった。
今は、まるでその背中が自分を拒絶しているように見えて。
すぐに、振り向いて、黒い瞳に奈穂子を映してもらいたくなった。
「ねえ、健ちゃん、こっち向いて」
弱い力で、でも何度も、健司の肩を揺する。
涙声になっている自覚はあった。
今日あったたくさんのつらいことよりも、健司に無視をされることのほうが、もっともっと、つらい。
は〜……、と深いため息をついたあと、健司はようやく振り返った。
「今日はなんなわけ?」
どうやら話を聞いてくれる気はあるらしい。
それが健司なりの優しさだと、奈穂子は知っていた。
どんなに冷たい言葉をかけてきても、どんなに機嫌が悪くても、健司は話を聞いてくれる。
健司は間違っても、雅みたいに奈穂子をレビューすることはないだろうと、それだけは確信できた。
「雅くんが、雅くんがね」
その名前を口にするだけでも苦しい。
奈穂子の彼氏だった人。奈穂子を好きだと言ってくれた人で、奈穂子が好きだった人。
でも、奈穂子をこれ以上ないほどに辱めた人で。
奈穂子の心をズタズタに傷つけた、最低な人。
「……ナホの、レビューしてて。頼めばなんでもしてくれるのがいいって。好きだって言うだけで、いくらでもやらしてくれるって」
震える声で、なんとか続きを話せた。
思い出しただけで、心がドロドロとしたものでいっぱいになる。
子どものころに健司と一緒にやっていたカードゲームで、どうしても好きになれなかった灰紫色のモンスターが、心臓にへばりついているかのようだった。
「それで? 事実とどう違うわけ」
「……っ!! ナホ、ナホ、雅くんのこと好きだったのに! 雅くんが言ったのに、ナホのこと好きだって!」
どう否定すればいいのかわからなくて、一気にふくらんだ感情をぶつけた。
奈穂子は傷つけられた側だ。奈穂子は裏切られた側だ。
ひどいのは雅だ。あれだけ奈穂子を好きだと言っておきながら、全部嘘だった。
甘い言葉をくれたのは、ただセックスがしたかったからだったなんて。
そんなひどいことをされて、傷つくのは当然だ。
奈穂子には傷つく正当な理由がある。傷つく権利がある。
なのに、健司はいつもどおり、冷たい。
こんなときくらい、優しくしてくれてもいいじゃないか。
少しくらいは、奈穂子を気遣ってくれてもいいじゃないか。
慰めの言葉の一つもかけてくれない健司に、奈穂子は胸がぎゅううっと縮まるような心地がした。
わかっていた、わかっていたけれど。
健司は、奈穂子が傷ついていても、どうでもいいんだ。
奈穂子が誰に意地悪されても、誰に傷つけられても、気にならないんだ。
健司は、奈穂子に、関心がないんだ。
「言うだけなら簡単だろ、そんなの」
「雅くんうそつきだったんだよ!」
「それを言うならお前だってうそつきだよ」
「ナホうそなんてついてないもん!」
「それ自体がすでに嘘だ」
「健ちゃんのバカ!! ひどいっ!!」
我慢ならなくて、声の限りに叫んだ。
健司がうるさそうに眉をひそめるのも、無性に腹が立った。
どうして、どうしてこんなひどい言葉をぶつけられなければいけないんだ。
……こうなるって、わかっていたはずなのに。
どうして奈穂子は、ここへやってきてしまったんだろうか。
「ひどいのはお前だよ、アホ子」
ブスリ。
健司の言葉が、鋭く奈穂子に突き刺さる。
「いいか、今のお前の痛みは、そのまま、これまでお前に別れを告げてきた奴の痛みだ」
「違うもん! ナホ、みんな好きだったもん!」
好きだった。ちゃんと好きだった。
どこが好きなのか、聞かれたら全員分しっかり答えられるくらい、好きだった。
奈穂子は絶対に、好きな人のレビューをしようなんて思わない。
そんな、好きな人のことを裏切るようなまねはしない。
奈穂子を好きでいてくれる人たちに、ひどいことなんてできるわけがない。
「みんな好き、なんて、みんなどうでもいいって言ってんのと一緒だ」
そんなの、そんなの知らない。
どうでもいいなんて、そんなこと一度も思ったことはない。
奈穂子を、好きと言ってくれる人たちは、ちゃんと、ちゃんと特別だった。特別な思いを返せていた
そのはずだった。
なのに、どうしてだろう。
喉がカラカラに乾いている。心臓がドクドクと脈打っている。
心のどこかで、ああ、そういうことだったのか、と納得している自分がいる。
「特別にしてもらえないのに、付き合ってんのなんて苦痛でしかないだろ。お前のことが本気で好きな奴からしたら」
健司の声音は苦味を含んでいた。奈穂子の過去の彼氏に同情でもしているんだろうか。
奈穂子のことを、本気で好きな人と、そうじゃない人。
そんなの、違いなんて、わからなかった。
好きって言われたら、それだけでうれしくて。
その好きが本物かどうかなんて、疑いもしなかった。
奈穂子を好きだと言ってくれる人が、何をしたら喜んで、何をしたら悲しむのか。考えたこともなかった。
別れを切り出されても、もう奈穂子のことを好きじゃないなら、どうでもいいと。
そう、本気で、思っていた。
「本当にお前のことが好きな奴を傷つけて、切り捨ててきたのはお前だ」
眼鏡の奥の黒い瞳が、奈穂子を断罪する。
自業自得だ、とその瞳は告げていた。
「だって、ナホ、みんな好きだったんだよ」
「んなこと言ってるから、口先だけの男が集まるんだよ。好きって言われて舞い上がって、なんにも、人の気持ちなんて一切考えないで」
言い訳にもならないつぶやきは、すぐにこき下ろされる。
傷つけた覚えなんてない。切り捨ててきたつもりなんてない。
好きと言われたらうれしいのはきっと誰だって一緒だ。舞い上がるなんて言い方はひどい。
でも、彼らの気持ちをちゃんと考えたことがあるかと聞かれると……。
好きだと言ってくれるなら、好きなんだと。
別れようと言うのは、もう好きではないからなんだろうと。
ただそうやって、言葉を額面どおりに受け取っていた。
「誰も彼も同列に並べといて、自分は特別にしてもらえないことに傷つくなんて……おかしいだろ」
奈穂子から視線をそらして、独り言のように、健司は言う。
同列、だなんて。
そんなつもりはなかった。
奈穂子を好きだと言ってくれた、みんな。
みんな、奈穂子にとっては特別なつもりでいた。
好きと言ってくれてうれしかったから、ドキドキしたから、奈穂子も好きだと思った。
好き同士なら、付き合うのは当然のことだと思っていた。
奈穂子にとって、彼らが特別じゃなかったなんて、そんなの、知らなかった。誰も教えてくれなかった。
ガシャ、ガシャ、ガッシャン。
割れたガラスの破片がぶつかるような音がする。
それは奈穂子の心だ。
心の金魚鉢は、もう、バラバラだ。
そこからあふれ出した水が、奈穂子の頬をつたう。
「……健ちゃんも?」
「あ?」
力ない声で問いかけると、健司は顔を上げた。
ギョッとして固まったのが、にじんだ視界でも見て取れた。
驚かせてしまった。困らせてしまうだろうか。
それでも止まらない。
ボロボロボロボロ、壊れた金魚鉢からこぼれていく。
「ナホがひどいことしたから、健ちゃんも、ナホのこと好きじゃなくなった? ナホがアホ子だから? だから健ちゃん、ナホに冷たいの?」
気づかずに彼氏を傷つけていたように、知らないうちに健司のことも傷つけていたんだろうか。
健司がひどいことを言うのは、奈穂子が先に、健司にひどいことをしたからなんだろうか。
奈穂子は覚えている。昔の健司はとても優しかった。とてもとても、優しかった。
健司が奈穂子に冷たくなったのは、中学生のころから。
小学生まではとても仲が良くて、今のように冷たい言葉を投げかけられることなんて一度もなかった。
変わってしまったのは、なぜ?
変えてしまったのは……奈穂子のほう?
「ごめんなさい、ごめんなさい健ちゃん。ごめんね。ごめんなさい」
謝れば許してもらえる、なんて甘い考えを持っているわけじゃない。
でも、他にどうすればいいのかわからなかった。
「嫌いにならないで。お願い、健ちゃん」
ごめんなさい、お願い、お願い、嫌いにならないで、お願い、ごめんなさい。
そう何度も何度も繰り返す。
壊れたCDみたいに、同じ言葉だけを、何度も何度も。
何を言っているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
嫌われたくない一心だった。
もう、手遅れかもしれないけれど。
割れた金魚鉢からは、次から次から、とどまることなく水がこぼれた。
これは涙じゃない。心のかけらだ。
奈穂子の心の一番大事な場所に作られていた、金魚鉢。
大切な、大切なものが壊れて、こぼれて、もう元には戻らない。
ぼろぼろと頬を濡らしながら、奈穂子はなぜか、小さな子どものころのことを思い出していた。
心の金魚鉢の奥底に、しまわれていた記憶。
『ほんとにアホだな、アホ子は。しょうがないから、おれが守ってやるよ』
そうだ。あのころは、健司にアホ子と呼ばれるのは嫌じゃなかった。
むしろ、健司がつけてくれたあだ名がうれしかった。
『ありがとう、けんちゃん! なほ、けんちゃんのことだぁいすき!』
だいすき、の言葉は、健司にだけ向けられていた。
あのころ、奈穂子にとっての特別は、健司だけだった。
あまり一緒に遊んだ記憶のない母親よりも、どの女友だちよりも、優しい先生たちよりも。
健司が好きで、大好きで、一緒にいると楽しくて、もっともっと話したくて、遊びたくて、ずっとついて回っていた。
『けんちゃんは?』
幼い奈穂子は無邪気に問いかける。
どんなものよりも、欲しい言葉があったから。
『……おれも、なほ子のこと好きだよ』
健司は真っ赤な顔を隠そうともしないで、まっすぐ奈穂子を見て、告げた。
懐かしい、懐かしい記憶。
大切で、大切すぎて、しまったまま取り出すことのなかった記憶。
ああ、どうして今になって思い出すんだろう。
きっともう、健司は、奈穂子のことを好きだなんて、言ってはくれないのに。