神さまはとんでもなく意地悪だ。
奈穂子がいったいどんな悪いことをしたというんだろう。
「なぁなぁ、瑞木ってどうなん? レビューしてよ」
放課後。その声は、三組の教室から聞こえてきた。
どうやら男子数人で集まって、あまり女子が聞くものじゃないような話をしているらしい。
ミズキ。一瞬ギクッとしたけれど、そこまでめずらしい名前じゃない。
もしも奈穂子のことだったとしても、どうでもいい男子にどう言われようがかまわなかった。
レビュー、という言葉の意味を、奈穂子は深く考えていなかった。
奈穂子がその教室の前を通り過ぎようとしたとき。
「そうだなぁ、八十八点ってとこかな」
一人の声が、耳についた。
聞き覚えのある声だな、と思って、ドアの覗き窓からちらりと教室の中に視線を向ける。
そこにいたのは。
「聞いてたほどには胸はなかったけど、反応はそこそこいい。何より、頼めばなんでもしてくれるのはいいもんだよね」
三人の男子に囲まれて、いつもどおりの笑みを浮かべているのは。
奈穂子の彼氏の一人、雅。
ああ、そうだ、三組は雅のいるクラスだ。
じゃあこの声は、これは、雅が。
間違いなく、雅が、奈穂子の、レビューを。
「マジか。俺もお願いしちゃおっかなぁ」
周りの男子の、くねくねとした声が、吐き気がするほど不快だった。
誰も、雅を止めない。それどころか楽しそうに聞いている。
キスがうまいとか、ちょっと痩せすぎだとか、人によってはそこが好みかもだとか、特に反応がいいのは左耳だとか。
とてもじゃないけれど聞くに耐えない猥談もあった。
それを、奈穂子は全部、全部、ドアの前に突っ立ったまま聞いてしまった。
右から左に抜けていく卑猥な言葉たちが、ちゃんと意味を持ったまま頭の中に入っていかない。
ただ、腐った牛乳みたいにドロリとしたものが、耳から入って脳を犯して、心にまで浸食してくるようで。
聞いちゃいけない。これ以上はダメだ。
わかっていても、その場から動けなかった。
「好きだって言うだけでいくらでもヤらしてくれるからね。名前の一人称とか、高校生とは思えない言動に耐えられるんなら優良物件だと思うよ」
「ああ、あれはちょっとなぁ。何歳だよって言いたくなるよな」
「身体は育ってるから、オレとしてはどうでもいいけどね」
「お前は性別が女なら誰でもいいんだろ」
「ひどいなぁ、これでも選んでるよ」
ハハハハハ。軽い笑い声が教室に木霊する。
それから、自然と違う話題へと流れていった。
さっきまで自分の彼女を散々にレビューしていたとは思えない、楽しそうな声で、雅は雑談に興じている。
あれは本当に雅だろうか。
奈穂子の彼氏の一人で、いつも奈穂子をかわいいと、好きだと言ってくれて、優しく触れてくれる。
格好良くて、明るい色の髪がよく似合っていて、背筋がぞくりとする甘い声の。
奈穂子の好きだった、雅なんだろうか。
あれが、あんなのが。
信じたくなかった。でも幻覚でも幻聴でもないこともわかっていた。
――奈穂ちゃん、好きだよ。
そう、いつも言ってくれたのと同じ声で。
――八十八点ってとこかな。
笑いながら、奈穂子に点数をつけた。
雅のことが好きだった。
明るくて、話し上手で、いつも奈穂子を楽しませてくれた。
触れてくる手は優しくて、セックスが上手だった。
雅にかわいいと言われるのが、好きと言われるのが、とてもしあわせだった。
でも、もう。
もう……好きじゃない。
とぼ、とぼ。
気づいたら奈穂子は帰り道を歩いていた。
いつあの場を立ち去ったのか、いつ学校から出たのか、覚えていない。
ちゃんと上履きから靴に履き替えていることに、こんなときだけれどほっとした。
不思議なことに涙は出なかった。
あまりにも思いも寄らないことが起きて、心がついていっていないのかもしれない。
くしゃり。
何かを、手に握っていた。
開いて見ると、そこには見慣れた言葉の羅列。
『ビッチ 死ね 尻軽女』
いつもは下駄箱の近くのゴミ箱に捨ててくる、それ。
奈穂子を少しだけ悲しくさせる言葉たちが、今は、ひどく重く、のしかかってきた。
どうして、どうして。
みんな、こんなひどいことをするんだろう。
こんなひどい言葉を奈穂子にぶつけてくるんだろう。
奈穂子は好きな人とお付き合いをしているだけだ。何も間違っていない。
なのにどうして、彼氏にレビューをされたり、こんないやがらせを受けたり、しなければいけないんだろう。
そんなに奈穂子は悪いことをしたんだろうか。
金魚鉢はひび割れだらけ。
世界のすべてが、敵に思えた。