5 アホ子のレビュー

 神さまはとんでもなく意地悪だ。
 奈穂子がいったいどんな悪いことをしたというんだろう。

「なぁなぁ、瑞木ってどうなん? レビューしてよ」

 放課後。その声は、三組の教室から聞こえてきた。
 どうやら男子数人で集まって、あまり女子が聞くものじゃないような話をしているらしい。
 ミズキ。一瞬ギクッとしたけれど、そこまでめずらしい名前じゃない。
 もしも奈穂子のことだったとしても、どうでもいい男子にどう言われようがかまわなかった。
 レビュー、という言葉の意味を、奈穂子は深く考えていなかった。
 奈穂子がその教室の前を通り過ぎようとしたとき。

「そうだなぁ、八十八点ってとこかな」

 一人の声が、耳についた。
 聞き覚えのある声だな、と思って、ドアの覗き窓からちらりと教室の中に視線を向ける。
 そこにいたのは。

「聞いてたほどには胸はなかったけど、反応はそこそこいい。何より、頼めばなんでもしてくれるのはいいもんだよね」

 三人の男子に囲まれて、いつもどおりの笑みを浮かべているのは。
 奈穂子の彼氏の一人、雅。
 ああ、そうだ、三組は雅のいるクラスだ。
 じゃあこの声は、これは、雅が。
 間違いなく、雅が、奈穂子の、レビューを。

「マジか。俺もお願いしちゃおっかなぁ」

 周りの男子の、くねくねとした声が、吐き気がするほど不快だった。
 誰も、雅を止めない。それどころか楽しそうに聞いている。
 キスがうまいとか、ちょっと痩せすぎだとか、人によってはそこが好みかもだとか、特に反応がいいのは左耳だとか。
 とてもじゃないけれど聞くに耐えない猥談もあった。
 それを、奈穂子は全部、全部、ドアの前に突っ立ったまま聞いてしまった。

 右から左に抜けていく卑猥な言葉たちが、ちゃんと意味を持ったまま頭の中に入っていかない。
 ただ、腐った牛乳みたいにドロリとしたものが、耳から入って脳を犯して、心にまで浸食してくるようで。
 聞いちゃいけない。これ以上はダメだ。
 わかっていても、その場から動けなかった。

「好きだって言うだけでいくらでもヤらしてくれるからね。名前の一人称とか、高校生とは思えない言動に耐えられるんなら優良物件だと思うよ」
「ああ、あれはちょっとなぁ。何歳だよって言いたくなるよな」
「身体は育ってるから、オレとしてはどうでもいいけどね」
「お前は性別が女なら誰でもいいんだろ」
「ひどいなぁ、これでも選んでるよ」

 ハハハハハ。軽い笑い声が教室に木霊する。
 それから、自然と違う話題へと流れていった。
 さっきまで自分の彼女を散々にレビューしていたとは思えない、楽しそうな声で、雅は雑談に興じている。

 あれは本当に雅だろうか。
 奈穂子の彼氏の一人で、いつも奈穂子をかわいいと、好きだと言ってくれて、優しく触れてくれる。
 格好良くて、明るい色の髪がよく似合っていて、背筋がぞくりとする甘い声の。
 奈穂子の好きだった、雅なんだろうか。
 あれが、あんなのが。
 信じたくなかった。でも幻覚でも幻聴でもないこともわかっていた。

――奈穂ちゃん、好きだよ。

 そう、いつも言ってくれたのと同じ声で。

――八十八点ってとこかな。

 笑いながら、奈穂子に点数をつけた。

 雅のことが好きだった。
 明るくて、話し上手で、いつも奈穂子を楽しませてくれた。
 触れてくる手は優しくて、セックスが上手だった。
 雅にかわいいと言われるのが、好きと言われるのが、とてもしあわせだった。
 でも、もう。
 もう……好きじゃない。



 とぼ、とぼ。
 気づいたら奈穂子は帰り道を歩いていた。
 いつあの場を立ち去ったのか、いつ学校から出たのか、覚えていない。
 ちゃんと上履きから靴に履き替えていることに、こんなときだけれどほっとした。
 不思議なことに涙は出なかった。
 あまりにも思いも寄らないことが起きて、心がついていっていないのかもしれない。

 くしゃり。

 何かを、手に握っていた。
 開いて見ると、そこには見慣れた言葉の羅列。

『ビッチ 死ね 尻軽女』

 いつもは下駄箱の近くのゴミ箱に捨ててくる、それ。
 奈穂子を少しだけ悲しくさせる言葉たちが、今は、ひどく重く、のしかかってきた。

 どうして、どうして。
 みんな、こんなひどいことをするんだろう。
 こんなひどい言葉を奈穂子にぶつけてくるんだろう。
 奈穂子は好きな人とお付き合いをしているだけだ。何も間違っていない。
 なのにどうして、彼氏にレビューをされたり、こんないやがらせを受けたり、しなければいけないんだろう。
 そんなに奈穂子は悪いことをしたんだろうか。


 金魚鉢はひび割れだらけ。

 世界のすべてが、敵に思えた。



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