4 アホ子の不安

 じんわりじんわりと、嫌な感じが胸に広がっていく。
 氷のように冷たくはないけれど、濁った水が、奈穂子の金魚鉢を住みにくくする。
 これがなんていう名前の感情なのか、奈穂子にはわからなかった。

「健ちゃん、彼女できたの?」

 わからなかったから、気になっていたことを直接聞いた。
 健司の家に遊びに来るのはそんなにめずらしいことじゃない。健司の母は歓迎してくれる。
 いつもは真っ先に手を伸ばす、部屋の隅に放置された羊のクッションには目も向けず、勉強机に座った健司の横に立つ。
 奈穂子の問いかけに、健司は身体を少しだけこちらに向けて奈穂子を見上げてきた。
 しばらく見つめ合ったまま沈黙が落ちる。
 先に目をそらしたのは健司のほうで、彼は再び勉強机に向き直りため息をついた。

「できてないけど」

 その答えにほっとする。
 けれど、不安がすべてなくなったわけではない。

「じゃあ、この前の子は? 最近仲良いんでしょ?」

 十日ほど前、健司と話していた女の子。
 あれから何度も二人が一緒にいるところを見かけた。
 さすがの奈穂子にも、わかった。あの女子は健司のことが好きなのだ。
 じゃあ、健司は?
 健司は、あの子のことをどう思っているんだろうか。

「……アホ子には関係ないだろ」
「関係なくないもん。幼なじみだもん」

 奈穂子と健司は、物心つく前からの幼なじみ。
 幼なじみの交際が気になるのは普通だ。
 ……健司は、奈穂子の交際について、あまり興味はないようだけれど。

「ただの、幼なじみ、だろ。関係ない」

 強調するように、健司はわざと一句ごとに区切って言った。
 鋭い瞳が向けられて、チクリ、針が刺さったような感覚を覚えた。
 いたい、いたい。
 ガシャガシャと大量の氷が金魚鉢に放り込まれる。

「……健ちゃん、ひどい」

 ただの幼なじみだなんて。関係ないだなんて。
 健司は奈穂子に冷たい言葉ばかりぶつける。
 そのたび奈穂子がどれだけ傷ついているのか、健司は知っているんだろうか。
 もし知っていてやっているなら、本当に、健司はひどい。

「……ひどいのはどっちだ」

 思わず、と言ったようにつぶやかれた言葉。
 眼鏡の奥の黒い瞳に、なんらかの感情がよぎったのを奈穂子は見た。
 けれどそれがなんなのか、わかる前に視線はそらされ、健司はまた奈穂子に背を向けてしまった。
 奈穂子にはわからない。
 健司にひどいと言われるようなことを、奈穂子はしているんだろうか。
 奈穂子にはわからない。
 わからないけれど、金魚鉢の水面が、揺れる、揺れる。
 ぽちゃりぽちゃり、こぼれてしまいそう。

「奈穂子ちゃーん、今日もお夕御飯食べていく?」

 という健司の母の声が下から聞こえるまで、二人は何も口を利かなかった。


  * * * *


「奈穂ちゃん今日はご機嫌ナナメ?」

 次の日、家に遊びに来た雅に、そう問いかけられた。
 そんなにわかりやすかっただろうか。
 ベッドの上、奈穂子はうさぎのぬいぐるみを抱えながら、雅に後ろから抱きしめられていた。
 不機嫌というより、昨日の健司の様子を思い浮かべていたら、軽く寝不足になってしまっただけだ。
 奈穂子は単純な性質をしている。
 眠かったりお腹が空いていたりすると、機嫌に直結する。
 健司の一挙一動に振り回されている自分にも、さらに気分は急降下。

「健ちゃんがひどいの」
「ああ、幼なじみくんか。ひどいよねぇ、奈穂ちゃんこんなにかわいいのに、いじめるなんて」

 健司のほうがひどいと言ってもらえて、奈穂子は間違っていないと言われて、喜ぶべきところなのに、なぜだかむっとした。
 雅は健司の何を知っているというのか。
 奈穂子にだってわからないんだから、雅はもっと何も知らないはずだ。
 簡単にひどいなんて言ってほしくなかった。

「別にいじめられてはいないよ」
「そうなの? でも、意地悪なんでしょ?」
「うん」

 それにはうなずきを返す。
 健司が意地悪なのは本当のことだったから。

「きっとそいつも、奈穂ちゃんがかわいいから意地悪したくなっちゃうんだね」

 きれいな笑みを浮かべて、雅は言う。
 奈穂子の頬を優しくなでながら。
 その手つきに奈穂子の胸はドキドキと音を鳴らす。
 雅の触れ方はいつも気遣いと色気に満ちていて、もっとさわってほしくなる。
 今日も母親の帰りは遅い。雅が最初からそのつもりで家に遊びに来たことも知っている。
 だから、何も問題はない。

「そうかなぁ?」
「そうそ、だからそいつのことなんて今は忘れてさ。オレがたっぷり甘やかしてあげるよ」

 体勢を変えて、雅は正面から奈穂子を抱き寄せる。
 長い指先が髪を梳き、首筋をくすぐる。
 それだけで、ん、と甘えるような声が出てしまう。

「雅くん、大好き」

 にっこりと笑って、奈穂子は心からの思いを告げた。
 奈穂子をしあわせな気持ちにさせてくれる雅が、とってもとっても好きだ。

「オレも大好きだよ、奈穂ちゃん」

 見る人を魅了する艶やかな笑みで、雅も言葉を返してくれた。
 奈穂子の心の金魚鉢が、うれしそうに、ちゃぷんと音を立てる。


 好きな人に、好きと言ってもらえて、奈穂子は本当にしあわせだ。



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