じんわりじんわりと、嫌な感じが胸に広がっていく。
氷のように冷たくはないけれど、濁った水が、奈穂子の金魚鉢を住みにくくする。
これがなんていう名前の感情なのか、奈穂子にはわからなかった。
「健ちゃん、彼女できたの?」
わからなかったから、気になっていたことを直接聞いた。
健司の家に遊びに来るのはそんなにめずらしいことじゃない。健司の母は歓迎してくれる。
いつもは真っ先に手を伸ばす、部屋の隅に放置された羊のクッションには目も向けず、勉強机に座った健司の横に立つ。
奈穂子の問いかけに、健司は身体を少しだけこちらに向けて奈穂子を見上げてきた。
しばらく見つめ合ったまま沈黙が落ちる。
先に目をそらしたのは健司のほうで、彼は再び勉強机に向き直りため息をついた。
「できてないけど」
その答えにほっとする。
けれど、不安がすべてなくなったわけではない。
「じゃあ、この前の子は? 最近仲良いんでしょ?」
十日ほど前、健司と話していた女の子。
あれから何度も二人が一緒にいるところを見かけた。
さすがの奈穂子にも、わかった。あの女子は健司のことが好きなのだ。
じゃあ、健司は?
健司は、あの子のことをどう思っているんだろうか。
「……アホ子には関係ないだろ」
「関係なくないもん。幼なじみだもん」
奈穂子と健司は、物心つく前からの幼なじみ。
幼なじみの交際が気になるのは普通だ。
……健司は、奈穂子の交際について、あまり興味はないようだけれど。
「ただの、幼なじみ、だろ。関係ない」
強調するように、健司はわざと一句ごとに区切って言った。
鋭い瞳が向けられて、チクリ、針が刺さったような感覚を覚えた。
いたい、いたい。
ガシャガシャと大量の氷が金魚鉢に放り込まれる。
「……健ちゃん、ひどい」
ただの幼なじみだなんて。関係ないだなんて。
健司は奈穂子に冷たい言葉ばかりぶつける。
そのたび奈穂子がどれだけ傷ついているのか、健司は知っているんだろうか。
もし知っていてやっているなら、本当に、健司はひどい。
「……ひどいのはどっちだ」
思わず、と言ったようにつぶやかれた言葉。
眼鏡の奥の黒い瞳に、なんらかの感情がよぎったのを奈穂子は見た。
けれどそれがなんなのか、わかる前に視線はそらされ、健司はまた奈穂子に背を向けてしまった。
奈穂子にはわからない。
健司にひどいと言われるようなことを、奈穂子はしているんだろうか。
奈穂子にはわからない。
わからないけれど、金魚鉢の水面が、揺れる、揺れる。
ぽちゃりぽちゃり、こぼれてしまいそう。
「奈穂子ちゃーん、今日もお夕御飯食べていく?」
という健司の母の声が下から聞こえるまで、二人は何も口を利かなかった。
* * * *
「奈穂ちゃん今日はご機嫌ナナメ?」
次の日、家に遊びに来た雅に、そう問いかけられた。
そんなにわかりやすかっただろうか。
ベッドの上、奈穂子はうさぎのぬいぐるみを抱えながら、雅に後ろから抱きしめられていた。
不機嫌というより、昨日の健司の様子を思い浮かべていたら、軽く寝不足になってしまっただけだ。
奈穂子は単純な性質をしている。
眠かったりお腹が空いていたりすると、機嫌に直結する。
健司の一挙一動に振り回されている自分にも、さらに気分は急降下。
「健ちゃんがひどいの」
「ああ、幼なじみくんか。ひどいよねぇ、奈穂ちゃんこんなにかわいいのに、いじめるなんて」
健司のほうがひどいと言ってもらえて、奈穂子は間違っていないと言われて、喜ぶべきところなのに、なぜだかむっとした。
雅は健司の何を知っているというのか。
奈穂子にだってわからないんだから、雅はもっと何も知らないはずだ。
簡単にひどいなんて言ってほしくなかった。
「別にいじめられてはいないよ」
「そうなの? でも、意地悪なんでしょ?」
「うん」
それにはうなずきを返す。
健司が意地悪なのは本当のことだったから。
「きっとそいつも、奈穂ちゃんがかわいいから意地悪したくなっちゃうんだね」
きれいな笑みを浮かべて、雅は言う。
奈穂子の頬を優しくなでながら。
その手つきに奈穂子の胸はドキドキと音を鳴らす。
雅の触れ方はいつも気遣いと色気に満ちていて、もっとさわってほしくなる。
今日も母親の帰りは遅い。雅が最初からそのつもりで家に遊びに来たことも知っている。
だから、何も問題はない。
「そうかなぁ?」
「そうそ、だからそいつのことなんて今は忘れてさ。オレがたっぷり甘やかしてあげるよ」
体勢を変えて、雅は正面から奈穂子を抱き寄せる。
長い指先が髪を梳き、首筋をくすぐる。
それだけで、ん、と甘えるような声が出てしまう。
「雅くん、大好き」
にっこりと笑って、奈穂子は心からの思いを告げた。
奈穂子をしあわせな気持ちにさせてくれる雅が、とってもとっても好きだ。
「オレも大好きだよ、奈穂ちゃん」
見る人を魅了する艶やかな笑みで、雅も言葉を返してくれた。
奈穂子の心の金魚鉢が、うれしそうに、ちゃぷんと音を立てる。
好きな人に、好きと言ってもらえて、奈穂子は本当にしあわせだ。