3 アホ子の嫌い

「あ、健ちゃん!」

 昼休み、幼なじみの姿を見つけて、奈穂子はわき目も振らず駆け寄った。
 健司はいつもどおり、奈穂子を見て顔をしかめる。
 そのことに胸がツキンと痛んだけれど、それよりも会えた喜びのほうが大きい。
 同じ二年生でも、二組の奈穂子と五組の健司はまったくと言っていいほど接点がないのだ。
 委員会や部活動も違うから、学校で姿を見ることができない日だって多かった。

「ったく、アホ子、彼氏の真ん前で他の男に駆け寄んなよ」

 ため息をついてそう言う健司に、奈穂子は小首をかしげた。
 どうしてそんな注意をされるのか、わからなかった。
 今一緒にいた雅は奈穂子が何をしようと文句を言ったりはしない。
 いつだって『そんな奈穂ちゃんも好きだよ』と笑ってくれる。拓海や翔真だって言葉は違ってもそう変わりはない。
 彼氏と一緒にいたら幼なじみと話しちゃいけない決まりがあるわけでもないだろうに。

「なんで?」
「聞く前に自分で考えろ、アホ子」

 突き放すように言われて、また、ツキンと胸が痛んだ。
 とぽん、とぽん、と健司の言葉は奈穂子の金魚鉢に氷を放り込む。
 健司は奈穂子に優しくない。
 雅や、他の奈穂子の彼氏のように、優しい言葉なんてかけてはくれないし、笑ってすらくれない。
 いつもいつも、不機嫌そうな顔で、奈穂子を責めるような目で。
 眼鏡の奥の瞳は鋭く冷たく、まるで氷柱のようだ。

「あの……」

 健司のすぐ横にいた女子が、口を挟んできた。
 そこで初めて、奈穂子は健司がさっきまでその女子と話していたのだと気づいた。

「また、あとでね、藤堂くん」
「ああ」

 奈穂子の存在を無視するように健司に話しかけ、健司の返事に彼女は頬を染めて微笑んだ。
 ショートボブの、おとなしそうな女の子だ。
 優等生の健司の隣に並んでいると、とても『お似合い』に見える。

 そんなことを思っていると、その女子は去り際にちらりと奈穂子に視線を向けた。
 いや、違う。睨まれたと言ったほうが正しい。
 人は見かけによらない。物静かな文学少女といった感じの彼女に、あんな敵意のこもった目ができるとは。
 どうやら奈穂子は、名前も知らない女子に嫌われているらしい。
 そんなことは別に今に始まったことではなかったので、たいして気にもとめない。
 理由なんてどうでもいい。“嫌われている”という事実だけで充分だ。

「……誰?」
「同じ委員会の奴」

 女子の姿が見えなくなってから問いかけると、健司の答えはとても簡潔だった。
 奈穂子も彼女の名前が知りたかったというわけではないので、かまわない。
 興味なんて、そんなものはかけらも持っていなかった。

「ナホ、あの人のこと、嫌いだなぁ」

 彼女の去っていった方向を眺めながら。
 独り言のように、けれど健司に聞こえるだろう声量で、奈穂子は言った。
 ただ単に、本音を口にしただけだ。
 ギラリ、と効果音がつきそうなほどに睨まれた。
 それだけのこと、と奈穂子は思えない。嫌いになるには充分な理由だった。

「だろうな」
「だろうな、って?」

 きょとん、と奈穂子は健司を見上げた。
 まるで奈穂子が彼女を嫌うだろうとわかっていたような口ぶりだ。
 奈穂子と彼女は性格的に合わない、ということだろうか。
 頭のいい健司には、わからないことなんて何もないんだろうか。
 じーっと見つめていると、健司の眉間のしわが深くなった。

 健司はいつも眉間にしわを寄せて、怒ったような顔をしている。
 そういえば、さっき奈穂子が声をかける前は、そんな顔はしていなかったような気がする。
 むしろ微笑んですらいたかもしれない。
 もう何年も、奈穂子は健司に笑いかけられたことがないというのに。
 幼なじみにはしかめっ面で、ただ委員会が一緒なだけの女子には笑いかけるとは、いったいどういうことだ。

「お前がアホ子だからだよ」

 ハッ、と健司は鼻で笑うようにしてそう言った。
 違う。見たいのはその笑い方ではないのに。
 放り込まれた氷柱が、金魚鉢にガツンと当たって傷をつける。

「だから、ナホはアホ子じゃないってば!」

 もうっ! と奈穂子は頬をふくらませて怒った。
 ズキズキと痛む胸は、知らんぷりをして。
 健司は冷たい。健司は優しくない。
 それでも健司は、決して奈穂子を無視しない。
 家でも、学校でも、話しかければ応えてくれる。
 話を聞いているのかいないのか、怪しいことは多々あるけれど。
 しかめっ面でも、ひどい言葉でも、奈穂子に対して反応を返してくれることが、うれしい。
 冷たい氷は奈穂子の心の金魚鉢を冷やすけれど、そのおかげで水が増えることには変わりないのだ。

 健司は、奈穂子に痛みと喜びを同時に与えてくれる。


  * * * *


 下校時刻。奈穂子は一人で昇降口へと向かう。
 今日はどの彼氏とも予定が合わなかった。
 寂しいなぁ、と思いながら自分の下駄箱を開けて靴を取り出そうとすると、カサリ、という音がして紙切れが落ちた。
 折り畳まれた、ノートの切れ端と思われる白い紙を拾う。
 書かれていたのはたった五文字。

『クソビッチ』

 ひどいなぁ。
 奈穂子は悲しい気持ちになりながら、その紙をすぐ近くのゴミ箱に捨てた。
 いじめと言うには些細で、幼稚ないやがらせ。
 一定の男子人気のある奈穂子に、表だって何かをしようとする女子はいない。
 ただこうやって、裏でチクチクと地味ないやがらせをするだけだ。
 今度は誰だろうか。もしかしたら今日健司と一緒にいた女子かもしれない。
 嫌われるのは慣れっこだった。
 別に、誰からも好かれたいなんて、思ってはいない。
 ただただ、悲しいだけ。

 ひどいなぁ。
 奈穂子は好きな人とお付き合いをしているだけだというのに。
 責められることなんて何もないはずなのに。
 ふと、奈穂子を責める健司の黒い瞳を思い出す。
 ……何もない、はずだ。

 家に帰ったら、まずは洗濯をして、それからご飯の準備もして。
 終わったら彼氏に電話をして慰めてもらおう。
 こんなとき、優しい言葉をかけてくれそうなのは雅だろうか。拓海でもいいかもしれない。翔真は少し口が悪いからやめておこう。
 好きな人のことを考えたら、少しだけ気分が上を向いた。
 嫌なことはすぐに忘れるに限る。
 悲しいことで心の金魚鉢をいっぱいにしていたら、奈穂子は窒息してしまう。


 呼吸に必要な酸素を得るために、誰に電話をかければいいか考えながら、奈穂子は帰り道を歩いた。



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