結局のところ、健司の言うとおりになってしまった。
なぜ健司にこのことが予測できたのか、不思議でしょうがないけれど。
ここ一週間、毎日心の中で唱えていた『健ちゃんのバカ』という文句は、取り下げなければいけなくなった。
「奈穂子、別れよう」
そう、悲しそうな微笑みを浮かべながら言ったのは、伊藤進太郎。
つい最近奈穂子と付き合うことになった、明るくて背が高くて、笑顔がすてきな人だ。
昼休み、話があると言われてひょこひょこついてきてみれば、このとおり。
一緒に食べようと思って買った購買のパンを入れた袋が、ずしりと重みを増した。
「ナホのこと、嫌いになった……?」
泣きたい気持ちになりながら、奈穂子は尋ねる。
好きだって、そう言ってくれたのに。
とっても、とっても、うれしかったのに。
どうして奈穂子をずっと好きでいてくれる人はいないんだろう。
どうして奈穂子をフるとき、自分のほうが傷ついていると言わんばかりの顔をする人がいるんだろう。
まだ、飽きた、と言ってフラれるほうが、奈穂子にはわかりやすかった。
「嫌いになれないから、つらいんだ」
「よくわかんないよ」
進太郎の言葉は意味不明だ。
嫌いになれないなら、まだ奈穂子のことが好きなら、別れる必要なんてないはずなのに。
嫌いではないけれど、もう好きでもないということ?
何がつらいと言うんだ。それなら今の奈穂子のほうがよっぽどつらい。
まさか、こんなにすぐにフラれるなんて思ってもいなかった。
進太郎は、もうちょっとくらい、傍にいてくれると思っていたのに。
「俺じゃ駄目なんだって、思い知っただけだ」
進太郎は、眉尻を垂らしながら苦笑する。
彼の言葉はまったく理解できない。
奈穂子ではダメだと、フッたのは進太郎のほう。
フラれた奈穂子よりも悲しそうな顔をする進太郎が、奈穂子はずるいと思った。
「なあ、奈穂子……いや、瑞木」
進太郎はわざわざ苗字に呼び変えた。
ピッと、明らかな境界線を引かれたのが奈穂子にもわかった。
もう、奈穂子と進太郎は、カレカノではないんだ。
「ちゃんと、好きになれる奴とだけ付き合えよ」
「みんな好きだよ?」
「みんなに向ける“好き”じゃ、足りないんだよ」
進太郎は難しいことを言う。
奈穂子だって別に、不特定多数に“好き”を振りまいているわけじゃない。
ちゃんと、奈穂子を好きと言ってくれた人のことだけだ。
それでもまだ、足りないんだろうか。
何がどう、足りないんだろうか。
「奈穂子が本当に好きな奴と付き合わなきゃ、奈穂子が傷つくだけだ」
優しい顔で、悲しそうな顔で。
奈穂子に別れを告げておきながら、進太郎は奈穂子を案じるようなことを言う。
本当に、ずるい。
奈穂子を傷つけている張本人が、いい人であろうとするなんて。
「……進ちゃんがフッたのに」
「だから言っただろ。俺じゃ駄目だったんだ」
わからない。わからない。
本当に好きな奴、だなんて奈穂子にはわからない。
進太郎のどこがダメだったのか、奈穂子にはわからない。
進太郎の言葉の意味も、表情の理由も、全部、奈穂子にはわからない。
奈穂子は今、傷つけられた。他でもない進太郎によって。
泣きたいのは奈穂子のほうだ。泣いていいのも奈穂子のほうのはずだ。
進太郎はちょっと前に奈穂子をフッた元彼や、いつも奈穂子をいじめる健司とは違って、一つも奈穂子を責める言葉は口にしないのに。
なのに、彼の微笑みが、じわじわと奈穂子を責める。
「わかんないよ、進ちゃん」
「いつかわかるよ、きっと。じゃないと心配でしょうがない」
明るく、奈穂子の好きだった笑顔で、進太郎は言った。
くしゃりと奈穂子の頭をなでながら。
その大きな手も、奈穂子はすごく好きだった。
でも、もう、好きじゃない。
* * * *
なんとなくで入って、なんとなくで活動を続けている声楽部の練習が終わって、下校時刻。
「奈っ穂ちゃん」
「雅くん!」
帰ろうとしていた奈穂子を呼び止めたのは、奈穂子の彼氏の一人、上城 雅だった。
雅は帰宅部だ。いつもはこんな時間まで残ってはいないはず。
……待っていてくれたんだろうか。
そう思うと胸がきゅうっとして、雅が好きで好きでたまらなくなる。
ほら、やっぱり奈穂子はちゃんと“好き”だ。
「今日、暇?」
「ヒマだよ〜!」
奈穂子の肩をごく自然に抱き寄せ、簡潔な問いを口にした雅に、奈穂子は元気よく答えた。
それに雅はにっこりと笑ってくれた。
次に雅がなんて言うか、奈穂子はちゃんとわかっていた。
「じゃ、家に行ってもいい?」
密やかな声。まるで内緒話のよう。
そこに込められた意味も、ちゃんと、ちゃんとわかっている。
「うん!」
奈穂子は少しも迷うことなく即答した。
働きに出ている母親の帰りは遅い。その間、奈穂子は家に一人だ。
雅に限らず、彼氏が家に遊びに来てくれるのは大歓迎だった。
好きな人と一緒にいられるのは、うれしい。
好きな人に愛してもらえるのはのは、とてもしあわせ。
奈穂子に断る理由なんて一つも存在しなかった。
「よかった。好きだよ、奈穂ちゃん」
「ナホも大好き!」
好き、という言葉に、たまらなくドキドキする。だから奈穂子も同じように言葉を返した。
雅の艶めかしい笑顔が好きだ。明るい色の髪もよく似合っていてすてき。
奈穂子を気持ちよくしてくれるその手も、大好き。
奈穂子の中は、“好き”でいっぱいだ。
ちゃっぷんちゃっぷん、金魚鉢が揺れる。
奈穂子の心の金魚鉢は、今、しあわせで満たされている。