1 アホ子の彼氏

 好きだ、と言われた。
 すごくうれしくて、ドキドキした。
 だから、奈穂子も好きだと答えた。
 奈穂子はその人と付き合うことになった。
 頭がよくて優しくて、照れ屋ですてきな人だった。

 今度は違う人に、好きだと言われた。
 すごくうれしくて、ドキドキした。
 だから、奈穂子も好きだと答えた。
 奈穂子はその人と付き合うことになった。
 明るくて背が高くて、笑顔がすてきな人だった。

 頭のいい彼のほうが、奈穂子を怒った。
 俺と付き合っているのに、どうして、と。
 奈穂子にはどうして責められているのかわからなかった。
 好きな人と付き合うのは、普通のことだよね。
 ナホは二人とも大好きなんだよ。
 そう言ったら、彼は泣きそうな顔をして、別れよう、と言った。

 もうナホのこと好きじゃないの?
 奈穂子も泣きそうになりながら聞いたら、それはお前のほうだ、って言葉が返ってきた。
 やっぱり、奈穂子には理解できなかった。
 でも、彼のことを傷つけてしまったことだけは、わかった。
 それと同じくらい、奈穂子も傷ついた。

 好きだって言ってくれたのに。
 ナホのことが一番なんだって思っていたのに。
 うそつき。
 みんなそうやって、ナホを見捨てるんだ。

 ……うそつき。



「ひどいと思わない? 健ちゃん」
「お前がひどい」

 問いかけに間髪入れずに返ってきたのは、奈穂子を責める言葉だった。
 む、と奈穂子は眉をひそめて、クッションを抱きしめる。
 勝手知ったる他人の家。幼なじみの部屋で、自分専用の羊型のクッションをぎゅうぎゅうとしながら、瑞木奈穂子は同い年の幼なじみに愚痴をこぼしていた。
 幼なじみ――藤堂健司は勉強机に向かっていて、彼のベッドに我が物顔で座る奈穂子のことをちらりとも見ようとしない。ちゃんと話を聞いているのかも怪しかった。
 いつものことだったからそのまま話していたけれど、さすがにその言葉には傷ついた。

「ナホひどくないもん」
「わかってないとこが余計にひどい」
「……ナホひどくないもん」

 もう一度、繰り返す。
 今度はクッションに顔をうずめて、聞こえるか聞こえないかの声で。
 奈穂子にはわからなかった。
 付き合っていた彼が怒った理由も、別れを告げられた理由も、奈穂子の思いを疑われた理由も。
 健司に、ひどい、と言われる理由も。
 全部が全部、奈穂子にとっては謎で仕方がなかった。

「知ってるか、お前みたいな女を悪女って言うんだぞ」
「え!? ナホ、悪女じゃないよ!」

 ぱっ、と奈穂子はクッションから顔を上げた。
 今、ひどい侮辱を受けたような気がする。
 悪女というものがどれだけ悪い女のことを指しているのか、よくはわからないけれど、悪と言うのだからすごい悪いのだろう。
 魔女っ子もので言うなら魔女の力を狙う悪い奴らだ。戦隊ヒーローで言うなら宇宙からやってきた侵略者側だ。ラピタで言うなら『見たまえ、人がゴミ虫のようだ』と言ったムスク大佐だ。いや、ムスク大佐は男だけれど。
 とにかく、奈穂子は誓って、悪女ではない。そんな悪いことをした記憶は一切ない。
 ……遅刻したりだとか、宿題を忘れたりだとかはあるけれど、度を超してはいない、と思う。たぶん。

「充分悪女だよ、アホ子」

 鋭くて、容赦のない声。
 健司はいつも奈穂子の心を切り刻む。
 奈穂子を責めるように、なじるように、あざけるように。
 淡々とした、温度のない声が、酸性雨のように降り注いで、奈穂子の肌をヒリヒリとさせる。
 まだ、健司はこちらを向いてくれない。

「健ちゃん、またそうやって呼ぶ。ナホは奈穂子だよ、アホ子じゃないよ」
「奈穂子だからアホ子なんだろ」
「アホ子じゃないもん……」

 ぎゅう、とまたクッションを抱きしめた。
 何度正しても、健司はその呼び名をやめてはくれない。
 いつからだっただろうか、彼が奈穂子をそう呼ぶようになったのは。
 気づいたときにはアホ子と呼ばれていて、呼ばれるたびに奈穂子は悲しくなった。
 悲しくて、悲しくて、涙が心の金魚鉢をいっぱいにしてしまいそうになるのに。
 健司は気にせずアホ子と呼ぶし、奈穂子を振り向きもしてくれないのだ。

「で、今は何股してんだっけ」

 やはりこちらを見ないままに、健司は尋ねてきた。
 彼のほうから話を振ってくれたのはうれしかったけれど、その言葉はまた奈穂子を傷つけた。

「何股なんて言い方、よくないよ。ナホはみんなのことが好きなだけだよ」

 奈穂子には好きな人がたくさんいる。
 奈穂子のことを好きでいてくれる人もたくさんいる。
 それはとても、とてもしあわせなことだ。
 何股、だなんて、そんな言い方はひどいじゃないか。
 奈穂子にも、奈穂子の彼氏のみんなにも、失礼だ。

「はいはい。じゃあ、何人好きな奴がいるんだ?」
「四人! 雅くんと、たっくんと、ショーちゃんと、進ちゃん」

 雅、拓海、翔真、進太郎。
 指折り数えて、あれ、思ってたより少ない、と奈穂子は首をかしげた。
 そうか、今日、別れを告げられたから、それで一人減って。
 少し前にも同じようにフラれたから、今は片手に収まってしまうのか。
 もっと、好きな人がいたほうがしあわせなのに。
 もっと、奈穂子のことを好きな人が多いほうがしあわせなのに。

「たぶん、進ちゃんとやらはそろそろお前に別れを切り出すぞ」
「そんなことないよ!」

 健司の言葉を、奈穂子は即座に否定した。
 健司が名前を挙げた彼は、明るくて背が高くて、笑顔がすてきな人だ。
 つい最近付き合うことになったばかりなのに、どうしてそんな話をするのか。
 奈穂子にはわけがわからない。

「俺と同じクラスの伊藤進太郎だろ。あいつ真面目だから無理だね」

 真面目だったら、どうして無理なのか。
 奈穂子がアホ子だから、真面目な人とは合わないとでも言うつもりなんだろうか。
 そういえば、今日別れを告げられた彼――いや、もう元彼と言うべきか――も、真面目な人だった。
 けれどそんなことは関係ないはずだ。
 元彼は、もう奈穂子を好きではなくなったから彼女をフッたのだ。
 真面目だろうが不真面目だろうが、奈穂子を好きでいてくれているなら、別れようだなんて思わないだろう。

「……そんなこと、ないもん。進ちゃん、ナホのこと好きって言ってくれたもん」

 瑞木のことが、好きなんだ、と。
 顔を赤らめながら、まっすぐに奈穂子を見下ろして、真剣な表情で。
 あの言葉が嘘だとは思えない。思いたくない。
 きっと健司は、奈穂子を傷つけるために、わざとひどいことを言うのだ。
 そうに違いない。

「……好きだからこそ、だろ」
「健ちゃん?」

 健司のその声は、小さくて聞き取りづらかった。
 奈穂子にはその言葉の意味も理解できない。
 好きだから、別れを告げる、だなんて。
 意味がわからない。本末転倒だ。
 目をぱちくりとさせて健司の背中を見ていると、ふいに、健司は顔だけ振り返った。
 眼鏡の奥の黒い瞳が、奈穂子を突き刺す。

「お前にゃわかんねーよ、アホ子」

 その声は、その言葉は、奈穂子の心の金魚鉢にいくつもの氷塊を落とし込んだ。
 突き放された、とわかった。
 健司は奈穂子の理解を求めてはいないのだ。
 いたい、いたい、いたい。
 金魚鉢にヒビが入ってしまいそうだ。
 健司の拒絶が、何よりもいたい。
 でも、奈穂子は健司から視線をそらさなかった。そらせなかった。


 ひどいことを言われて、傷ついているのは奈穂子のほうのはずなのに。
 どうして健司のほうが、そんな顔をするんだろうか。



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