ごろごろごろ。奈穂子はベッドの上でだらしなく寝っ転がっていた。
ベッド脇のうさぎのぬいぐるみをなんの気なしに手に取り、ぽいっと放り投げてみる。
壁にぶつかったぬいぐるみは、やわらかな音を立てて床に落ちる。
そうやって、床に横たわったいくつかのぬいぐるみをぼんやり眺めて、奈穂子はため息をついた。
学校に行く気がしない。
物音一つしない家は、世界に自分しかいないんじゃという錯覚にとらわれるほどにしんと静まりかえっていて、足元から寒気が這い上がってくる。
家に一人でいるのは暇で暇で仕方なく、それが嫌で奈穂子は今までできるだけ外に出ていた。
よほどのことがない限り学校を休んだことはない。特に好きというわけではない部活動にも積極的に出た。放課後や休日に彼氏とデートするのは本当に楽しかった。
健司の家に入り浸っていたのだって、家に帰りたくなかったから、という理由が大きい。
なのに今は、家から一歩も外に出たくなかった。
昨日の夜、具合が悪いみたい、と母親には言っておいた。
顔を見られたくなくて部屋から出なかった奈穂子に、ご飯は食べた? とだけ母は尋ねた。
少しして、ドアの前に置かれた、玉子粥と薬。風邪薬に痛み止めに整腸剤に、冷えピタまで。どこが悪いと言わなかったんだからしょうがないけれど、少し笑ってしまった。
今まで真面目に学校に行っていたから、数日くらいは休んでも許してくれるだろう。出席日数も余裕で足りている。
今は、もう、何もしたくなかった。何も考えたくなかった。
そろそろ一限目が始まる時間だろうか。
……健司は、今日もいつもどおり、学校に行ったんだろうか。
奈穂子とは違う、正しい意味で真面目な健司のことだ。きっと今ごろはしっかり先生の話を聞きながら板書をしている。
幼稚園でも誰よりもすらすらと本を読んでいた。小学校のテストで100以外の数字を見たのは数えるほどだった。
中学校以降も……成績優秀なのは健司の母から聞いて知っていた。
あのころからかぁ、と奈穂子はぼんやり思い出す。
思春期特有の照れだろうか。中学生になりたてのころ、健司との距離があいたことがあった。
あのときの奈穂子はただただショックだった。寂しかった。
見放された、と思った。
金魚鉢の中がカラカラに乾いてしまいそうになった。
ちょうどそのころだった。奈穂子が男子に声をかけられるようになったのは。
かわいいと言ってもらえた。好き、と言ってもらえた。
うれしかった。健司に見放された自分にも、まだ価値があるんだと思えた。
言われるままにお付き合いをすることになって、彼氏は二人三人と増えていった。
好きと言ってくれたみんなに応えたいと思ったから。
あのころから、今にいたるまで。
奈穂子はちゃんとした恋をしているつもりだった。
彼氏は頻繁に増えたり減ったりしていたけれど、みんなちゃんと好きだと思っていた。
今だって、彼氏のことを好きという気持ちは本物で、特別かそうじゃないかなんて、判別できない。
好きって言ってくれたから、その人のことを好きになったから、お付き合いする。
何もおかしいことはない、とずっと思っていた。
でもそれは、奈穂子を本気で好きになってくれた人を傷つける行為、だったらしい。
奈穂子を本気で好きじゃない人を引き寄せる行為、でもあったらしい。
よくわからないけれど、頭のいい健司が言うなら本当のことなんだろう。
健司は真面目で、誠実な人柄だ。そしてとても優しい。
誠実には誠実で返す。けれど不誠実に対して誠実を押しつけることもない。そういう人。
誠実な想いを向けてくれていた人たちに、不誠実な対応をしていた奈穂子を嫌うのは、当然のことなんだろう。
……奈穂子は、健司に嫌われて当然のことを、していたんだろう。
また涙がにじんできて、ぐしぐしと目元をこすった。
昨日あれだけ泣いたのに、まだ足りないらしい。
どれだけ泣いても、健司は優しい言葉をかけてくれることも、触れてくれることもなかった。
困った様子だけはかろうじて伝わってきたけれど。
そのうち背中を向けられてしまい、振り返らない背中を見ているのはつらくて、逃げるように健司の家を飛び出した。
健司の母に挨拶できなかったのは悪いことをした。不審に思われなかっただろうか。健司は何か言われなかっただろうか。
何も考えたくないのに、気づくと奈穂子の頭の中は健司のことばかりだ。
ピンポーン。
チャイムの音が鳴り響く。
新聞や宗教の勧誘だろうか。宅配が届くという話は聞いていない。
面倒だから居留守を使ってしまおう。どうせいつもなら家には誰もいない時間なのだ。
コンコン、とノックの音がしても、奈穂子は布団にもぐり込んだままでいた。
「アホ子、いるんだろ」
その声に、ガバッと跳ね起きた。
玄関と奈穂子の部屋、二枚のドア越しの声は不明瞭で、聞き取りづらかったけれど、すぐにわかった。
ドタドタと騒がしい音を立てて玄関に向かう。
鍵を開けて、開けたドアの向こうにいたのは、やっぱり、健司だった。
「なに学校サボってんだよ、アホ子」
「健ちゃん……」
そう言う健司だって、この時間にここにいるということは、サボリじゃないのか。とは、言うことができなかった。
学生服に身を包み、いつもどおりの不機嫌顔の健司。
その姿を見ただけで、全身にかかっていた重石がきれいさっぱり消えたような心地になった。
健司が来るなら、パジャマのままではなくせめて部屋着に着替えて出迎えたかった。なんてどうでもいいことが頭をよぎるくらい、一瞬にして奈穂子は元気を取り戻した。
もちろん、完全復活というわけではなく、昨日のことを思えば、なぜ家に来たのか聞くのが怖かったりもするけれど。
「入っていいか」
なんて言ったらいいかわからず、奈穂子は無言でうなずいた。
どうやらすぐに帰るつもりはないらしい。
健司が奈穂子の家に来るのはいつぶりだろうか。軽く四年ほどかもしれない。
ぼーっとしながら先導していると、いつのまにか自分の部屋に戻ってきていた。
部屋にあがるのを躊躇してか、眉間のしわが深くなった健司に、そうか、リビングでもよかったのか、と奈穂子は遅まきながら気づいた。
彼氏を部屋に招くことが少なくない奈穂子には、リビングに通すという発想がなかった。
こういう考えなしなところも、健司に嫌われる要因だろうか。
そう思ってまた奈穂子は落ち込みそうになった。
「つーか、変わってなさすぎだろ、この部屋。むしろぬいぐるみ増えてるし」
健司は部屋を見回して、呆れたようにため息をついた。
ベッドや机、棚の上などに並べられたぬいぐるみの正確な数は、奈穂子も把握していない。
そういえば、放り投げたままのぬいぐるみがいくつも転がっている。
拾ってベッドの脇に戻してから、投げてごめんね、と言うように頭をなでてやった。
「みんな、ナホの大切なお友だちだよ。一人だと寂しいから、みんなに一緒にいてもらってるの」
うさぎのぬいぐるみも、くまのぬいぐるみも、ねこも、いぬも、イルカも、ペンギンも、カピバラも、ハリネズミも。
みんなみんな、奈穂子の孤独を和らげてくれる。
何も映さない瞳に、ぴくりとも動かない手足。それでも、わたでできた身体はやわらかく奈穂子の手を受け止めてくれる。
寂しいとき、ぬいぐるみを抱きしめると、あたたかくて少しだけ安心できる。
人のぬくもりには、敵わないけれど。
「……結局、お前にとっての彼氏って、ぬいぐるみと同レベルなんだよな」
「え?」
思考を覗き見られたのかと思った。
顔を上げると、健司は苦虫を奥歯に詰まらせたみたいな、どこか泣きそうな、複雑な表情をしていた。
「寂しいから、一緒にいてもらいたいんだろ。好きだって言ってもらいたいんだろ。自分を抱きしめてくれるぬくもりが欲しいんだろ」
くしゃり、と握り込んで、健司はぬいぐるみに目を落とす。
その瞳にはいったい何が映っているんだろうか。
奈穂子も知らなかった奈穂子を、暴いていく黒い瞳が、少し怖くて、なのに惹かれてしまう。
「……たまんねぇよな、ぬいぐるみ扱いじゃ」
そんなつもりは、なかったけれど。
健司の指摘がまるきり間違っているとも、なぜか思えなかった。
もしかしたら健司は、奈穂子以上に、奈穂子のことをよく理解しているのかもしれない。
奈穂子が考えることを放棄して、好き勝手にしている間、健司はずっと奈穂子のことを見ていたのかもしれない。
幼なじみという、近くて遠い距離から、ずっと。
「健ちゃん……」
吐息のように、こぼれ落ちた。
健司が奈穂子に視線を戻したことで、初めて自分が彼を呼んだことに気づいた。
そんな顔をしないでほしい、と思った。
こっちを向いてほしい、と思った。
なのに、実際にこちらを向かれると、何を言えばいいのかわからなくなった。
「あ、その、どうしてこの時間にここにいるの? 早退したの?」
焦りながらも、どうにか気になっていたことを尋ねることができた。
目の前の健司は、奈穂子の家にいること以外はいつもどおりで、具合が悪いようには見えない。
サボリと考えるのが自然だけれど、真面目な健司がなぜそんなことを、と不思議でしょうがなかった。
「自宅謹慎。ま、ここ自宅じゃねぇけど」
「……? どういうこと?」
「ちょっと上城を殴ってきただけだ」
かみしろって誰だっけ、と一瞬頭を悩ませた奈穂子は、続く言葉で驚きすぎて心臓が止まるかと思った。
殴ってきた。殴った。健司が、あの真面目な健司が、人を。
とてもじゃないけれど信じられなかった。
「どっ、どうしちゃったの、健ちゃん!!」
上城。それは雅の苗字だ。
遅れて思い出した奈穂子は、健司を問いつめる。
なぜ健司が。それも、雅を。
このタイミングで。
「どうもしてねぇよ。約束を果たしただけだろ」
「約束……?」
「しただろ、お前を守ってやるって」
息が、止まった。
雅を殴ったと聞いた時以上の衝撃だった。
「……健ちゃん、忘れてなかったの?」
しょうがないから、おれが守ってやるよ。子ども特有の高い声が耳の裏で反響する。
覚えているのは奈穂子だけかと思っていた。
大切すぎて、壊すのが怖くて、今の今までしまったままにしていた思い出。
思い出したら、今との違いに泣きたくなるだけだから。
蓋をして、鍵をかけて。でも決して忘れることだけはできなかった、大切な大切な。
「誰が忘れるかよ。ずっと、覚えてたよ」
いつもどおりの不機嫌そうな顔で。
でも、いつもとは違って、まっすぐ奈穂子を映す瞳。
眼鏡が邪魔だな、と奈穂子は思った。
子どものころのように、そのままの健司の瞳が見たい。
好きだよ、と言ってくれた、あのころのように。
「だって、健ちゃん、冷たかった」
「そりゃあお前があんだけアホなことしてればな」
アホなこと。複数の男子と同時に付き合っていたことを指しているんだろう。
人の気持ちを考えていなかったことや、雅みたいな男に簡単に騙されていたことも含まれるのかもしれない。
奈穂子はいまだに、何がどう悪かったのかわかっていない部分がある。
それでも、今までの自分がどうやら間違っていたようだ、ということは理解していた。
「もういいよ、俺も覚悟決めた。昔からお前に泣かれると弱いんだ」
そう言って健司は苦笑する。
奈穂子に向けられた、久々の、嘲笑以外の笑み。
ドックン、と心臓が大きく脈打った。
「奈穂子」
健司の唇が、奈穂子の名を紡ぐ。あだ名ではなく、名前を。
落ち着いた声が、それほど大きくない声が、奈穂子の耳から全身へと一気に駆け巡った。
いったいいつから、彼に名前を呼ばれていなかった?
いつから、奈穂子はいつから、彼に名前を呼ばれたいと、願っていたんだろうか。
「奈穂子、俺のことを好きになれ。俺のことだけ、好きになれ」
それはまるで告白のように、甘く優しく響いた。
しあわせになるための魔法の呪文のようでもあり、奈穂子を縛る呪いの言葉のようでもあった。
好き、という言葉はこれまで何度も聞いてきた。
けれど、好きになれ、と乞われるのは初めてのこと。
その違いの理由は、あまり頭のよくない奈穂子にはわからない。
わかるのは、今までたくさんの人からもらってきた好きの言葉よりも、ずっとずっと、奈穂子の心を揺らし、満たすということだけ。
「健ちゃん、ナホのこと嫌いになったんじゃないの……?」
「嫌いになれたらよかったよ、ほんと。けど無理だった。無理だって、嫌というほど思い知った。もう、あきらめたよ、嫌いになるのは」
健司の困ったような微笑みに、奈穂子は胸がきゅうっと苦しくなった。
さっきからずっと、病気だろうかと疑いたくなるほどに、ドクンドクンと心臓が大きな音を立てている。
泣きわめきたいような、大声で叫びたいような、腹の底から笑いたいような、不思議な気分だった。
自分で自分が制御できずに、不安定な心はとっくに限界を告げている。
でも、まだ奈穂子は、肝心な言葉を聞いていない。
「健ちゃん、ナホのこと、好きなの……?」
問いかける声が震えた。
ちゃんと聞き取れるか不安になるくらい、情けない声になってしまった。
そうであってほしい。うんと言ってほしい。
健司が、奈穂子のことを好きだと言ってくれれば、奈穂子はなんだってできそうな気がした。
「好きだなんて言わねぇよ。言ったら誰でも好きになるんだろ、アホ子のことだから」
なのに、健司はそうやって明言を拒否した。
健司はずるい。思わせぶりなことを言って奈穂子の心をかき乱しておきながら、自分は逃げるなんて。
けれど今までの奈穂子を思えば、信用できなくて当然なのかもしれない。
そんなふうに考えられる程度には、奈穂子も学習していた。
「好きだなんて言ってやらない。でも、寂しいならずっと一緒にいてやる。父親の分も、母親の分も、友だちの分も、恋人の分も、俺が一緒にいてやる。だから俺だけで満足しとけ」
そう一息に言ったあと、いや、できれば友だちはいたほうがいいけどな、と付け足された。
奈穂子にとってそれはとても魅力的な申し出だった。
ずっと、健司と一緒にいられる。
今まで、どんなに冷たい言葉をかけられても、健司を嫌いになれなかった。
健司と話をしたかった。健司の傍にいたかった。健司の一番近くにいられる権利が欲しかった。
これからはずっと、ずっと。健司がそれを許してくれる。
「つまり、ナホは、どうすればいいの?」
「俺をお前の特別にしてほしい。そしたら、代わりに俺は一生お前の面倒を見てやるから」
「健ちゃん、それ、プロポーズみたいだよ」
「気分的にはそんなもんだ」
健司の言いように奈穂子は本気で驚いた。
彼が嘘をつかないことは、長い付き合いの奈穂子はよくわかっていた。
それなら健司は、真剣に、プロポーズをしたんだ。
もちろん成人どころかまだ十八にもなっていないんだから、子どものおままごととあまり変わりはないけれど。
「どうする? 俺だけじゃ不満か?」
問われる前から、奈穂子の中で答えは決まっていた。
今まで奈穂子が付き合ってきた人たち、全員と天秤にかけても。
健司一人には、敵わない。
「ナホ、健ちゃんがいい。健ちゃんとずっと一緒にいたいの」
心のままに告げて、健司に抱きついた。
ためらようにそっと抱き返されて、奈穂子はたまらず涙がこぼれた。
しあわせ、と奈穂子の心がささやいている。
壊れた金魚鉢はもう元には戻らない。
でも、そうだ。
泣いてしまった奈穂子の傍に、健司がずっとついていてくれたように。
これからは、ずっと、ずっと。
奈穂子が泣いているときも、笑っているときも、怒っているときも。
寂しいときも、悲しいときも、うれしいときも、楽しいときも。
ずっと、健司が傍にいてくれるなら。
それで、それだけで、奈穂子は充分だ。
奈穂子の好きな人は、健司たった一人だから。