「マリア様っ!?」
「やあ、ティマ」
さて、お次は、ということで。私はティマの部屋に勝手にお邪魔しました。
もう深夜といっていい時間。当然、朝の早いティマは夢の中へと旅立っていた。
起こすのは忍びなかったけど、最後の挨拶くらいはしたかったから、今回だけは許してもらおう。
軽く声をかけただけで目を覚ましたティマは、何度も目をまたたかせて、周囲を見回して、ようやく私が夢でも幻でもないことを理解したらしい。
「マリア、様……」
ティマはその目にしっかりと私を映すと、きゅうっと眉を寄せて瞳をうるませる。
飼い主とはぐれた子犬が、無事に再会できたみたいな、そんな表情。
やっぱり、憎めないんだよなぁ。
「何も言わずにいなくなって、ごめんね、ティマ」
心から、謝罪を告げることができた。
あの時は逃げるしかなかった。そうしなかったらきっと心が壊れてた。
でも、私が忽然と姿を消して、ティマは動揺しただろう。心配、してくれただろう。
侍女たちの中で、彼女だけが作りものではない笑顔を向けてくれた。
私はそれを忘れていない。
「ふふっ、名前、覚えてくださっていたんですね」
「あ……うん」
そういえば、城にいたときは一度も呼んだことがなかったな。
名前なんて呼んでやるものか、と反発していたのはずいぶん前の話。
いつのまにか覚えていた名前は、自然と口にできるほどに、なじんでいた。
「マリア様……今までどちらにいらしたのですか。私、マリア様がご無事でいられるのか、どこかで泣いてらっしゃるのでは、ひもじい思いをしていらっしゃるのでは、と心配で心配で……」
なじるような言葉は、震えているせいで迫力も何もなく、申し訳なさしか感じない。
ティマのほうが今にも泣きそうな顔をしている。
「そっか……うん、ありがとう」
ティマが心配している、というのは実はルルドから聞いてはいた。
でも、それがどの程度かまでは、人づてではわからないものだ。
こうして実際にティマと顔を合わせて、表情から、声音から、どれだけ心配をかけたのか、言葉以上に伝わってくる。
とても、素直な人だ。
かつて感じたような苛立ちは、今はもう心の隅の隅にすら生まれなかった。
「そんな、お礼なんて! その、私、マリア様に謝りたくて……」
「謝る?」
って、いったい何をだろう。
そもそも顔を合わせたのだって久しぶりすぎて、謝ってもらうようなことがあるとは思えなかった。
「私、何もわかっていませんでした。マリア様の気持ちを、まったく考えていませんでした……」
懺悔をする罪人のような神妙な表情で、ティマは重い声を落とす。
ああ、そうか。
ティマは、まだ、そこから動けていなかったのか。
「マリア様は、元の世界では普通に暮らしていた学生と伺っていました。私よりもお若くて、まだ成人もなさっていないとも。なのに、私は、マリア様が勇者だという事実だけを見ていました。私たちの、私の期待が、どれだけマリア様を追い詰めていたのか、マリア様がいなくなってしまうまで、気づかなかったんです。……ごめんなさい」
ベッドの上で、ティマは深く深く頭を下げる。額がつくほどに。
彼女には悪いことをしてしまった。
私は、もうとっくにそこから抜け出していた。
キリのおかげと、キリのせいと。どちらにせよいつまでも立ち止まってはいられなかったから。
この城でそれを知っているのは、直接会って覚悟を告げた、ルルドだけなんだ。
深夜の話し合いは、混乱を生まないためにと秘されていた。私もそのほうがいいだろうと思っていたけど。
ティマにだけは、伝えてもらうべきだったのかもしれない。
「……もう、いいよ」
「マリア様……」
私の言葉を拒絶と受け取ったらしく、ティマは顔を歪める。
ああ、違う。そんな顔をさせたいんじゃない。
ティマは自分の非も認めて、包み隠すことなく気持ちを伝えてくれた。
それなら私だって、報いないといけない。
「いいんだよ、ティマ」
私は笑った。
にこりと、元の世界で友だちに向けていたみたいな笑顔を。
ティマには一度も見せていなかっただろう笑顔を。
「私、元の世界に帰るんだ。この世界のこともどうにかなるはず。最後だから、挨拶に来たんだ」
ティマは目を限界まで見開く。
彼女の胡桃色の瞳が、フチだけ緑みを帯びていることに、初めて気がついた。
本当に、私は何も知らなかった。何も見てこなかった。
「ありがとう、ティマ。優しくしてもらえて、うれしかったよ。恋人さんと、仲良くね」
たとえそれが、勇者の私に向けられたものであっても。期待から来るものであっても。
ティマの優しさは決して嘘じゃなかった。
私は彼女の厚意をもらうだけもらっていて、時には突っぱねもして。
ずいぶんともったいないことをしてきたなぁって、今は思う。
もっと、もっと、たくさんお話しすればよかった。
そうしたらきっと、仲良くなれたのに。
私は、ティマの好きなものひとつ知らない。恋人とのなれそめも知らない。
ああでも、仲良くなったら余計に別れがつらくなるだけだったのかな。
だとしても、やっぱり、もったいない。
「ま、マリア様、私っ!」
わすれません、とティマは涙を流しながらも、笑った。
きれいな、すてきな笑顔だなぁと思った。
* * * *
「……あれ」
見覚えのない室内に、私は首をかしげる。
おかしいな、魔王城に戻ろうとしたんだけど。
まあ失敗したならしょうがない。もう一回飛ぶか、と意識を集中させるよりも前に。
「誰だッ!!」
厳しい誰何の声に、私は驚くと同時にげんなりした。
それが、聞き知ったものだったから。
「お……まえ、は……」
「や、やっほー」
硬直するイレに、どうすればいいかわからないながらも手を振ってみたり。
イレと最後に会ったのって、城下町に飛んじゃったときだったよね。何か魔法を使おうとしたイレから逃げちゃったんだよね。気まずいってもんじゃない。
ということはそうか、ここはイレの私室なのか。広いな。
明かりがついてるってことは、まだ起きていたんだろう。子どもが夜更かししてたら大きくなれないぞ。
「なんの、用だ」
「いや、それが私にもよくわからないんだけど。最後の最後になって、また事故かな……?」
「まだ力を使いこなせていないのか? いや、それよりも、最後とはどういう意味だ」
「力はもう使いこなせてるよ……説得力に欠けるけど。最後っていうのは、最後、だよ」
私の要領を得ない説明に、イレは困惑と苛立ちを隠さない。
結局最後まで、イレとは仲良くできなさそうだ。
寂しい、とは思わないけど、最後くらいは、もうちょっとうまくお別れしたい。
「よかったね、イレ。あんたの大好きな世界は守られるよ」
「っ!!」
イレが息を飲んだ音が聞こえるようだった。
大きく見開かれた瞳から、ぶわあっと涙が勢いよく流れ出す。
これには私のほうがビックリする番だ。
「……泣くことないじゃない。まるで私がいじめてるみたい」
思わず苦笑がこぼれる。
イレにとっては子ども扱いされているようでムカつくだろう表情にも、彼は今は何も言えず。
流れ落ちる涙を、拭うこともなく、止めようともせず。
食いしばった歯の隙間からもれる嗚咽を、しばらく私は黙って聞いていた。
「おれ、は、いちのはしらだから。せかいを、みんなを、まもらなきゃって」
涙の勢いが少しだけ落ち着いてきたころ。
イレはしゃっくり上げながら、聞き取りづらい声で話し始めた。
「まもりたいって、すくいたいって、でなきゃ、おれがいるいみはないって、そうおもってて、でも、おれには、そんなちからはなくて、おれにはむりだって、ずっと、いわれていて」
思いついた端から吐き出してるんだろう。
整理整頓されていない切れ切れの言葉たちは、だからこそ、イレの本心そのままで。
「いせかいからきただけでなにもしてないやつに、おれいじょうのちからがあるなんて、しんじたくなくて、でもそのちからでせかいがすくわれるなら、しょうがないって、いいことだって、おもおうとして、なのに、おまえが、やるきなくて……だから、だから……」
もろくて、きれいとは言いがたくて、けれどとてもまっすぐな心が、晒されている。
私は黙って聞いていた。何も言えることがなかった。
ごめん、は、きっと違う。それだけは確かだった。
「うれしいのに、くやしい」
ぐしゃぐしゃな顔で、ガラガラの声で。
イレはそう言って、口を閉ざした。
きっと今の彼の心の中もぐっちゃんぐっちゃんなんだろう。
今じゃかわいげのなくなった弟も、そういえば昔は泣き虫だった。
泣かせるのも私なら、泣きやませるのも私の仕事だった。
こういうとき、どうしたっけなぁ。
弟が小さかったときを思い出しながら、私はイレとの距離を詰める。
「はいはい、落ち着いて」
私より頭ひとつ分低いところにある後頭部を抱き寄せて、ぽんぽん、と宥めるように叩いた。
「な、何をするんだ!」
腕の中で暴れるイレを、私はぎゅうっと抱きしめる。
小さくて、細い。
本当なら守られてしかるべき立場にいるはずの、子ども。
まだまだ心も身体も未成熟なのに、その身に宿った強大な力のせいで、イレは子どもではいられなかった。
私から見ると、彼はひどくちぐはぐだ。
「弟思い出した。そうだよね、イレは私の弟より年下なんだよね」
年齢を聞いたことはなかったけど、イレはたぶん、現代日本ならまだ小中学生で。
そんな小さな子が、想像もつかないくらい重いものを背負って、それでも負けずに踏ん張っていたんだ。
私の考えが、決断が間違っているとは思わない。
世界の危機を異世界人に丸投げなんて今でもこなくそって感じだし、キリがいなかったら私はこの世界を救ったりしなかったし、イレの言い分はとても自分勝手だとも思う。
でも、イレはイレなりに真剣だった。自分の立場に忠実で、真摯だった。
お互いの立ち位置が、正反対だっただけ。
絶対殴ってやるって思ったこともあったけど、私たちは分かり合えなくて当然だった。
……あ〜、そっか。
最後の最後で事故った理由がわかった。いや、事故じゃなかった。
「イレも、がんばってたんだよね。悩んでたんだよね」
ぺちり。
イレの頬を軽〜く平手で打つ。
ほんのちょっと衝撃があったくらいで、痛くもなんともないだろう。
イレはきょとんと目を丸くして、私を見上げてくる。
その年相応のあどけない表情に、少しだけ罪悪感がこみ上げてきた。
「これで、許したげる。今までの言葉も全部。私にも悪い部分はあったしね」
自分勝手なのはイレだけじゃない。私だって人のことは言えない。
結局私は、自分のやりたいようにやっただけ。
最後まで自分を曲げなかった。曲げられなかった。
それでもどうにかこうにか丸く収まりそうなことを思えば、私の選択は間違っていなかったらしい。
きっと女神は、それすらも見通して私を“勇者”として求めたんだろう。
「……おれは、おまえが嫌いだ」
「私だってあんたのこと好きにはなれないよ。両思いだね」
「なっ!!」
あーあ、真っ赤になっちゃって。かわいいったら。
ちゃんとこの世界に、イレを子ども扱いしてくれる人がいればいいな。
ルルドあたり、どうにかしてくれないかなぁ。
「じゃ、私はこれで。元の世界に帰るよ」
妙にスッキリした気分で、私はイレに別れを告げる。
いつだったか勢いで言った、『ムカつくやつは殴ってから帰る』という願いは、一応叶えた。
今度こそ邪魔が入ることはないはずだ。
「イレ。この世界を、よろしくね」
一の柱っていうのがなんなのか、不真面目だった私はちゃんと理解してはいないけど。
任せるなら、彼だろう。
私はただこの世界に一時立ち寄っただけ。
キリを連れ戻すために喚ばれただけ。
これから先は、この世界の人たちの選択で、決断で、変動していく。
「マリア……」
ありがとう、と小さな小さな声で、イレはつぶやいた。
なんだ、ちゃんと言えるんじゃん。
私は微笑ましい気持ちになりながら、バイバイと手を振った。