「いらっしゃい、マリ」
キリは、あらかじめわかっていたみたいに、私を迎え入れた。
驚いた顔もしないで、笑みすら浮かべて。
きっと予想していたんだろう。キリは私のことをよく知っているから。
こうして、夜に私が訪れることなんて。
「一緒に、寝ていい?」
いつかみたいに、私は尋ねる。
「うん、いいよ」
キリも同じように、私を受け入れてくれる。
少し距離を取ってベッドに横になって、手だけはつないだままで。
まるで時間が巻き戻ったかのようだ。
この城に連れてこられた当初を思い出す。
ぼろぼろの心で、キリと一緒じゃないと満足に眠ることすらできなかった、あのころ。
覚悟を決めたはずだった。もう大丈夫のはずだった。
なのに、私の心はまた、キリのぬくもりを求めてしまう。
「もう、泣かないって決めたんだけど」
布団を引っ張り上げて、顔を隠す。
それでも、涙声だけは隠しようがない。
身体の震えだって、つないだ手から伝わってしまっているだろう。
「これでよかったのかなって、何度も、何度も、頭の中でぐるぐるしてて」
声が喉に引っかかって、嗚咽がこぼれそうになった。
布団にじんわりとにじんでいく水分は、汗か何かということにしておきたい。
「私の中での優先順位は決まっているのに、どうにもできないことなのに、たとえば一緒に連れていくことはできないのかなとか考えちゃったり」
誰よりも、キリが大切だった。キリを助けたかった。
キリを生かすには、世界を救ってというキリの願いを叶えるには、方法はひとつしかなくて。
私の世界にキリを連れて帰れるのは、キリの魂が元々はあっちの世界の領分だから。こちらの世界のものは、何ひとつ、あっちに持っていくことはできない。
もし万が一、ヨセフさんを連れていけたとしても、どっちみち魔王の力の影響は失われてしまう。
それ以外の道を選ぶことはできないのに、選ぶ気もないのに、まだ悩んでしまう自分がいる。
「弱くて……悩んでばっかで……いやになる」
勇者の力が、万能だったらよかった。
誰一人として取りこぼすことなくしあわせにできるような、奇跡を起こせればよかった。
あんなに怖がっていた強大な力を、今は、求めてしまいたくなる。
「もし連れていけたとしても、きっとヨセフはそれを望まないよ」
「知ってる……」
「僕もヨセフも、覚悟は決まっているよ」
淡々とした声が、どうしてか私の神経を逆撫でした。
かぶっていた布団を下げて、隣に視線を向ければ、穏やかな光をたたえた新緑と目が合う。
「キリは、ヨセフさんとお別れするの、つらくないの?」
責めるような言い方になってしまったと、口に出してから気づく。
新緑の瞳は変わらず私を見返している。穏やかで、優しい色。
じわりじわりと後悔が胸のうちに広がっていく。
……つらくない、わけがないじゃないか。
私以上に、私とは比べものにならないくらいに、つらいはずだ。心苦しいはずだ。悩んだ、はずだ。
でも、それでも、キリは、
「選んだだけだよ」
心を読まれたかと思った。
目を見張った私に、キリはふふっと瞳を細めて微笑む。
あの、ヨセフさんに似た、やわらかな笑顔。
胸がぎゅうっとしめつけられた。
「マリは選んでくれた。僕を救う道を。僕の本当の願いを叶える道を。だから僕も選んだ。マリと重なる道を選んだ。それだけのことだよ」
夜の帳に、優しい優しい声が落ちる。
私の心をまるっと包み込む、ふわふわの毛布みたいな。
やっぱり、私に向けられていた優しさが、全部嘘だったわけじゃない。
「ねえ、マリ」
つないでいないほうの手が、伸びてくる。
頬に触れた手がひんやりとしているのは、心があったかいから、なんてどこかで聞いた言葉を思い出す。
「僕はね、ずっとずっと、いつか勇者がやって来ることだけを待ち望んでいた」
淡い笑みをたたえたまま、キリは昔話を始める。
「勇者がやって来て、僕に剣を向けるんだ。『魔王、お前を倒す』って。何度も何度も夢に見たよ。夢の中の勇者は、男だったけど」
私はキリの夢見る勇者にはなれなかった。なりたくなかった。
「僕にとっての未来は、勇者に倒されること、それだけだった。それ以外の未来なんて考えてなかったし、望んでもいなかった」
世界から自分を消そうとするキリを、どうにかして、助けたかった。
「マリがさ、やってきて、ようやく夢が現実になるって思った。でもマリは戦う気が全然なくて。すごいがっかりしたし、なんとかやる気にさせなきゃ、って思ってたんだけど」
クスリ、とキリは笑う。
「いつのまにか、ね。次に会うときはどこに行こう、何を話そう、って考えるようになってた、気がする」
出会ったころのキリの、本当の本心。
「ほんのちょっとのことだけど、勇者に倒されること以外の、未来を見ていたんだ」
未来。
今まで、キリに存在しなかった概念。
私が、私の行動が、キリの心に変化をもたらしていた。
勇者としての私、ではなくて。
ただの、新条 真理亜が。
「……今は? 今はどんな未来を見てる?」
震える声で、問いかける。
もしも、同じものを見ているなら。
キリも私と、同じ未来を望んでいるなら。
私はもう、迷わずにいられる気がしたから。
「マリが、笑顔でいる未来。マリと……一緒に笑っている未来」
あたたかい、やわらかな笑みを浮かべながらキリは言う。
笑おう、笑おうと思っても、涙が止まらない。
私に優しくないこの世界で、私を笑わせてくれるのも泣かせてくれるのも、キリだった。
「この手を、離さなくてすむ未来」
ぎゅっと、つないだ手に力が込められる。
痛くないギリギリの力加減は、私とキリをしっかりと結びつけてくれているようで。
安堵と、幸福感で、胸がいっぱいになる。
私だって。私のほうこそ。強く強く、望んでいる。
キリが生きていて、笑っていて、私の隣にいてくれる未来を。
「気づきたくなくて、知らないふりをしていたんだけど、教えてあげる」
キリは苦々しい笑みをこぼす。
まるで、悪戯がバレた子どもみたいな、バツの悪そうな表情だ。
「マリを谷に落としたとき、マリを助けたのは、ほとんど僕の意志だ。マリはあの時、『キリ、助けて』とは言わなかった。対象は僕に固定されていなかった。勇者の力は最初の一押しにはなったけど、僕を動かしたのは、勇者の力ではなくマリの声、マリの存在。マリを失いたくないという、僕の思い」
それは初めて聞く事実だった。
あの時、たしかに私はキリの助けを願った覚えはなかった。がむしゃらに、なんでもいいから助けを求めただけ。
でも、キリが『身体が勝手に動いた』と言ったから、そういうものなのかと思っていた。
今考えてみれば、おかしい点もあった。キリに願ったのなら、谷の斜面の草木が願いに反応することはなかったはず。私の願いがキリに向けられていたものではなかった何よりの証拠だ。
身体が勝手に動く、なんて。そんなの、大切な人が危険な目に遭ってたら、当然のこと。キリの場合はその状況を作った張本人だったわけだけど。
「知らなかったんだよ……」
吐息のような、ささやき。
キリの鮮やかな色の瞳が、揺らぐ。
「こんな、あたたかい気持ちがあるなんて、知らなかった。心が浮き立って足元がおぼつかないような感覚も、全身の血が一瞬で凍るような喪失感も。声が聞きたい、姿が見たいと望みながら、一緒にいると自分が自分じゃなくなるみたいな心許なさとか、そんな」
途中で言葉を切ったキリは、つないだ手を持ち上げて、こつんと額に当てる。
祈るように。乞うように。
「そんな、大切な人が、できるなんて。思ってもみなかったんだ」
切々とした声が、それを真実だと伝えてくれる。
キリの言葉が、キリの想いが、じんわりと、内側から私をあたためていく。
こんな言葉をもらえるほど、私はキリに何かしてあげられただろうか。
「私も……キリが、一番大切だよ」
大切。特別。好き。
どんな言葉でも足りない気がする。
家族より、友人より、故郷よりも、キリを選んだ。
キリを救えるなら他の大切なものすべてを失ってもかまわないと、本気で思った。
私はもう、キリだけは失えない。
「本当、私に勇者なんて向いてないんだよ。私はこの世界なんて、今でもどうでもいい気持ちが強くて。痛いことも怖いことも全部嫌で、関係ない世界のために危険な目に遭うなんてくそくらえって思ってる。私は、キリがここにいたから、キリが望んだから。この世界のためじゃなく、キリのための勇者になろうって思ったんだよ……」
結局私は、自分のしたいようにするだけ。臆病で、自分勝手で。
こんな格好悪い勇者なんて、きっと私以外にはいない。
それでも、リーリファが、キリが選んだのは、私だった。
なら、迷いは捨てよう。たった一人のための勇者として、覚悟を決めよう。
天秤は傾いたまま動かない。望みは最初から変わらない。
あとで死ぬほど苦しんだって、どうせ私は、後悔だけはしないだろうから。
「抱きしめて、いい?」
震える声で、キリが言う。
問いに答える代わりに、私のほうから身を寄せた。
腕が、ゆるく私を囲い込む。ガラス細工に触れるみたいに、込められた力はわずかなものだった。
キリの背に手を回して、私も抱き返せば、思っていたよりもしっかりした胸板にドキリとする。
私とそんなに身長が変わらないキリは、それでも、男の人の身体をしていた。
「マリ。マリア……」
うわごとのように、名前がささやかれる。
求められている、とわかる。
キリは私を必要としてくれている。キリは私に心を寄せている。
キリは、私のために、生を選んでくれたんだと。
ようやく、実感することができた。
「僕の、マリア」
私を求める声に、心が冴え渡っていく。
ぐちゃぐちゃだった思考はほどけ、単純明快な答えだけが見えてくる。
天秤は、もう、揺らがない。
私は。
キリだけの
救いであれれば、それでいい。