33 「私にお休みをくださいませんかね」

「心は決まった?」

 ルルドに会いに行った次の日。廊下でぼんやりと窓の外を見ているキリに、私は声をかけた。
 努めて軽い調子で尋ねてみても、どうしてもその言葉には重みが伴ってしまう。
 当たり前だ。私は、求めているんだから。
 キリに、決断を。

「僕は、どうしたらいいんだろう」

 キリはこちらを向くことなく、ぽつりとつぶやいた。
 迷子が、どこへ行けばいいのかわからずに、立ち尽くしているみたいな。
 そんな弱々しい声で。

「この力が……魔王としての業がなくなるなんて、思ったこともなかった。僕は死ぬまで魔王だと思っていた。ただの人としての生なんて、五歳のあの時、終わったと思っていたのに」

 窓の外、鬱蒼と広がる森を見下ろしながら、キリはぽつぽつと語り始めた。
 ううん、たぶん、その瞳には森なんて映っていない。
 今、キリの両目は過去に向けられている。
 まだ村に住んでいて両親が生きていた、ただの子どもだったころのこと。すべてが変わってしまった五歳のある夜。ヨセフさんに出会った日や、絶望の日々。ただ、救いを、勇者の訪れを待つだけの十年間。
 キリの望んでいた救いは、きっとこういう形でもたらされるものではなかった。

「異世界、か……どんなところなんだろう。景色も、人も、みんな違うんだよね。不思議な力も存在しないんだっけ。マリが通っている学校に、僕も行くことになるのかな」

 ふっ、とキリは少しだけ笑った。
 その笑みはとても……無理をしているように、私には見えた。

「キリ」

 案じるように名前を呼んで、一歩近づく。
 それは答えを催促するようにも、聞こえてしまったかもしれない。
 今、キリは何を考えているだろう。何を思っているだろう。何に、悩んでいるんだろう。
 私はそこまで人の心の機微に敏感なわけじゃない。
 キリの本音を聞きたくて。キリの心が、知りたくて。
 じっとキリを見つめていると、彼は少しずつ視線を下げていって。
 ついにはうつむいて、ぎゅっと、何かをこらえるように自分の腕をつかんだ。

「こわいよ……」

 その声は小さく、聞き取りづらいほどに震えていた。

「何もかもが違う世界に行くなんて、恐怖でしかない。ああ……マリは本当に、苦労したんだね。今になってそれがわかった」

 キリの気持ちが、わからないわけじゃない。むしろたぶん、この世界の誰よりも理解できる。
 私の場合は、覚悟なんて決める暇がなかった。気づいたらこの世界に来ていた。
 もし、あらかじめ異世界に喚ばれることがわかっていたとしたら。
 私はどれだけ悩んだんだろう。どれだけ恐れたんだろう。
 この世界に来た当初どれだけ反発したかを思い出せば、容易に想像がついた。
 あっちの世界に行ったなら、キリもきっと苦労することになる。泣くことだってあるかもしれない。この世界が恋しくなることも。
 それでも私は、選んでほしい。

「キリが何も知らないように、私以外は誰も、キリを知らない世界だよ。キリはそこで、新しく始められる。罪なんてどこにもない。罰を受ける必要もない」

 私が話し始めると、キリはゆるゆると顔を上げて、私のほうを向いた。
 迷い、惑い、ためらい、恐れ。そんなものが瞳の奥に見える。
 それを私は全部、受け止めてあげたい。
 一緒に消化していきたい。

「キリは、生まれ変わるんだよ」

 春に芽吹くどんな植物よりも鮮やかな、きれいな色の瞳が見開かれる。
 私はそのあたたかな色が、大好きだ。
 この世界にやってきて、一番最初に心を開けた存在。私が傷ついていたとき、毛布みたいにやわらかく包んでくれた。この瞳が見守ってくれていた。
 彼の本当の望みを知って、きれいな色の中に隠されていたたくさんの傷を知って。
 それでもやっぱり、私はキリが大切だって、失いたくないって、思ったから。
 私はどうしても、キリを連れて帰りたい。

「そう、考えることは、できない?」

 問いかけは、どうしても弱々しいものになってしまった。
 私だってもちろん不安は山のようにある。
 勇者の力で魔王を連れ帰ることができるって、勇者の知でわかってはいてもうまくいくかなんて自信がない。
 連れ帰った、あとのことだって。
 私に何ができるんだろう。キリがあっちの世界で過ごしやすいようにするために。
 いろんな可能性やいろんな方法を考えては、頭を悩ませる毎日だ。
 でも、あきらめたくないんだ。せっかく知った希望を、試すこともしないで捨てたくない。
 できるって、そう信じることも、勇者の力を扱う上で、きっと大切なことだから。

「……マリは本当、口説き上手だ」
「口説かれてくれる?」

 冗談めかして言えば、キリは困ったような顔をしてまた視線を落とした。
 それから、深いため息。

「ヨセフが……」
「ヨセフさん?」

 たしかにキリがいなくなったら、ヨセフさんは一人になってしまう。
 彼のその後を心配する気持ちもわかるけど。
 それにしては、妙な空気が流れている気がした。

「今さらなこと、かもしれないけど」

 そう前置きをして、キリは重い口を開く。

「僕がいなくなったら、ヨセフは、きっと……。今、ヨセフの身体は、僕の力でもたせているようなものだから」

 新緑の瞳が、ゆらゆらと複雑な色を内包して揺れている。
 キリが何を言いたいのか、ヨセフさんがどうなってしまうのか、私はゆっくりと理解した。理解、してしまった。
 出そうになった、悲鳴を飲み込む。
 カタカタと手が……手だけじゃなく、全身に震えが回っていく。
 そんな、だって、それって、つまり。
 意味のない言葉ばかりが脳内で飛びかう。
 重力が倍になったかのような重い空気が、その場に落ちる。

「怖じ気づいている口実に、私を使わないでいただけますかな」

 そんな中で響いた声は、空気に似合わないのほほんとしたものだった。
 私もキリも、バッとそちらを振り返る。
 ここはどっちかの部屋とかじゃなく廊下で、だから彼が通りがかるのもおかしくはないんだけど。
 まさか、こんなタイミングで。
 こんな話をしているときに、聞かれているだなんて。

「……そんなんじゃない」

 キリは眉をひそめて、反論した。
 ヨセフさんはそれを聞いても、微笑みを浮かべたまま。
 私はそんな二人の顔を交互にうかがうことしかできない。

「ねえ、魔王様。私にお休みをくださいませんかね。そろそろゆっくり眠りとうございます。けれど今のままでは、魔王様のことが心配でおちおち休んでおられんのです」

 穏やかな声。やわらかな笑み。
 まるで、ただ単に休暇を申し入れしているような。
 でもこれは人生のお話。命のお話。本当なら、もっと重く語られるべき内容。
 ヨセフさんは、きっとわざと、重く聞こえないように話している。

「ヨセフは、僕がマリの世界に行ったほうがいいって、言うんだね」

 キリがまっすぐ、ヨセフさんを見つめる。
 彼の心の奥底まで、覗き込もうとしているみたいに。
 キリの視線を受けて、ヨセフさんは。
 心をすべて差し出すみたいな、そんな笑顔を見せた。

「魔王様が、魔王を恨んでいることを、私は誰よりも存じておりますので」

 しわがれた声が、ゆっくりと、その言葉を紡ぐ。

「ただのキリとして、おいきください」

 行ってください、なのか、生きてください、なのか。
 私にはわからなかった。どちらの意味でもおかしくなかった。
 キリの耳には、どう届いたんだろうか。


 その言葉が、キリにとって、前に進む力になればいいと、思った。




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