「心は決まった?」
ルルドに会いに行った次の日。廊下でぼんやりと窓の外を見ているキリに、私は声をかけた。
努めて軽い調子で尋ねてみても、どうしてもその言葉には重みが伴ってしまう。
当たり前だ。私は、求めているんだから。
キリに、決断を。
「僕は、どうしたらいいんだろう」
キリはこちらを向くことなく、ぽつりとつぶやいた。
迷子が、どこへ行けばいいのかわからずに、立ち尽くしているみたいな。
そんな弱々しい声で。
「この力が……魔王としての業がなくなるなんて、思ったこともなかった。僕は死ぬまで魔王だと思っていた。ただの人としての生なんて、五歳のあの時、終わったと思っていたのに」
窓の外、鬱蒼と広がる森を見下ろしながら、キリはぽつぽつと語り始めた。
ううん、たぶん、その瞳には森なんて映っていない。
今、キリの両目は過去に向けられている。
まだ村に住んでいて両親が生きていた、ただの子どもだったころのこと。すべてが変わってしまった五歳のある夜。ヨセフさんに出会った日や、絶望の日々。ただ、救いを、勇者の訪れを待つだけの十年間。
キリの望んでいた救いは、きっとこういう形でもたらされるものではなかった。
「異世界、か……どんなところなんだろう。景色も、人も、みんな違うんだよね。不思議な力も存在しないんだっけ。マリが通っている学校に、僕も行くことになるのかな」
ふっ、とキリは少しだけ笑った。
その笑みはとても……無理をしているように、私には見えた。
「キリ」
案じるように名前を呼んで、一歩近づく。
それは答えを催促するようにも、聞こえてしまったかもしれない。
今、キリは何を考えているだろう。何を思っているだろう。何に、悩んでいるんだろう。
私はそこまで人の心の機微に敏感なわけじゃない。
キリの本音を聞きたくて。キリの心が、知りたくて。
じっとキリを見つめていると、彼は少しずつ視線を下げていって。
ついにはうつむいて、ぎゅっと、何かをこらえるように自分の腕をつかんだ。
「こわいよ……」
その声は小さく、聞き取りづらいほどに震えていた。
「何もかもが違う世界に行くなんて、恐怖でしかない。ああ……マリは本当に、苦労したんだね。今になってそれがわかった」
キリの気持ちが、わからないわけじゃない。むしろたぶん、この世界の誰よりも理解できる。
私の場合は、覚悟なんて決める暇がなかった。気づいたらこの世界に来ていた。
もし、あらかじめ異世界に喚ばれることがわかっていたとしたら。
私はどれだけ悩んだんだろう。どれだけ恐れたんだろう。
この世界に来た当初どれだけ反発したかを思い出せば、容易に想像がついた。
あっちの世界に行ったなら、キリもきっと苦労することになる。泣くことだってあるかもしれない。この世界が恋しくなることも。
それでも私は、選んでほしい。
「キリが何も知らないように、私以外は誰も、キリを知らない世界だよ。キリはそこで、新しく始められる。罪なんてどこにもない。罰を受ける必要もない」
私が話し始めると、キリはゆるゆると顔を上げて、私のほうを向いた。
迷い、惑い、ためらい、恐れ。そんなものが瞳の奥に見える。
それを私は全部、受け止めてあげたい。
一緒に消化していきたい。
「キリは、生まれ変わるんだよ」
春に芽吹くどんな植物よりも鮮やかな、きれいな色の瞳が見開かれる。
私はそのあたたかな色が、大好きだ。
この世界にやってきて、一番最初に心を開けた存在。私が傷ついていたとき、毛布みたいにやわらかく包んでくれた。この瞳が見守ってくれていた。
彼の本当の望みを知って、きれいな色の中に隠されていたたくさんの傷を知って。
それでもやっぱり、私はキリが大切だって、失いたくないって、思ったから。
私はどうしても、キリを連れて帰りたい。
「そう、考えることは、できない?」
問いかけは、どうしても弱々しいものになってしまった。
私だってもちろん不安は山のようにある。
勇者の力で魔王を連れ帰ることができるって、勇者の知でわかってはいてもうまくいくかなんて自信がない。
連れ帰った、あとのことだって。
私に何ができるんだろう。キリがあっちの世界で過ごしやすいようにするために。
いろんな可能性やいろんな方法を考えては、頭を悩ませる毎日だ。
でも、あきらめたくないんだ。せっかく知った希望を、試すこともしないで捨てたくない。
できるって、そう信じることも、勇者の力を扱う上で、きっと大切なことだから。
「……マリは本当、口説き上手だ」
「口説かれてくれる?」
冗談めかして言えば、キリは困ったような顔をしてまた視線を落とした。
それから、深いため息。
「ヨセフが……」
「ヨセフさん?」
たしかにキリがいなくなったら、ヨセフさんは一人になってしまう。
彼のその後を心配する気持ちもわかるけど。
それにしては、妙な空気が流れている気がした。
「今さらなこと、かもしれないけど」
そう前置きをして、キリは重い口を開く。
「僕がいなくなったら、ヨセフは、きっと……。今、ヨセフの身体は、僕の力でもたせているようなものだから」
新緑の瞳が、ゆらゆらと複雑な色を内包して揺れている。
キリが何を言いたいのか、ヨセフさんがどうなってしまうのか、私はゆっくりと理解した。理解、してしまった。
出そうになった、悲鳴を飲み込む。
カタカタと手が……手だけじゃなく、全身に震えが回っていく。
そんな、だって、それって、つまり。
意味のない言葉ばかりが脳内で飛びかう。
重力が倍になったかのような重い空気が、その場に落ちる。
「怖じ気づいている口実に、私を使わないでいただけますかな」
そんな中で響いた声は、空気に似合わないのほほんとしたものだった。
私もキリも、バッとそちらを振り返る。
ここはどっちかの部屋とかじゃなく廊下で、だから彼が通りがかるのもおかしくはないんだけど。
まさか、こんなタイミングで。
こんな話をしているときに、聞かれているだなんて。
「……そんなんじゃない」
キリは眉をひそめて、反論した。
ヨセフさんはそれを聞いても、微笑みを浮かべたまま。
私はそんな二人の顔を交互にうかがうことしかできない。
「ねえ、魔王様。私にお休みをくださいませんかね。そろそろゆっくり眠りとうございます。けれど今のままでは、魔王様のことが心配でおちおち休んでおられんのです」
穏やかな声。やわらかな笑み。
まるで、ただ単に休暇を申し入れしているような。
でもこれは人生のお話。命のお話。本当なら、もっと重く語られるべき内容。
ヨセフさんは、きっとわざと、重く聞こえないように話している。
「ヨセフは、僕がマリの世界に行ったほうがいいって、言うんだね」
キリがまっすぐ、ヨセフさんを見つめる。
彼の心の奥底まで、覗き込もうとしているみたいに。
キリの視線を受けて、ヨセフさんは。
心をすべて差し出すみたいな、そんな笑顔を見せた。
「魔王様が、魔王を恨んでいることを、私は誰よりも存じておりますので」
しわがれた声が、ゆっくりと、その言葉を紡ぐ。
「ただのキリとして、おいきください」
行ってください、なのか、生きてください、なのか。
私にはわからなかった。どちらの意味でもおかしくなかった。
キリの耳には、どう届いたんだろうか。
その言葉が、キリにとって、前に進む力になればいいと、思った。