「顔つきが違いますね。どうやらマリア様は本当に、勇者様になられたようだ」
「うん」
約束の、一週間後。私はルルドの私室にやってきた。
私が来る前からある程度は予想していたのかもしれない。前回の密会で浮かび上がった謎を、問いただすこともなく落ち着いた様子の私を見て、ルルドは苦笑いをこぼした。
私は彼の問いに、しっかりとうなずく。
時間が欲しいと言ったルルドには申し訳ないけど、とてもじゃないけど待てなかった。自分でできる限りのことをしたかった。キリのことを、自分以外の誰かに丸投げなんて、できなかった。
そうして私は、勇者の知を手に入れて。
「全部、知ったよ。この世界の誰も、女神様しか知らないようなことを、たっくさん」
つられるように私も苦笑して、自分の頭に手をやった。
スマホを介することで、正常にこの頭にインプットされた山ほどの知識。
この世界の理。この世界の真理。
「辞書なのかなぁ。備忘録なのかなぁ。神、そのものなのかなぁ。よくわかんないけど、膨大すぎて頭が痛くなったよ」
ははは、と笑う。笑うしかなかった。
世界の誰も知らない知識を得るなんて、本当にバケモノじみてしまった。
でも、後悔はしていない。キリを救うために、必要な知識だったから。
キリのためならなんだってする、という気持ちは、心からのものだったから。
「……もう、これは必要ないのでしょうね」
ため息をひとつ。
それからルルドは、机に広げられていた紙の束に視線を向けた。
文字が多すぎて頭に入ってこないけど、流れるような、どこか神経質そうな字は間違いなくルルドのものだ。
「何、それ?」
「魔王、勇者、女神に関する記述を徹底的に洗いました。結果、ただの表現の違いとごまかされてしまいそうな矛盾点が、いくつも浮き彫りになりました」
なるほど、一週間の間、そんなことをしていたのか。
女神の知を持っていないルルドなら、過去の書物から知識を得るしか真実を知る方法はない。
今まで誰も知らなかったということは、はっきり記されているものが存在しなかったということだろう。その中でも何かしら見つけてきたようだから、本当にルルドは優秀だ。
「たとえば?」
「勇者光臨を謳った《晴れや、晴れや》という詩があったでしょう」
魔王が目覚めたとき、勇者が召喚される。とそんな感じで始まる詩。
何度も聞かされたし、目にしたし、あまり長くもなかったから、当時は勉強する気のなかった私も微妙に覚えてしまっている。
でも、細部までは覚えてないなぁ、と思っていると、ルルドは一枚の紙を私に示して見せた。
そこには詩がそのまま写し取ってあった。
――魔王、目覚めし
刻 リーリファは異界の勇者を望む
勇者、
希なる韻 リーリファの
体を得、
知を得、
力を得る
魔王、世界を穢す リーリファは哀れみ、憂い、
禍を悼む
勇者、世界を揺らす リーリファの韻にて魔王を弑す
世界、響きわたる リーリファは歌う 晴れや、晴れや、晴れやと――
「魔王が“目覚める”とありますが、勇者が魔王を“弑する”となっています。殺された……消滅したはずの魔王がその数百年後にまた“目覚める”というのは、おかしいでしょう? 目覚める、とあるならば、それに対応する言葉は“封じる”であるはずなのです。これは、魔王は同一人物ではない、という事実を示しているように思えました」
「そっか……たしかに」
「さらには、弑するとは王や親など、自分よりも立場が上の人間を殺す場合に使う言葉。であれば、女神に力を与えられた勇者よりも、魔王の立場が上ということになります。伝えられていくうちに言葉を誤ったか、言葉自体の意味が変わったのかとも思いましたが。後の世の勇者が真実へとたどり着くよう、足がかりとしてわざとこの言葉を選んだのでは、と私は考えました」
「なるほど……」
「そう考えてみると、リーリファが勇者を望む、という一節にも疑問がわきます。今回の勇者召喚には十年の時がかかりました。勇者召喚の儀はたしかに女神のお力をお借りするものですが、この詩はまるで女神主導で勇者を召喚するかのようです。これも、ただ音をそろえるため、とも取れますが……」
「けど?」
「もし、そうではないのなら。リーリファ、というここで連呼されている女神の名に、別の意味も含まれているのなら、と」
論文の発表会のように、ガーッと話し続けていたルルドは、そこで一度、口を閉ざした。
私から視線をそらし。何かと葛藤しているかのように、眉をひそめて。
また、私に視線を定めて。
彼は確認ではなく、確信を口にした。
「魔王は……神、そのものだったのですね」
「……うん」
悲壮感すら漂わせながらも、ルルドの紫雲の瞳はしっかりと私を映していた。
嘘は、つけない。私はゆっくりとうなずく。
女神の魂の欠片を持って生まれた存在。それが魔王。
解釈次第では、魔王と女神をイコールでつなげることもできる。
そして、この世界の人たちが女神と崇めていたリーリファも、元をたどれば……。
「これ、私が知ったこと全部、書いてある。ルルドの好きにしていいよ」
手に持っていた数枚のルーズリーフを、ルルドに差し出す。
それをちらりとも見ることなく、ルルドは眉間に深いしわを刻んだ。
「……私に、どうしろと」
「だから、好きにしていいんだってば。読んでもいいし、見ないで捨ててもいい。広めてもいいし内緒にしててもいい。この世界の人たちが知っていいことなのかいけないことなのか、私にはわからなかったから。私にはそれを決める権利なんてないと思ったから。ルルドに、全部任せる」
この世界の常識を知らない私より、この世界で生まれてこの世界で育ったルルドのほうが、確実に判断能力は高いはずだ。
彼なら大丈夫、という信頼も、あった。
他の誰でもなく、ルルドに任せようと、迷わず決めたくらいには。
「まったく……ずいぶんと無茶苦茶なことをおっしゃいますね。マリア様は私を買いかぶりすぎです。もし私が真実を知り、道を踏み外したなら、どうなさるおつもりで?」
「そのときはそのときじゃない? 私は元から、この世界の面倒を見る気はなかったんだし。悪いけど、そこまで責任取れないよ」
ひどいことを言っている自覚はある。これこそ丸投げだ。
キリのことは丸投げできなかった。自分で責任を持ちたかった。
でも、この世界についてまでの責任を負えるほど、私の器は大きくない。
キリのために世界を救おうとは思ったけど、それはあくまでキリを救うついでだったわけで。
どうせ私はこの世界にとっては客人だ。その立場は変わらないし、変えようとも思わない。なら、客人が他人の家を荒らしていいわけがない。
客人は、ただ持って帰るだけ。本来なら自分の元にあるべきだったものを。
「この世界のことは、この世界の人が決めなきゃ。私は部外者だよ」
自分の世界から、この世界にやってきた少女の、魂の欠片を。
この世界に在っては歪みを生むだけの、かつてはただの少女だった、女神の一部を。
いつかすべてが元の世界へ還る時が来るまで、勇者は喚ばれる。
そういうことだったんだ。
「……帰る方法も、わかったのですね」
ルルドは、微笑む。
力なく、けれど優しく。
心から安堵したように。少しだけ、惜しむように。
「うん、全部ね。わかってみれば、簡単なことだったよ」
私も笑顔を返す。
晴れやかに、うれしそうに、笑えていればいいと思った。
罪悪感は、今はそっと押し隠して。
「私は、地球に、キリを連れ去るよ」
キリがうなずいてくれれば、だけど。
それしか道がないなら、きっとキリは、選ぶ。
この世界が救われる方法を。
キリがキリとして在れる未来を。
魔王は、世界を越えて、ようやくただの人になれる。