20 「キリの願いを教えて」

「わ〜、きれい! 水面がキラキラしてる!」
「そうだね」

 あの日から三日後の今日は、絶好のお出かけ日和。
 私とキリは約束どおり湖に来ていた。
 塔の上から見ただけではわからなかった湖の広さ。水の透明度。
 太陽の光を受けて輝く水面の、美しさ。

「こんなに水が澄んでるなんて。本当にこのあたりにも魔物がいるの?」
「うん、今はもう遠くに移動してるけど、さっきまで気配があったよ」
「変な感じ……魔物って毒々しいイメージがあるのに」
「魔物は自然物は破壊しないんだ。人間とか、動物とか、あとは人工物だけ」
「どうしてなんだろう?」
「さあ? 理由なんて考えたこともなかった」

 魔王でも、魔物のことを知らないものなんだなぁ。
 魔物を従えてるわけじゃないんだから、当然かもしれないけど。
 魔物が人間や動物だけを襲う理由、か。
 ルルドなら知ってるかな。今度もし会うことがあったら聞いてみてもいいかもしれない。

「キリ、ちょっと見てて」

 そう言って、私は湖の縁に立ち、神経を集中させる。
 すう、と息を吸って、手を湖の方向に伸ばす。

「《湖の水は浮かび上がって球体になる》」

 水面のものではないしろい光が、水を取り囲んで動かす。
 力の使い方のコツは、この三日で完全につかんだ。
 今までどうして失敗していたのかわからないくらいに、あっさりと、私の身体の一部みたいに使えるようになった。
 腹立つけど、キリのショック療法がかなり効いたらしい。

「《細長く伸びる》」

 まるく浮かんでいた水が、形を変える。
 にょいーんと細長く伸びていって、まるで蛇みたいになった。
 さて、これからは想像力の出番。集中力勝負。
 息を吐いて、吸って、頭の中に思い浮かべながらそれを音にした。

「《龍の形になる》」

 韻を、力に。願いを、現実に。
 私の言葉に呼応して、水が膨張し、形を変えていく。
 まず顔ができて、ヒゲが生えて、一枚一枚うろこが作られていって、手が生えて、しっぽまで完成したら、ゆっくりと瞳が開かれた。
 水でできた龍。透明なのに、迫力満点だ。

「すっかり使いこなせるようになったね」

 隣で見ていたキリがうれしそうに言う。私の成長を喜んでくれているらしい。
 でもなぁ。
 やっぱり、ちょっと、腹が立つ。

「《キリをすり抜ける》」
「え?」

 私の言葉にキリが目を丸くしたときには、もう水の龍は動いていた。
 一直線に、キリに向かって。
 大きな龍は正面からキリに衝突したかと思うと、当然ながら材質は水なので、多少形を変えながら泳ぐようにしてキリをすり抜けた。
 あとに残されたキリは、もちろん、全身びしょ濡れだ。

「……マリ」

 仏頂面のキリなんて、めずらしいなぁ。スーパーレアだ。
 おもしろくなって、私は笑い声をあげてしまった。

「あはは、寒そう」
「そうしたのはマリでしょ」
「キリなら大丈夫かなぁって」
「それはたしかに、風邪を引いたりはしないけど」

 やっぱりなぁ、と思っていると、キリの瞳が怪しく輝いた。

「《水しぶきが跳ねてマリアにかかる》」

 え、と声をもらす暇もなかった。
 驚いたのは今度は私の番。
 ドッパーンと突然湖から水しぶきがあがって、私も頭っからつま先まで水浸しになってしまった。

「キリ!!」
「お返し。大丈夫だよ、勇者のマリも風邪引かないから」

 ああ、それもやっぱりだ。
 たぶん今の私は、ご飯を食べなくても死なないし、寝なくても生きていける。
 ご飯も食べずに、ほとんど眠れずに過ごした時、衰弱していたように感じたのはきっと精神的なもの。丸二日近く何も口にしていなかったのに、次の日に普通のご飯が食べられたのがその証拠だろう。
 女神から授かった勇者の体《たい》って、そういうことも含んでいるんだ。
 自分の身体じゃないみたいで、ちょっと怖いけどね。
 今はもう、そんなことはわりとどうでもいい。

「こんなに濡れちゃったならいいかな。ちょっと入っちゃおう。《私は寒さを感じない》」

 自分に力を使ってから、靴を脱いで、ちゃぽんと湖の中に入った。服は出てから乾かそう。
 風邪を引かないなら、ちょっとくらい身体が冷えてもあとであたためられるし、問題ないだろう。
 秋とは言っても今日は日差しも強くてちょっと暑いくらいだし。
 さすがに水温をあげちゃうのはどうかと思うしねぇ。

「元気だね、マリは」
「キリもどう?」
「僕は見ているだけで楽しいよ」

 キリは誘いに乗らずに、水べりに座り込んだ。
 なんだ、つまんないの。
 まあ、キリがあんまり活動的じゃないのは、魔王城に来てから知ったけどさ。
 町で遊んでいたときには二人でいろんなところに行ったのにね。

 女神によって強化された身体能力はさすがだ。着衣水泳も難なくこなせてしまう。
 学校では、水泳もそこまで得意なほうじゃなかったな。どうしてもターンができなくて、二十五メートルしか泳げなかった。
 五メートルしか泳げなかった友だちもいたから、それよりはマシかもしれないけど、こういうのを五十歩百歩って言うんだろう。

 仰向けに浮かびながら足をバタつかせて、ゆっくり進みながら空を見上げる。
 雲一つない快晴。日の光は夏みたいに強い。そんな中、さっき作った水の龍は私がまだ集中力を切らしていないから、身体をくねらせながら宙を自由に泳いでいる。
 龍の体の中に、一瞬虹色の光が見えて、そうだ、と思った。
 せっかく水辺に来たんだし、人工的に虹を作ってみよう!
 たしか、太陽に背を向けて、ジョウロやシャワーを地面に向けて流すんだから。
 ようは細かい水滴をたくさん作ればいいんだよね。

「《たくさんの小さな水滴を作る》」

 韻を、力に。願いを、現実に。
 言葉で指定できない部分は、想像で補う。
 湖の中ほどの場所に、水滴で作った壁が生まれる。
 きれいな半円とまではいかなかったけれど、ジョウロやシャワーでは作れないくらいの大きな虹ができあがった。

「ねえ、キリ! 見て、虹!」

 成功したことがうれしくて、思わずはしゃぎながらキリに声を上げた。
 こちらを向いていたキリは、まぶしそうに目を細めた。

「……きれいだね」
「ねっ!」

 まるで自分が褒められたみたいに、無性にうれしくなった。
 塔の屋上にはよく行っているみたいだったし、さすがのキリも虹を見たことがないってことはないだろう。
 それに比べたらだいぶ小さいし、形も中途半端。
 でも、私が自分の――正確には勇者のだけど――力で作り出した虹だ。褒められたら素直にうれしい。
 調子に乗ってもっとたくさん水滴を作っていたら、キリに笑われた。

「マリ、子どもみたいだよ」
「楽しいことは全力で楽しまないと損でしょ」
「そういうものかな」
「そういうものです」

 えっへんと胸を反らせて言い張る。
 まだまだ、子どもって言われてもおかしくない年齢なんだから、子どもでいいじゃないか。
 全力で遊べるのは、今だけの特権だ。
 楽しいことは好きだし、楽しいと思うことを、怠りたくない。
 故郷から遠い遠い世界に来てしまったって、私の心は自由なんだから。

「マリの言うことはたまに難しい」

 キリはそう、苦笑を浮かべた。
 普通のことしか言っていないつもりなんだけどな。
 キリは、全力で楽しいって思うことは、ないのかな?
 それは、キリの生い立ちを思えば仕方のないことなのかもしれないけど。
 悲しくて、悔しい。
 いっつも笑っているキリは、そのくせ、いつも泣いているようにも見える。
 キリが心の底から笑ったことなんて、いったい、何回あっただろう。
 彼の微笑みは無表情と同じだということに、薄々気づくくらいには、傍にいた。一緒の時間を過ごした。
 心からの笑顔が見たいと思うくらいには、私にとってキリは特別な存在になっていた。

「キリ、ありがとね。ここに連れてきてくれて」
「ううん、約束だからね」
「勇者の力のことも。荒療治すぎたけど、正直助かった」
「僕も、マリには力を使えるようになってほしかったから」
「それでも、ありがとう」

 私の感謝の言葉に、キリは何か感じ取ったのかもしれない。
 よいしょ、と立ち上がって。
 ひとまたたきの間に、私の目の前にやってきていた。

「何か、話したいことがあったんでしょう?」

 やっぱり、バレてたか。
 ちょうどよかったからお詫びだなんて言ったけど、さすがに唐突すぎたもんね。

「あのね、キリ。私、考えたんだ」

 あまり目線の変わらないキリを真っ正面から見上げる。
 濡れた髪から、ポタリ、と水滴が落ちて、水面を揺らした。
 水の音と、草木が風に揺すられる音しか聞こえない。
 静かな静かな空間で、私は自分の中に生まれた決意を、言葉にする。

「私の力でできることが、魔王を倒すこと以外に、あるんじゃないかって」

 まだ、自分に何ができるのか、わからないことだらけだけど。
 勇者の力が、世界を救う力なら。
 世界を救うために犠牲にしなければいけないはずの命をも救うことなんて、実はそんなに難しくないのかもしれない。
 どこかに、方法があるかもしれない。

「私は、キリが大切。魔王だとかそんなの関係ない。私はキリに救われた。キリのおかげで私は立っていられる。キリがいなかったら、私は……自分で死を選んでいたかもしれない。たっくさん、言葉にできないくらい、キリに感謝してるの」

 キリが魔王だって知って、最初は、殺したくない、殺せない、ってただそう思っただけだった。
 もっとキリを知って、キリの事情を、過去を知って、どうにかできないのかな、って思うようになった。
 救いたい、と。
 この世界じゃない。キリを。
 誰よりも何よりも、キリを救いたいと思った。
 キリが救われないなら、この世界の平和に意味はないって、そう思うくらいに。

「キリはきっと、これまですっごいつらい思いをしてきたよね。悲しい思いも、寂しい思いもしてきたよね。過去のキリの痛みは、私には想像もできない。でも、これからの時間がある。私は、キリのためにできることをしたい」

 キリが大切だから。キリのために何かしたいから。
 このままじゃいけないって、思ったから。
 一歩、踏み出してみることにした。
 その力をくれたのは、そのきっかけをくれたのは、キリだ。

「キリのためなら、私、がんばるから」

 キリの特訓と荒療治のおかげだけど、勇者の力も扱えるようになった。
 前よりは、できることがある、ということ。
 この力でどんなことができるのか、まだ全然わからない。わからないってことは、無限大だってことでもある。
 世界なんて救えないと、ずっと思っていた。
 でも、私にとって一番大事な、たった一人を救うついでになら、もしかしたら救えるんじゃないかなんて。
 甘い考えかもしれないけど、今はそう思っている。

「キリの願いを教えて。私はそれを叶えたい」

 助けて、と一言、言ってくれたら。
 そうしたら私は、全力で……。

「じゃあ」

 キリが、口を開いた。
 その口からはどんな願いが紡がれるだろう。
 ドキドキ、と大きく鳴る心臓。
 緊張する私に、キリはにっこりと笑った。

「僕を、殺してくれる?」

 きれいな、きれいな。
 今まで見たことがないような、うっとりとしたような満面の笑み。


 心臓が、止まるかと思った。



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