「っ!! キリ!?」
ガクン、といきなり目の前で崩折れたキリに、私は駆け寄る。
いつもどおりに見えたキリは、よく見ると額に玉の汗を浮かべていて、呼吸も荒い。
いたわるように触れた手は、いつもよりも冷たかった。
「だ、大丈夫……?」
「力を使いすぎただけだよ、大丈夫」
そう言って力なく笑うキリの顔色は悪くて、わかりやすく疲労の色が見えていた。
無理に笑う必要はないのに、私を心配させないためだろう。
「勇者だからか、マリは術がかかりにくいみたいだね……。一緒に移動するのはそこまで難しくなかったけど、マリだけ転移させるのは、けっこう骨が折れたよ」
どういう原理なのかはわからないけど、魔王の術が勇者にかかりにくいのは、勇者が魔王にとって唯一の脅威であることを考えれば当然なのかもしれない。
「それなら、前みたいに迎えに来ればよかったのに」
限界だった私を王城から逃がしてくれたあのときみたいに。
まあ、そんなことをしたら、ルルドもイレもキリの存在を知らないんだから大騒ぎになっただろうけど。
立てなくなるくらいに力を使うんだったら、楽なほうを選べばよかったのに。
「だって、そんなことできる状況じゃなかったでしょ」
その言葉に、私は違和感を覚えた。
まるで、さっきの私が置かれていた状況を知っているかのような。
いや、ような、ではなくて。
その可能性は今まで考えたことがなかったけれど。
「……もしかして、見てたの? というか見えるものなの?」
半信半疑で問いかけてみたものの、考えてみればそういう魔法が使えても不思議ではない。
魔王の力がとんでもないものなのは、もうわかっていたはずだった。
でも、具体的にどんな使い方があるのかとか、想像するだけの余裕は今までなくて。
ラノベなんかではたまにある『透視』やら『千里眼』やらというものの存在を、すっかり忘れていた。
「視るのはそんなに難しいことじゃないよ」
「そうなんだ……」
あっさり肯定されてしまって、私は反応に困った。
プライバシーの侵害だとでも言うべき?
でも、そのおかげで助かったのはたしかだしなぁ。
あのままあそこにいたら、どうなっていたんだろう。
イレがなんの魔法を使おうとしていたのかわからないから、どうとも言えない。
ただ、少なくとも私にとって不都合な展開になるのは、目に見えていた。
それに比べたら、ちょっと覗き見されたことくらい、チャラにしてもあまりが出る。
「どこにいるかわからないと、迎えに行くこともできないしね」
「まあ、そうだね、ありがとう。大丈夫?」
「ちょっと休めばよくなるよ」
「ならいいんだけど」
隣にしゃがみ込んだ私を、キリは軽く見上げてくる。
おもむろにその手が伸びてきて、私の頬に触れる。
涙は、こぼしていないはずだけど。
見ていたなら、泣きそうになったこともバレているのかもしれないな。
「マリのほうこそ、大丈夫?」
頬をなぜるように触れながら、優しく優しく問いかけてくる。
こんなときでも、キリは私を心配してくれるのか。
私はそれに、笑みを返した。
ちゃんと笑えているかなぁ。いびつなものになってしまったかもしれない。
「みんな、生きるのに必死なだけなんだよねぇ」
イレの、悲痛な叫びを聞いた。
死にたくないのだと、滅びてほしくないのだと。
そんなの、人間が持っていて当たり前の欲求なんだ。
「私だって、もし地球が滅亡だとか映画みたいなことが現実になって、他の世界の人ならどうにかできる、ってなったら、迷わず喚ぼうってなるよ。誰だって死にたくないもんね。世界の崩壊なんて、止めたくなるのが普通だよね。方法があるなら、それがどんなものだって……」
勝手に喚んで、勝手に期待して、勝手に失望して。誰も彼も勝手ばかり。
ずっとそう思っていたけど、私だって同じ立場だったらきっと同じことをしていた。
すがりついて助けを求めたかもしれない。助けてくれないことに腹を立てて、なじったかもしれない。
死にたくないのは、みんな一緒。
そのためだったらがむしゃらにもなるし、多少道理の通らないことだってするだろう。
理解したくなかったけど、理解できてしまった。
イレが、必死に、私にそれを伝えたから。
……でも、私に魔王は倒せない。
彼らの願いを叶えることはできない。
それは……魔王討伐は、キリの死を意味するから。
けどなぁ。
もし、もしもだけど。
他に方法があるのなら。
キリも、みんなも助かる方法が、あるなら。
勇者の力で、それを叶えることが、もし、できるなら。
私は……。
「ねえ、マリ」
まだ疲れの残る顔で、それでもキリは笑った。
そうして、私の考えを読んだかのような提案をした。
「明日、特訓しようか」
* * * *
明けて次の日。
私は、絶体絶命の危機に立たされていた。
いやより正確には、浮かばされていた。
「な、なな、なんの、つもり……?」
声が震えてしまうのを抑えられない。
ガチガチと歯が鳴る。寒いからっていうのもないわけじゃないけど、理由はそれじゃない。
絶対に下を見たらいけない、ということだけはわかっていた。
それでも目をつぶるのはさらに怖くて、置かれている状況は十二分に理解できてしまっている。
私は、今、谷の真上に浮いていた。
「特訓、だよ」
キリの声は恐ろしいほどに平坦だった。
いつもどおりの微笑みすら浮かべていて、それがさらに恐怖をあおった。
特訓と言って、塔の屋上へ一緒に向かって。
いつもどおり雲を見立てるのかと思って空を見上げたら、ぐいんと視界が回った。
気がついたら私は宙に浮いていて、え、え、と思っている間に、身体は塔の側壁を越えて、谷の方向へ。
お腹のあたりを囲むしろい光が、これがキリの仕業だと教えてくれる。
「こ、こんなの、とっくん、なんて」
「マリには危機感が足りないんだ。人間、必要に迫られれば本来の、いや、実力以上の力が発揮できるものだよ。火事場の馬鹿力ってやつだね」
ふふっと笑うキリは、本当に、いつもどおりで。
こんなことをしているのに、どうしてそんなふうに笑っていられるのか私にはわからなかった。
「き、きり、やだ……」
じわりと涙がにじみ出てきた。
獅子は我が子を千尋の谷に落とす、とは言うけれど。
今までずっと優しかった、甘すぎるくらいだったキリが、急にこんなことをするだなんて想像だにしていなかった。
谷の下に落ちるのが怖いのももちろんあるけど、突き放されたみたいで、ショックが大きかった。
「大丈夫、マリは死なない。マリの中の勇者の力が君を生かす」
それは、魔王の力によってキリが餓死も衰弱死もしなかったのと一緒なのかな。じゃあ私ももしかしてご飯を食べなくても生きられる身体になっていたりするのかな。
なんて、混乱した頭ではどうでもいい方向に思考が飛んでいく。
「こわいよ……」
「がんばって、マリ」
にっこり、とキリは笑って。
私のお腹周りを囲んでいたしろい光が、消えた。
そうして私の身体は、重力を思い出した。
「――ッッ!!」
すさまじく強い下からの風を感じる。
違う、これは、私が、落ちているから。
叫び声は音にならなかった。
このままじゃ、私は、死ぬ。いや死なないのかもしれないけど、でもそんなの、わからないじゃないか。
いやだ、死にたくない。助かりたい。死にたくない死にたくない死にたくない。
どうすれば、どうしたら。
誰か、何か、なんでもいいから。私を――
「たすけて!!!」
必死で、声を張り上げた。
それはひどくかすれていて、声として認識できるものだったかもわからない。
でも。
風が、やんだ。
「谷に落とした張本人に頼ってどうするの……」
はぁぁ、という深いため息をすぐ近くで聞いた。
風を止めてくれたのは、私を抱きとめてくれたのは、キリだった。
ガクガクと全身が震えている。そりゃそうだ、死にかけたんだから。
少しでも落ち着くために、私をお姫様抱っこしているキリの首にしがみついた。
「こ、こわ、かった……」
「ごめんね」
「あ、謝ったって、」
ゆるさないんだから、なんて言いながらも声が震えていたら迫力に欠ける。
助かった安堵から、今さら涙が浮かび上がってきた。
「マリの願いに反応して、身体が勝手に動いたよ。力を使うことには成功したけど、使い方は考えようね」
そんなこと言われたって、私はただ助かりたかっただけだ。それ意外何も考えられなかった。
落ちてる最中は本当に必死で、考えは切れ切れで、とにかく死にたくない、と思うことしかできなかった。
キリに助けを求めた覚えはないけど、誰でもいいから助けてと思ったことはたしかだ。
無差別に放った願いが、キリの元にも届いた感じなのかな。
「まあ、こっちも成功したみたいだからいいかな」
ちらりと谷の下に目を落としながら、キリは苦笑した。
いったいなんのことだろうか。
キリの見ているものが何か気になるけど、まだ下を見るのは少し怖い。
まさかもう落としたりはしないよね……? ちょっと不安だ。
「下を見て。マリの願いの余波だ」
それでもキリに言われたとおり、おそるおそる見下ろしてみると、
「……わ〜お」
そこには、谷の斜面の草木から異常なまでに蔦やら枝やらが伸びて、大きなゆりかごみたいなものが作られていた。
ゆりかごの中には木の葉も敷き詰められていて、落ちても怪我ひとつなく助かりそうな完成度だ。
これが、私の願いで作られたものなの?
「剥けかけていた殻が、やっと全部とれたみたいだね」
キリはふふふっと笑う。いつもよりも深く。
そうしていると、年相応に見えた。
「……キリ、うれしそう」
思わずぶすっとした声が出た。
私はすごい怖い思いをしたのに、そんなふうに笑われるとなんだか複雑だ。
「そう、だね。うれしいよ。マリはできる子だもの」
「私は怒ってるんだからね」
「ごめんごめん、荒療治も必要かなって」
謝ってるのに、笑っているから、反省しているように見えない。
余計にむっすーとした仏頂面になるけど、いつも私のご機嫌取りが上手なキリは、今はどこかへ行ってしまっているらしい。
しょうがない。ここは年上の私が折れてあげよう。
「お詫びに、今度、湖に連れてって」
ぎゅっ、とキリの首に回した腕に力を入れながら、言った。
それくらいでいいの? とキリは不思議そうな顔をする。
もう、いいよ。許さないとか言ったって、結局怒りなんて長続きしないんだもの。
怒ってはいるけど、恨んではいない。
怖かったけど、めちゃくちゃ怖かったけど、感謝している部分もある。
だって、これでようやく、一歩踏み出せるから。