「……?」
まぶしさに目を閉じて、再び目を開けたら、そこは知らない部屋だった。
……この体験、これで二回目だ。
今度は神殿なんかではなくて、普通の部屋だけれど。
いや、普通って言うのはおかしい。城に住んでたせいで普通の基準が変になってる。
わかりやすく言うなら、とても広い、城の中でも特に偉い人が暮らす部屋みたいだった。
「ここ? 僕の家の僕の部屋」
いぶかしげにキリを見上げると、何を言いたいのかわかったらしく、そう答えが返ってきた。
い、家……家っていうレベルじゃないんだけど。王城で勇者のために用意された部屋よりも広いんだけど。
天井の高さからして、城とかそういった立派な建物なのはわかる。調度品とかが最低限しかないから豪奢な感じはしないけど、広さだけなら、王様の部屋って言われてもうなずけるくらいだ。
広いからこそ……物がなさすぎて、彩りが足りなさすぎて、もの寂しさが漂っている。
「まずは休んだほうがいい。僕の隣の部屋でいいかな」
異論はなかったからこくんとうなずく。
あそこから逃してくれただけでありがたいのに、こんなに立派な家だなんて。家……と呼んでいいのかは、今は考えないことにしておく。
キリに手を引かれて隣の部屋に移動する。廊下も広くて、この建物の大きさを思い知らされた。キリ、いったいどんな大富豪なの……。
隣も、机と椅子と棚があるくらいの、最低限にしか物が置いてない部屋だった。そしてやっぱり、同じくらい広い。ほこり臭いから、長い間使われていなかったんだろう。
キリは私の手を握る力を少しだけ強めて、そして、
「《この部屋のほこりは窓の外に飛んでいく。虫、菌、その他、人の身体に害になるものは消滅する》」
声が、朗々と響いた。
「――っ!?」
しろい光と共に、風が巻き起こった。
カーテンが風ではためき、家具は音を立てて揺れ、開かれた窓からほこりが飛んでいく。
キリの、言葉のとおりに。
この世界に来て、魔法の存在には慣れたつもりでいた。
私の身体がそもそも魔法を使ったみたいに軽くなっていたし、追いかけっこのときに魔法を使う人もいたし、術士の訓練なんかも見かけたことがあるし。
でも、キリの魔法は根本的に何かが違っていた。
誰が使うものよりも、きれいだった。
「これでよし。何か必要なものがあったら言って。たいていのものなら出せると思う」
私を振り返って、キリは笑顔で言う。気遣いは無用、というように。
出せると思う、って。用意できる、じゃないんだ。魔法で、出すんだよね。
キリが魔法を使えるなんて、今の今まで知らなかった。キリは秘密主義だから、王都でよく遊ぶことと、年齢くらいしか、考えてみれば本当の名前すら知らない。
王城からここに転移したのも、キリの魔法だろう。いや、その前、私の部屋に入ってきたのだって。
魔法を使えるという、そんな大事なことを秘密にされていたのは、ちょっとショックだ。でも、今はそんなことにまで心を動かしているだけの余裕がなかった。
「こっち」
おとなしくキリについてくと、つながっている寝室に入って、ベッドの前で立ち止まった。
そうして、私をベッドに腰掛けさせて、隣に自分も座った。
「今は、寝て。ほとんど寝れなかったんでしょう? ひどい顔してる」
つないでいないほうの手で、私の頬に触れる。
少しひんやりとした手が、頬を撫でて、目尻をなぞって。
クマでもできているのかなぁ。一日半の間、何も口にしていないし、吐いたし、顔色も悪いのかもしれない。そもそもさっきだいぶ泣いたから、それだけでもすごい顔をしているだろう。
心配そうな色を宿した新緑の瞳が、手のぬくもりよりもあたたかい。
そんなふうに、キリが、この世界で唯一の私の味方みたいな顔をするから。
私はもっと、もっと、甘えたくなってしまう。心が弱っている今は、際限なく求めてしまう。
キリとつないでいる手に力を込めて、もう片方の手でも、きゅ、とキリの裾を引く。
ひとりにしないで、と言うように。
「……一人じゃ寝れない?」
こくん、またうなずく。
言わなくてもわかってくれるのがうれしい。それだけ私のことを見て、考えてくれているんだと思うと、泣きたくなるくらいうれしい。
「寝るまで、一緒にいてあげる。手をつないでいてあげる。だから安心して寝て」
私の心をほぐすような微笑みに、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。
さっき、あんなに泣いたのに。まだ泣き足りなかったんだろうか。
いや、違うかな。ようやく安心できたからだ。私を苦しめるものから逃げることができたからだ。
ずっと、つらかった。少しずつ少しずつ追いつめられていた。
勇者の力で魔物を消し去ってしまったのは、もちろん大事だったけど、私に限界が来る最後の一撃でもあった。それよりも前から、降り積もっていたものがあった。
ひとごろしを、求められること。
私にとって、それは重荷以外の何物でもなかった。
「ここには、君を傷つけるものは何もないよ」
静かに泣く私を、キリはそうなだめてくれた。
うながされるままに、ベッドに横になる。さっきまでほこりにまみれていただろうベッドシーツは、まるで新品みたいにいい香りがした。
ベッドの脇に座ったキリは、ちゃんと約束どおり手をつないでくれている。
もう片方の手で、私の髪を梳く。子どもを寝かしつけるときみたいに。
でもやっぱり、撫でるのと一緒で下手っぴだ。おもしろくてちょっと笑ってしまった。
笑えるくらいには、ほんの少し心に余裕ができたらしい。
ここがどこなのか、キリが何者なのか。疑問に思わないわけじゃない。
厳重に守られているはずの城に、勇者の部屋に入り込んで、そこからまた別の場所に転移して。
魔法を使うのに、術を組み立てる陣も、長い詠唱も必要としなかった。ただ、短い言葉だけ。キリの使う魔法は、術士の使うものとも、神官の使うものとも違った。
もしかしたら、と少しだけ、予感はある。
違う国の王子様? なんて、夢を見るほどバカじゃない。
でも、もう、なんでもよかった。
キリはキリだ。私を助けに来てくれた。私を嫌なものから逃がしてくれた。それだけでいい。
「おやすみ、マリア。いい夢を」
やさしいやさしい声が、私の思考を奪う。
今は何も、考えたくなかった。
* * * *
目を覚まして、一番最初に思ったことは、知らない天井を見るのも二回目だなぁ、ってことだった。
でも、一回目の知らない天井と違って、落胆はしなかった。むしろ、ほっとした。あの城から逃げ出したのが、追いつめられた私の心が見せた都合のいい夢じゃなくてよかった。
眠りが深かったのか、なんの夢も見なかった。それでよかったのかもしれない。だって、もし夢を見るとしたら、きっと魔物の襲撃の、私が持ってしまった恐ろしい力の夢だろうから。
身体を起こすと、頭がぐらんっとした。間違いなく寝すぎだろう。
ちょっとぼんやりするけど、嫌な気分ではなかった。むしろ、ぐっすり眠れてすっきりした気がする。
他に置くところがなかったのか、広いベッドの隅っこのほうに、学生カバンとたたまれた制服があった。
そっか、転移するときこれも一緒に持ってきてくれたのか。
別にこれで何ができるってわけじゃないけど、あるだけでほっとする。
汚したくないし、どこかにしまっておかないとな。
「おはよう、よく眠れた?」
その声に顔を上げると、寝室の出入り口にキリが立っていた。
私が気づくとすぐに歩み寄ってきて、私の顔を覗き込んでくる。
「ご飯は食べられそう? ここに運んできてもらおうか」
ご飯……そういえば、お腹がすいた気がする。
二日近く何も食べていないんだから、当然かもしれない。よく寝たことで、食欲も戻ってきたらしい。
食べられる、という意思表示にうなずくと、キリはうれしそうに笑った。
「ちょうどお昼時なんだ。一緒に食べよう」
お昼、と私は目をぱちくりとさせた。
昨日寝た時間を正確には覚えていないけれど、たぶんいつもよりも早い時間だったはずだ。
それからお昼までずっと寝ていたなんて……半日以上ぐっすりだったのか、私。そりゃあ頭もぐらぐらするわけだ。
人間、どんなときでも睡眠と食事はちゃんと取らなきゃダメなんだね。そんな余裕もなかったから、しょうがないんだけどさ。
どうやらこの家にはキリ以外に、使用人みたいな人がいるみたいで、扉の前まで食事を持ってきてくれたらしい。
キリに出してもらった水桶で顔を洗って、キリに出してもらった服に着替えているうちに、部屋のほうに食事の準備が終わっていた。
手で簡単に千切れるくらいやわらかい白パンに、ふわふわオムレツ。サラダに野菜スープ。おいしいけど、部屋の豪華さからすると、ずいぶんと質素な食事だ。
もちろん、居候? の身の上だからわがままなんて言えないし、言うつもりもない。不満だって感じてない。ただちょっとミスマッチだなぁと思っただけだ。
素朴な味に、日本にいたときを思い出して懐かしくなった。
「何があったのかはだいたい知ってるけど……」
食べながら、キリは話し始めた。
ついに来ちゃったか、と私はギクリとした。
キリが知っているのは、勇者の力で町を襲撃していた魔物を消し去ったことだろう。あのときの周りの反応からすると、たった一日で王都中に広まっていたとしてもおかしくない。
何を言われるんだろう、と心臓がバクバク音を立て初めた。
だって、キリは、たぶん。
「だいじょうぶ?」
その問いに、私は食べていた手を止めて、うつむいた。
また、泣いてしまいそうになったから。
何よりもまず、私を心配してくれるキリ。彼はやっぱり私の唯一と言ってもいい味方だ。
うれしくて、大丈夫と返したいのに、言葉にできなかった。
声が、出なかった。
大丈夫、なんだろうか、私は。
何を指して大丈夫って言えるんだろうか。
力が、怖い。勇者の力。神の力。私には過ぎたるものだ。扱える気がしない。
フォークを置いて、自分の手のひらを見つめる。
武器なんて持たなくていい。そんなのは必要ない。願って、声に出せばいい。それだけで勇者の力は発動する。
……声を出すのが、こわい。
「そう、わかった」
何も言っていないのに、キリはそう話を切り上げた。
顔を上げれば、キリはいつもどおりの微笑みを浮かべていた。
「無理に元気を出す必要はないよ。ここには君を害そうとする者も、君を追いつめる者もいない。なんでも好きなことをして過ごせばいい。いつまでだっていてくれてかまわない」
なんでもないことのように、キリは言う。
今日のお昼は特別にA定食のカツを一切れあげるよ、と友だちに言うみたいな気軽さで。
事実、キリにとっては私をかくまうことくらい、わけないんだろう。
キリの正体が、私の予想しているとおりなら。
「マリももうわかっているかもしれないけど、改めて自己紹介するね」
ああ、ついに来てしまった。
いつまでもあいまいなままにはしていられない。
ずっと目を背けていた事実から、もう、逃げられない。
「僕は魔王。この世界に滅びをもたらす存在」
やっぱりかぁ、と思った。
悲しいのか、悔しいのか、よくわからなかった。
魔王は悪しき存在。世界を滅ぼす存在。魔王を倒さなければ世界は救われない。そんな話ばかり飽きるほどに聞かされてきた。
でも、私を救ってくれたのも、私の味方になってくれたのも、キリ……魔王だけだった。
「魔王である僕が、勇者である君を保護する。なんだかとっても皮肉だね」
ふふふっと笑うキリに、そうだね、と同意することは、さすがにできなかった。