10 「おうちに、かえりたい……」

「大丈夫ですか」

 何度も、何度も、教育係がそう尋ねていた気がする。
 首を振るのもおっくうで、私は何も反応を返さなかった。
 ため息の音が聞こえたけれど、困っているのか怒っているのか、判断はできなかった。そもそも教育係の顔を見ることもしなかったから。
 お祭り騒ぎに巻き込まれそうだった私を、教育係が救助してくれた。
 そのまま、行きと同じように術で城まで戻って、私は機械的に足を動かして、自分の部屋に戻った。

「マリア様? 大丈夫ですか?」

 部屋に戻ってからは、今度は侍女Aだ。
 そんなに私はやばい顔をしているんだろうか。
 教育係が侍女Aを呼んで、一緒に部屋を出て行った。事情でも説明するつもりなんだろう。
 一人になりたかった私は、これ幸いにと他の侍女も追い出した。
 何も言わずに扉を指し示すだけで、心得たとばかりに敏い侍女たちは部屋から出て行ってくれた。

 一人になった部屋で、私はベッド脇の引き出しからあるものを取り出した。
 この世界に来てからずっと着ていない学生服。この世界に来てから使い道のない学生カバン。
 その二つを、まとめてぎゅううっと抱き込んだ。
 帰りたい。料理上手なお母さんがいてお酒大好きなお父さんがいて生意気な弟がいて、孫に甘いおじいちゃんおばあちゃんがいて、一緒に馬鹿できる友だちがいて、めんどくさいなぁと思いながら毎日学校に通っていた日常に帰りたい。
 ただの、なんの力も持っていなかった女子高生に戻りたい。
 なんでこんなわけわからないとこにいて、わけわからないことになってるんだろう。
 帰りたい、帰りたい、かえりたい……。
 この前と同じくらい、いや、もっと強く強く願った。


 勇者の力が願いを現実にできるなら、どうして、元の世界には帰れないの?


「おい、おまえ」

 その声に振り返ると、少年術士が扉を開けてこちらを見ていた。
 ああ、さいあくだ。
 なんでこんなときに、よりにもよって一番会いたくない奴が来るんだろう。
 人払いしちゃったから味方はどこにもいない。少年術士と二人きり。
 ……味方なんて、そもそもこの城には誰一人としていないけれど。

「魔物を倒したんだってな。やればできるんじゃないか」

 この間とは違う、上機嫌な様子。
 勇者のお役目とやらを、私が果たしたからだろうか。

「一級の術士数人がかりでも殲滅に数時間は必要だろう数の魔物を、一瞬で消し去ったんだろう? まるで奇跡のようだった、とルカに聞いた」

 ルカ。たぶん、一緒に町に行った術士の一人だろう。
 こんなに早く話が伝わっているくらいだから、仲がいいのか、偶然か、それとも城中に広められているのか。
 奇跡、ね。前に教育係も言っていた。勇者の力はまさに奇跡なのだと。
 心の底から、うんざりする。

「おまえも勇者の力の偉大さは身を持って知っただろう。魔王すらも倒せる力だ」

 そうかもしれない。
 たしかに、この力なら魔王を倒せるのかもしれない。
 私はただ願えばいい。それで終わる。
 『死ね』、と。
 直接手を下す必要はない。剣も杖も何もいらない。
 心からの願いさえ、あればいい。

「この調子で……」
「――出てけ」

 B級ホラー映画の幽霊みたいな、恐ろしく低い声が出た。
 彼の賛辞は正確に私を追いつめるものだった。これ以上聞いていたくないと思った。
 それが本心からの思いだと、理解してしまった瞬間、やばい、と気づいた。
 懸念は、すぐに現実となった。

「お、おまえ……」

 ギクシャクと、まるでロボットのように少年術士の足が動く。
 その足が部屋の外に向かっているのが、彼の意志ではないことは、驚愕に見開かれた目を見ればわかった。
 私だ。私の力が、彼の足を動かしている。
 ああ、もう、本当にイヤになる。
 この力は、間違いなく、私の願いを反映している。
 それを再確認させられてしまった。

 少年術士が廊下に出て、バタン、とひとりでに扉が閉まった。
 部屋にはまた、私一人だけになった。
 扉の向こうから、少年術士の声が聞こえる気がするけれど、全部無視した。
 学生服とカバンを抱えたまま、ベッドにごろんと横になった。
 頭から布団をかぶれば、もう何も見えなくなる。
 まぶたを閉じると、あの町の喧噪が聞こえてくるようだった。
 悲鳴、逃げまどう人々、魔物の足音、応戦する術士。
 全部全部、忘れたいのに、目にも耳にもこびりついてしまっている。
 こわい。きもちわるい。もういやだ。……かえりたい。

「おうちに、かえりたい……」

 こぼれ落ちた願いは、やっぱり、現実にはならなかった。


  * * * *


 それから何度か、浅い眠りを繰り返していたらしい。
 照明をつけていない部屋が暗くなって、明るくなったのは覚えている。今はまた薄暗くなってきている。
 時計を見るのも面倒で、私はずっとベッドから下りずに、布団にくるまったままでいた。
 たぶんあれから丸一日以上は経過しているだろうに、ほとんど眠れていない。

 何も考えないようにしていても、頭は常にあの町で見たもの、起きたことでいっぱいだった。
 断末魔の叫び声が耳に残っていて、頭がぐらんぐらんした。
 足下に転がっていた千切れた腕を思い出してしまい、嗚咽と一緒に吐き気がこみ上げてきて、我慢できなくて胃の中身がからっぽになった。
 ベッドの上はぐしゃぐしゃで、学生服やカバンが放り出されてる。吐瀉物もそのまま。イヤな臭いはするし、口の中もいまだに酸っぱい。
 散々な有様だけれど、ベッドから下りるという選択肢は選べなかった。
 なんとなく熱っぽい身体を丸めて、額を枕に押しつける。頭痛も続いていた。

「マリア様……お加減はいかがですか?」

 扉の向こうから、やわらかい女性の声が聞こえてきた。
 それが侍女Aのものだとわかるくらいには、私はこの世界で過ごしていて、この世界になじんでしまった。
 昨日の夜にも、今日の朝にも昼にも、この声を聞いた覚えがある。
 一度も返事を返していないのに、彼女は根気よく声をかけてくれる。

「消化にいいお食事を置いておきましたので、よければ少しでも召し上がってくださいね」

 何も言わない私に、そう言って扉の前から去る気配がする。
 カチャリという音は、きっとそれまで置いてあった食事をかたす音。一口も減っていない食事に、彼女は何を思っているだろう。
 てっきり、侍女Aも町の人たちや少年術士と同じような反応をするものだと思っていた。私が勇者としての力を発揮したことを喜ぶのだと。
 彼女からは、今のところ私を気遣う言葉しか聞いていない。
 うれしくないはずないだろうに。恋人の無事が保証されたっていうのに。
 教育係が彼女に何か言ったんだろうか。そういえば彼も一度、訪ねてきたような覚えがある。もちろん反応はしなかったけれど。
 ……あんまり深く考えたら、いけないような気がした。

 もぞり、とベッドの上で体勢を変える。
 もう夏も終わりとはいえ、ずっとミノムシ状態でいたらさすがに熱くなってきた。熱っぽく感じるのは単にそのせいだろうか。
 なのに、身体の芯は冷え冷えとしている。
 いや……凍えているのは、身体じゃなく、心かもしれない。
 頭の中はずっとぐちゃぐちゃで、言葉にできない思いが身体を破って飛び出していきそうなほどに暴れ回っている。
 こわい、だとか。かえりたい、だとか。逃げたい、だとか。
 もう、このまま死んでしまいたい、とか。

「マリ」

 ありえない声が、鼓膜を揺らした。
 私以外、部屋には誰もいなかったはずなのに。
 しかも……この声は。この呼び方は。
 一人しか、ありえない。
 私は枕に押しつけていた顔を、のっそりと上げる。
 視線を向けた先、ベッドのすぐ横で私を見下ろしていたのは。

「だいじょうぶ?」

 キリ、だ。
 その声だけは、直に心に響いた。
 優しさが全身に染み渡っていくようだった。
 抱えていた枕を放り投げて、すがりつくようにキリに抱きついた。
 カチコチに固まっていた心がほぐされて、そこから涙がこぼれてきた。
 そっと私の背に回される腕。頭をぐしゃぐしゃとする手。
 相変わらずド下手くそな撫で方に、余計に涙が止まらなくなった。

 キリ、キリ、どうしよう。
 私、恐ろしい力を持っていた。
 願いが、言葉が、現実になってしまうんだよ。
 こんな力、使いこなせる気がしない。誰かを傷つけてしまうかもしれない。
 なんでこんな力を持ってしまったんだろう。こんな、重すぎる力、いらなかったのに。
 私はこれから、どうしたらいいのかな?

 全部ぶつけたくて、でも、言葉にするのが怖かった。
 何が引き金になるかわからない。力の発動条件がわからない。
 私の言葉が原因で、キリに何かしらの被害が及ぶかもしれないと思うと、声が出せなかった。
 しばらく、広い室内にひっくひっくという私の嗚咽だけが響いた。

「一緒に、来る?」

 その言葉に、どんな意味が込められているのか。
 私はほんの少しも考えることなく、衝動的にうなずいた。
 ここから、現実から、逃げ出したかった。
 もう何も考えたくなかった。
 かえりたい、かえりたい。けれど帰れないのなら、ここではないどこかに。
 キリの提案は、そんな私に渡りの船だった。
 しっかりとうなずいた私を見て、キリはふふっと笑みをこぼした。
 やわらかくて、優しくて、どこか今の状況には不似合いな。

「じゃあ、行こう」

 どこに? なんて聞く必要はなかった。
 ここじゃないなら、どこでもよかったから。

 再び私がうなずくと、私たちはしろい光に包まれた。



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