1 「マリは、とても勇者に向いていると思うから」

 新条 真理亜、十八歳。

 去年の夏、異世界で勇者なんてやっちゃったりしてたことは、誰にも内緒。
 まあ勇者とか言いつつ実際はお役目放り投げて、魔王と仲良くなったり、魔王城にお世話になったり、してたんだけど。
 結局私は、世界を救うためじゃなく、キリを救うために、勇者になった。

 こっちの世界に連れ帰ってきたキリは、幸松《こうまつ》 希理として第二の人生を歩んでいる。
 ……あっちの世界のことを、全部忘れたまま。
 忘れさせたのは他でもない私で、自分の選択を後悔なんてしてはいない。そのはずなのに。
 時々無性に寂しくなってしまうのは、感傷ってやつだろうか。



「――リア、マリア?」

 私を呼ぶ声にハッと我に返る。
 ああそうだ、ここは学校の廊下で。今は朝のHR前で。
 顔を上げれば、すぐ目の前に心配そうなキリの顔があって。
 かすかに揺らぐ新緑の瞳に、私は自分の失態を悟った。

「あ、ごめん、聞いてなかった」
「別に、たいした話はしてなかったからいいけど」
「ごめんってば……」
「変なマリア」

 キリは体勢を元に戻してふふっと笑う。
 一年ちょっとでだいぶ身長が伸びたキリは、私と目線を合わせるためには腰を折らなきゃいけない。
 動くたびに揺れていた黒髪は、この世界に来てすぐにバッサリと切られている。
 そんな小さな差異が、私の心臓にひとつひとつ、降り積もっていく。

「学校では?」
「ごめんなさい、マリア先輩」
「よろしい」

 えっへん、と胸を張って言えば、キリは破顔する。
 こっちの世界に来て、こっちの世界に慣れてきて、特に最近のキリはよく笑うようになった。
 前みたいなどこか偽物じみた笑顔ではなくて、自然とこぼれ落ちる喜色。
 ようやく、人間に戻ったような。
 ぬくもりを感じる表情を見るたび、私は間違っていなかったんだと、安堵する。

「今週一緒に帰れる日、ある?」

 問いかけられて、少し考える。
 私は特に予定はない。友だちと違って塾にも通ってないし。
 むしろそれは私のほうが質問することなんじゃないだろうか。

「うーん。キリ、確実に部活が休みの日って、わかる?」
「……ちょっと難しいかも」

 三年生の私は、十月の文化祭で美術部を引退した。問題はキリが所属している料理研究部。
 今の部長さんがワンマンらしくて、鶴の一声でその日の予定が大幅に変わってしまうこともあるそうだ。
 文化部は運動部と違って、最終下校時刻ぎりぎりまで活動することは少ないし、待っていることもできるけど。
 たぶん、キリは心苦しく思うだろうしなぁ。

「急に部活が入ったからって、絶対に出なきゃいけないわけじゃないし。マリア……先輩との約束が先にあれば、休むいい口実になるよ」
「ちゃっかりしてるんだから」
「しっかりしてるって言ってよ」

 ちょっと困ったように笑うキリに、はいはい、と適当に返す。
 そうだね、しっかりしてきたよ。
 こっちの世界に来たころと比べると、見違えるくらいに。

「プレゼント選び、今年も手伝ってくれるでしょ?」
「しょうがないなぁ」

 去年の今ごろ、キリは盛大に悩んでいた。
 幸松夫妻、キリの養父母に贈るプレゼントに。
 そのころはまだバイトもしていなかったキリは、貯めていたお小遣いで日頃の感謝を伝えようとしていた。真剣な表情で相談に乗ってほしいって言われたら、断れるわけがない。
 きっと、キリが生まれて初めて贈るプレゼント。うらやましいなって思ったことに気づかれたわけじゃないだろうけど、キリはお礼にって私にもプレゼントをくれて。
 そのときもらった生成りのレースのシュシュは、もったいなくてほとんど使えずにいる。

「マリアも欲しいもの考えておいて。なんでもいいよ」

 夏休みにガッツリ稼いだバイト代がまだ残っているらしいキリは、頼もしい笑顔で言う。
 去年のクリスマスでお金の必要性を学んだキリは、それからいくつか短期バイトをしている。主にバイト人間の友だちのツテを頼ってるみたいだ。
 キリは、笑顔が増えた。私を介さない交友関係ができた。背が伸びて、男らしくなって、だんだん。
 だんだん、私の知らないキリになっていく。
 それは喜ばしいことのはずで。私が望んでいたことのはずで。
 だから、寂しいと思う自分がいるのは、きっと気のせいなんだ。

「そんなこと言って、後悔しても知らないから」

 ニヤリ、とわざとらしく口端を上げても、キリは苦笑するだけで動揺を見せない。私が高いものをねだったりしないと確信しているんだろう。
 プレゼントなんて、キリがくれるならなんでもいい。
 もっと言えば、プレゼントなんてなくていい。

 なんにもいらないよ。
 キリが、笑っていてくれるなら。
 キリが、しあわせでいてくれるなら。
 私はそれで、充分なんだよ。

 ……ほんとだよ。


 * * * *


 たまに、夢だったんじゃないかと思う。
 実はキリは魔王なんかではなくて、ただ近所の幸松夫妻に引き取られた一つ年下の普通の男の子で。
 私は変な白昼夢を見ただけで、勇者になんてなってなくて、異世界を救ったりもしてないんじゃないかって。
 穏やかすぎる日々を甘受していると、異世界での半年間は非日常で、非現実的すぎた。

「ねえリリ。実は私、異世界で勇者やってきたんだよ、って言ったらどうする?」
「どうもしない」

 昼休み。唐突すぎる私の問いを、リリは冷たくも聞こえる声で一刀両断する。
 リリ――璃々亜は、小学生のときからの友だちだ。
 小学五年生のときにこっちに越してきたリリは、こっちの世界に来たころのキリ以上に表情がなくて、今思うとちょっと不気味な子だった。
 今以上に考えなしだった当時の私は、リリアとマリア、名前が一文字違いだね! なんてどうでもいいことで盛り上がって、半ば無理やり友だちになった。
 少しずついろんな表情を見せてくれるようになったリリは、冷静なところは相も変わらずで、私のいいストッパーになってくれる。
 あのときは勢いに押されただけだったかもしれないけど、友だち歴八年にもなれば、親友って呼んでもいいくらいの仲のはずだ。

「勇者でもなんでも、マリがマリだということには変わりないもの」

 それはそうだろうなぁ。
 私は私。最後まで我を通したから、ああなった。
 正解だったのか、間違いだったのかは、あっちの世界のその後を見れない私にはわからないことだ。

「むしろ、納得するかもしれない」
「納得?」

 おかしなことを言うリリに、私は首をかしげる。

「マリは、とても勇者に向いていると思うから」
「えー、それは気のせいだと思う……」

 どこをどう見たら、私が勇者に向いてるってことになるんだろう。
 あの、世界でも。
 結局私は、最後まで世界のためには動けなかった。
 半年間お世話になった世界に、少しも愛着を持たなかったとは言えない。
 汚いところもたくさん見せられたけど、みんな必死に生きていて、悩んでいて、とてもまぶしかった。
 それでも私は、私を救ってくれた、私を求めてくれた、キリのためだけに動いた。
 他には何もいらないと思うくらい、強く、強く、願った。

「勇者の素質なんて、単純なものだと思うけれど」

 黒目と虹彩の違いがわからないくらい真っ黒い瞳が、静かに私を見つめている。
 リリの目に、私はどう映っているんだろう。

「どういうこと?」
「誰かのために、本気になれるか。そういうことじゃない?」

 その言葉は静かに私の心に染みていった。
 キリのために。
 キリを救うために。キリに生きてもらうために。キリの笑顔を見るために。
 私はその一心だった。キリ一色だった。
 もしそれが、勇者の素質だっていうなら、そうなのかもしれない。
 あの世界が望んだ勇者にはなれなくても、リーリファの、キリの望んだ勇者には、なれたのかもしれない。

「幸松くんだって、マリに救われてるわ」

 リリがめずらしく笑みを浮かべる。
 近所の一つ年下の男の子の話は、わりとよく話題に出るからリリも名前を覚えてしまっている。
 たまに学校で顔を合わせることもあるけど、キリとリリがそろうと奇妙な空気になるのはなぜなのか。何か通じる部分があるからか。
 そんなことを考えて現実逃避したくなるくらい、向き合いたくないことを眼前に突きつけられたような気持ちになった。

「やだなぁ、そんなことないよ」

 私は沈みそうになる気持ちをごまかすように笑った。
 どうしよう、ちょっと泣きそうだ。

「キリは、もう、一人でも大丈夫なんだよ」

 自分を戒めるみたいに、言葉にする。
 よく笑うようになったキリ。友だちの増えたキリ。勉強だって私よりできるし、金銭感覚もしっかりしてる。年下とは思えないわねって、お母さんも言ってた。
 この世界に来た当初、何もかもを忘れたキリの手を引いたのは、私。
 こわごわとこの世界に触れ、少しずつ溶け込んでいくキリの一番近くにいたのは私。
 ひよこの刷り込みみたいに私に懐いてくれたキリに、大丈夫だよって笑いかけて、幸松夫妻との仲も取り持って、学校でも何かと世話を焼いて。
 ちょっとずつ、それでいて劇的に、キリは成長していった。
 自分の目で見て、自分の心で受け入れて、自分の足で歩けるようになって、私の手を必要としなくなった。

 今のキリは、私にすがりついて震えていたキリじゃない。
 僕のマリア、と呼んでくれたキリじゃない。

 認めるのが怖かった。
 私はもう、キリのための勇者ではないんだって。
 大丈夫じゃないのは、私のほう。
 本当に前に進めずにいるのは、本当に相手を必要としているのは。
 最初から、キリじゃなかった。
 キリの手を引いていた私の手は、気づけば前に進もうとするキリを引き止める手になっている。


 でももう、それもおしまい。



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