指先から魔法をかけたの。
お姉さんはそう言って、不器用にいびつな笑みを作った。
魔法というものはとてもすてきだと思った。そんなすてきな魔法を使える彼女も、すてきな魔法使いだと思った。
僕はその魔法使いに、一目惚れをした。
「誠一」
昼休み、時間つぶしのために文庫本を取り出していると、声をかけられた。
この時間帯にいつも来る友だちとは違う声だった。
「あれ、音。何か用事?」
本は机の上に置き、僕は顔を上げて彼女に笑いかける。
黒崎 音子《おとこ》、僕の恋人。
彼女は自分の名前があんまり好きじゃないから、いつも『音』と呼んでいる。
女なのにオトコ、ってさんざんからかわれたらしい。
「用がなきゃ話しかけちゃいけないの?」
音はきれいな眉をひそめて、冷ややかに言い放つ。
あれ、不機嫌なのかな。
「もちろん僕は、用がなくてもうれしいよ」
にっこり。
心からの笑顔で歓迎すると、かわいい恋人はボボボッと効果音が聞こえてきそうな勢いで顔を真っ赤にした。わかりやすいなぁ。
「……今日は、あれと一緒じゃないの。ツンツン頭の」
あれ、とはきっといつも僕と一緒に昼ご飯を食べてる友人のことだろう。和真はB組だけど、特に最近はほぼ毎日A組に顔を出す。
紹介したのはけっこう前で、今まで何度か話すこともあったはずなのに、いまだに名前を覚えてないらしい。
明るいことだけが取り柄みたいな和真は、あれでいてけっこう義理堅いから、きっと音のフルネームを覚えているだろうに。
まあ、音は興味のないことは覚えられないタイプだから、仕方ない。
「ああ、和真? 今、屋上にいるらしいよ。ちょっと遅くなるかもだって」
「……そう。じゃあ、」
何かを言いかけた音は、そこで不意に後ろを振り返った。
つられてそちらに目を向けると、音の友人が近づいてきていた。
「オトちゃんコンくん、何お話してたの?」
「やぁ、白鳥さん。ちょっとね」
白鳥 悠《はるか》、音と一番仲のいい友だちだから、クラスメイトの中でもわりと交流がある。
和真の話をしているときに彼女が来るなんて、すごい偶然だ。
ついこの前、和真から白鳥さんについて相談を受けたばっかりだ。
和真はどうやら白鳥さんのことが気になっているらしい。
というより……僕からすると、惚れているように見えたんだけども。
「ごめん悠、今日は誠一とお弁当食べるから」
それを聞いて驚いたのは白鳥さんじゃなく僕のほうだ。
そんな話はしていなかったし、当然初耳だ。
学校であんまりベタベタしたくないからって、昼食を別に食べるのを決めたのは音のほうだったのに。
「あ、そうなの? わかった」
「お詫びにひとつ教えてあげる。今、屋上に行くといいことあるよ」
「いいことって?」
「行ってからのお楽しみ」
ふふっ、と音にはめずらしくうっすらと微笑んでいた。
まるで魔女がお姫様を罠にはめるみたいな。
それでいて、天使が民を導くみたいな。
「気になる……行ってくるね!」
わくわく、と白鳥さんの顔に書いてある。
そんなに期待するようなものは屋上にはないっていうのに。
音には何か考えがあるんだろうから、口は挟まないけど、少しかわいそうになった。
いつも一緒にお弁当を食べている友だちに一言断ってから、白鳥さんは教室を出て行った。
本当に屋上に行くつもりなんだろう。
うーん、僕が言ったわけじゃないけど、なんだか騙した気分。
「いいことって……和真がいるだけなのに」
「嘘は言ってないよ」
ツン、と音は澄まし顔。
表情の変化が少ないのはいつものことだけど、こういうときは何を考えているのかわかりにくくて不便だ。
「音、実は和真のこと気に入ってたの?」
こんな橋渡しみたいなこと、基本的に他人に興味のない音は、いつもだったらしない。
しかも、相手が音の一番大事な友人ならなおのこと。
どうして和真は例外なんだろう、と考えると、友だち相手に少しだけ嫉妬してしまいそうになる。
和真が白鳥さんの羽根を見えるようになったことは、その日のうちに音に伝えておいた。
恋人と、その仲間の秘密を守るために、必要だと思ったから。
友人のプライバシーよりも恋人を優先したことは、心の中で謝っておいた。
「別に、そういうわけじゃない」
「ふぅん?」
じゃあ、いったい何が理由なんだろう。
僕の無言の問いかけに、音は小さくため息をつく。
彼女は僕の袖をちょいちょいとつまんでから、教室を出て行った。場所を移そう、っていうことらしい。
音にならってお弁当箱と飲み物を持って、華奢な背中を追いかけた。
彼女の動きに合わせてなびくきれいな黒髪は、いつも僕の大事な大事な記憶を刺激する。
*
まだ小学校にも通っていない、子どもの頃。
僕は魔法使いに助けられたことがあった。
魔法使いなんて、どんな冗談かと言われるかもしれないけど、あれは本当に魔法で、彼女は本物の魔法使いだった。
僕はその当時、今よりも気が弱くて、近所の年の近い子たちによくからかわれていた。
少し突っついただけですぐ泣くから、きっとおもしろ半分だったんだろう。
その日も、いつもどおり遊んでいるときにそんな感じになって、僕は公園に一人で取り残された。
追いかけようとしたら転んで、足をすりむいてしまって、痛くて動けなくなった。
空は橙に染まって、あたりは少しずつ暗くなっていって。僕は痛いのと恐ろしいのとで、わんわん泣いていた。
広い公園ではどんなに大きな声を上げても、誰も気づいてくれなかった。
散歩中のおじさんなんかはいたかもしれないけど、きっといつものことだと見過ごしたんだろう。
泣きじゃくる僕に、声をかけてくれたのは、きれいな黒髪を背に流したお姉さんだった。
当時は子どもだったから大人みたいに見えたけど、だいたい中学生くらいの。
『どうして泣いているの?』
そう問いかけられて、僕は、いたい、こわい、としか言えなかった。
足をすりむいてるんだから、見ればわかるはずなのに、新手のいじめだろうかとも思った。
泣きやまない僕に、お姉さんは不機嫌そうに眉をひそめて。
それから、僕の膝小僧に人差し指をちょんとくっつけた。
指の先から何かが流れ込むみたいに、足がポカポカとあたたかくなって。
気づいたらすり傷は消えていて、にじんでいた血も、ついていた土も、全部きれいになっていた。
『何したの?』
『指先から魔法をかけたの』
当時から読書が好きだった僕は、魔法が何か知っていた。
現実には存在しない、物語の中だけのものだってことも、なんとなく理解していた。
なのに、今体験したものはまぎれもない魔法だと、僕は不思議と欠片も疑わなかった。
『もう、痛くないでしょう?』
お姉さんは、口の端を上げて笑みを作った。
あんまり笑い慣れていないようで、その笑顔は歪んでいたけれど、僕には何よりも魅力的に映った。
すごい魔法を使えるのに、上手に笑えない魔法使いに、僕はその瞬間恋に落ちたんだ。
*
「魔女の仮装、似合ってたよ」
一ヶ月前の文化祭で、A組はハロウィン喫茶を出店した。
音は魔女、僕は海軍っぽい白い軍服の仮装。
魔女と海軍なんて、関係のなさそうな仮装だったのは残念だったけど、音の衣装については文句なし百二十点満点だった。
紺色のひざ丈のフレアワンピースに、表が黒で裏地が赤いマント。黒い柄入りタイツに、焦げ茶のロングブーツ。仕上げは黒いとんがり帽。
衣装係の女子たちがやる気満々で、安くレンタルできるところを探したり、小物なんかは個々が持ち寄ったりしてコーディネートしたらしい。
用意された衣装を着るだけだった男子と比べて、女子の力の入りようはすごかった。変身願望がなんたら、ということなのかもしれない。
「……何、今さら」
「なんとなく思い出して。あのときも言ったけど、また言いたくなった。音の魔女姿、かわいかったなぁ」
衣装係に好き勝手にいじられたのか、当日の音は黒髪の毛先をくるりと巻かれていたし、お化粧もしていたようだ。
普段見かけない衣装やおめかしした姿は新鮮で、何よりもそれがとても似合っていた。思わずふふっと思い出し笑いがこぼれる。
返事がないのをいぶかしんで、横顔をちらりとうかがえば、耳まで赤く染まっていた。
ウブな彼女はいつまでたってもこういう褒め言葉に慣れてくれない。
言いすぎると照れ隠しに叩かれたり、しまいには口を利いてくれなくなったりするから、加減が必要だ。
恥じらう彼女をもっと見たくて、調子に乗ってしまう僕も悪いんだろうけど。
「仮装をしてなくたって、音はいつでも僕の魔法使いだよ」
かわいい恋人に、そして僕の愛しい魔法使いに、笑いかける。
音はちらっとこっちに目を向けてから、ため息をついた。
「だから、天使だってば」
「似たようなものじゃない?」
「全然違うけどね……」
はぁ、ともう一度、ため息。
あんまりため息をつきすぎると幸せが逃げるって、いつも注意しているんだけど、音は知らんぷり。
まあ、幸せを管理するのが仕事の彼女からしてみれば、それくらいで逃げるわけないって思ってるんだろうけど。と、その背にある白い羽根をぼんやりと見つめる。
音は、天使だ。
そして僕の初恋のお姉さん、魔法使いでもある。
中学校で再会したときは驚いた。何しろ、八年前とまったく変わらない姿だったんだから。
そのおかげであのお姉さんだとわかったわけだけど、魔法使いだからって年を取らないとまでは思っていなかった。それが半分正解で半分間違い、ということはあとで知ったことだ。
同じ学年、そして運のいいことに同じクラスになった僕は、積極的に彼女と交流を持とうとした。
彼女は僕があのときの子どもだとは気づいてなくて、僕もあえて言わなかった。
だから僕たちは普通にクラスメイトとして、友人関係を築いていった。
一応、常識的な思考も持ち合わせていたから、他人の空似の可能性だって考えた。もしくは血縁関係だとか。
でも、音と接するたび、音の声を聞くたび、音の笑顔や様々な表情を見るたび、確信は深まっていった。
気づけば頭の中で、音と魔法使いはイコールで固く結びついていた。
彼女の羽根が見えるようになったのは、たしか一年生の冬。
そのときは見惚れてしまって、うっかり『きれいな羽根だね』と言ってしまったんだ。
ただの人間ではないだろうと思っていたから、驚きよりも感動が勝った。
その結果、僕はしばらく彼女に避けられるはめになった。
なんとか捕まえて、話を聞いてもらえることになって。
僕は過去に会ったことがあると白状した。だから今さら驚かないと。
どうやら彼女も過去の僕を覚えていてくれたらしく、納得してもらえ、改めて彼女の秘密を教えてもらうことができた。
いわく、自分は天使なのだと。
世間一般的なイメージとは多少異なり、天使とは世界中にふわふわと漂っている幸せの素というものを管理するのが仕事らしい。
恋人になった今でも、詳しくは教えてもらえない。
天使は、天界ではゆっくりとしか年を取らない。
ある程度の年を重ねると下界に下り、成人するまでそのまま下界で過ごすのが慣例らしい。
音は今がその時期なのだということだった。
過去に会ったときは、下界にいる天使に用があったらしい。
『じゃあ、いつか天に帰ってしまうかもしれない?』
『……わかんない』
僕の問いかけに、音はくしゃりと表情を歪めた。
まるで泣く一歩手前みたいに。
天に帰るとき、僕との縁が切れるとき、彼女は寂しがってくれるらしい。
僕はもう、それだけで胸がいっぱいになった。
『期限つきでもいいよ、それまで一緒にいさせて』
元から、叶うことを期待している恋ではなかった。
普通の人間ではないんだろうと思っていたから、気持ち以前の障害がある可能性が高いことにも気づいていたし。
ただ、傍にいられれば、彼女の笑顔が見られれば、それでよかった。
それから僕たちはしばらく友人関係を続けていたわけだけど、次の転機は中三の受験時期だった。
志望校に落ちたかもしれないと落ち込む音を励ましていたら、音に告白された。
涙を流しながら。離れたくない、と。
じゃあ、一緒にいよう。いつか来るかもしれない別れの瞬間まで、離れない約束をしよう。
そうして僕たちは付き合い始めた。
結局は、こうして無事に同じ高校に入学できたんだけども。
今の自分が幸せいっぱいだから、そして相手が自分の場合と同じ天使だということもあって、和真の恋は他人事ではない。
僕にできることがあればなんでもしたいと思っている。
まだ本人もきちんと自覚しているわけではないようだから、今のところは放置しているけれど。
天使の羽根が見える、というのは、その人のことが好きというサインなのだと、僕は考えていた。
白鳥さんも天使だと教えてもらったのはだいぶ前のことなのに、羽根が見えるのは音だけだから、というのがその理由だ。
羽根が見えるようになるもっと前から好きだったつもりだけど、想いの深さの度合いや、タイミングもあるのかもしれない。
音は人間からの好意に困惑して、僕を避けたんじゃないだろうか。
和真は、恋を自覚するよりも先に羽根が見えるようになった。
僕とは逆のパターンだけど、天使に恋をしているのは同じこと。
そう解釈するのが自然なように思えた。
「羽根が見えるっていうのはさぁ、私たち天使にとっては、愛の告白と同義なんだよね」
「えっ……」
人気のない空き教室。
一緒に音の作ったお弁当を食べていると、唐突に彼女は暴露した。
僕は呆気に取られて、思わず箸を落とすところだった。
「天使にとって、羽根っていうのは一番大切なもので、一番のチャームポイントなの。孔雀が求愛のときに羽根を広げて見せるのとおんなじ。悠は天然で鈍感だから気づいてないけど、あのツンツン頭のことが好きなんだよ」
僕の驚きように気づいていないのか、音は淡々と、けれど少し寂しげに語る。
妹みたいに思っていた友だちが、自分の手から離れてしまったような心地なのかもしれない。
羽根が見えるというのは、その天使のことを好きになった証ではなくて、その天使に好かれた証、ということ?
音が嘘を言うわけがないから、真実なんだろう。それならさっきの音の行動の理由も納得できる。
あれは和真のためではなくて、白鳥さんのためだったんだ。
そんなに気になるなら、橋渡ししてあげようか?
和真に相談されたとき僕はそう言った。
和真も元から気になっている様子ではあったけど、あの言葉はきっと、さらに白鳥さんを意識させるきっかけになっただろう。
僕は和真の恋を応援したつもりで、白鳥さんの恋の後押しをしていたのか。
でも、今一番重要なのは、そこではなくて。
「……ねえ、音」
「んあ?」
「僕が音の羽根が見えるようになったのって、中学一年のときだったよね」
「……っ!!」
またたく間に音の顔が真っ赤に染まった。
彼女の感情に呼応するように、ぶわり、と天使の羽根が広がる。
なるほど、僕は長らく思い違いをしていたらしい。やっぱりこういうときはわかりやすいなぁ。
もっともっと、いろんな顔を見せてほしい。
別れの予感を吹き飛ばせるくらいに。
まだまだ僕には音が足りないから。
期限つきでもいい、なんて言葉を撤回したいくらい。
きっといつまでたっても、僕には音が必要だから。
知らず愛しさのにじみ出た笑みをもらしていた僕は、かわいい恋人の機嫌を損ねることになってしまった。
僕の恋人は、きれいな黒い髪と白い羽根を持った、すてきな魔法使い。
かつて指先から魔法をかけた魔法使いは、今はその存在すべてで、僕に魔法をかけ続けてくれる。