2.小さくいとけない兎へと抱く、その願い

 引退したといっても、仕事をしていないわけではない。
 長い間軍に属し、要職に就いていた者として、現在は軍の相談役という立ち位置にいる。
 人界とは違い、国という括りが存在しない魔界では戦争などは起きないが、地域同士のいざこざがないわけではない。
 もしこの地域に何かあれば、再び軍に戻されることもありえるだろう。
 まだ働こうと思えば働ける年で引退できたのは、この地域が、そして魔界が平和だからということが大きかった。

 夜遅く、コクヘキはリビングで、夕方に軍から届いた手紙に目を通していた。
 地域の境の警備に関する相談事だ。
 手紙で答えるのは難しい内容で、近々城に上る必要があるだろう。
 その間はススメをどこかへ預けておかねばならない。
 週に一度頼んでいる掃除婦にでも話を持ちかけてみるか、と考えているところで、カチャリと扉が開いた。

「おじさん、おじさん、いっしょにねて」

 扉の向こうにいたのは、つい最近養子として引き取った、まだ六歳の兎の獣人、ススメだった。
 ススメは枕代わりの熊のぬいぐるみを抱えて、目をこすっている。
 いつもならとっくに夢の中へと旅立っている時間のはず。
 ちゃんと回っていない舌やボサボサの髪からして、今まで眠っていたのだろう。

「どうした?」
「こわいゆめ、見た……」

 コクヘキの問いかけに、ススメはそう言って、今にも泣き出しそうな顔をした。
 泣かれるのは困る、とコクヘキはあわてた。
 子どもに泣かれたときの対処法など、軍では身につけられなかった。

「こっちに来なさい」

 とりあえず、コクヘキは手招きをした。
 この距離では、いざ泣かれたとき涙も拭えない。
 コクヘキは膝を悪くしていて、日常生活には困らないが、立ち上がるときにわずかな痛みを覚える。
 できるならそちらから来てほしい、という内心が伝わったわけではないだろうが、ススメはぽてぽてと近づいてきた。

「おじさぁんっ」

 ソファーに上がって、コクヘキの腹に抱きついてくる。
 全力でかけられる体重に、コクヘキは苦笑をこぼす。
 よしよしと頭をなでてやると、ススメは少しずつ落ち着いていった。
 手紙はテーブルの上へ置き、膝を貸して横にさせ、ボサボサになってしまっている白髪を手慰みに整えていく。
 己のものよりも高い体温に、不思議とコクヘキも気持ちが凪いでいく。

「おじさんのそばは、安心するね」
「……そうか?」

 心情を言い当てられたかのように思えて、一瞬反応が遅れた。
 どうやら自分は、小さな兎のいる生活にすっかり慣れてしまったらしい。
 傍にいるだけで心が安らぐほどに。
 まだ彼女を引き取ってから一月経った程度だというのに。
 ススメも同じように思ってくれているのなら、悪いことではないのだろう。

「おじさんはね、わたしのお月さまなんだよ」
「なんだそれは」

 コクヘキは小さな笑みをもらす。
 兎の幼女と暮らすようになって、自分が以前よりも笑う機会が増えたことに、コクヘキは気づいていた。
 ススメは元気がよく威勢もよく、好奇心が旺盛で突っ走る傾向にある。
 彼女の一挙手一投足に振り回されながらも、一人で暮らしていたときよりも毎日が充実していることは、覆しようのない事実だった。

「月を見るとね、わーってなるの。
 わたし、おじさんをはじめて見たとき、わーってなった。
 だから、おじさんはわたしのお月さま」

 魔界の住人で月の影響を受けない種族は少ない。
 月を見て気分が高揚するのは、獣人としての本能だろう。
 だが、コクヘキを見たときに同じものを感じたというのは、理解ができない。
 そこには獣人特有の何かしらがあるのかもしれない。

「よくわからないな」
「わたしもよくわからない。
 でも、わかんなくてもいいの。
 おじさんがそばにいてくれるなら、それでいいよ」

 ほんわり、とススメはやわらかな笑みを浮かべてみせた。
 見上げてくるルビーのような瞳には、全幅の信頼が映し出されている。
 ススメを正式に養子として引き取るにあたって、孤児院の院長から聞いた話をコクヘキは思い返す。
 彼女は実の親から育児放棄を受け、最終的に捨てられたのだと。
 無邪気に見えて、大人に対しての不信感が根底にあり、職員にも懐いたり甘えたりはしなかったのだと。
 大人に対して笑いかけるところを初めて見た、と言っていた。
 よろしくお願いします、と頭を下げられた。
 言われなくても、ちゃんと独り立ちするまで面倒を見るつもりでいる。

「傍にいるさ。
 安心して寝なさい」

 コクヘキはできるだけ優しい声で、そう言った。
 眠りやすいよう、くりくりとした瞳を己の手で覆う。
 必要としてくれる限りは、傍にいてやることが養父としての義務だ。
 ススメの心に影が差すことがないよう、コクヘキは尽力するつもりでいる。
 現実では、夢の中のようにススメを脅かすものは何もない。
 怖い夢から覚めたとき、甘えられる大人がいるのだと、理解してくれていればいい。

 やがてすやすやと寝息を立て始めたススメを、コクヘキは抱き上げて自分の部屋へと連れて行く。
 コクヘキのベッドは大きい。子ども一人と一緒に入ったところでどうということはない。
 ぽんぽん、とススメの背中を優しく叩きながら、コクヘキも眠りに落ちていった。



 義務だなんだと言いつつも、本当はそんなものはどうでもよく。
 朗らかなくせして寂しがり屋の兎の子どもの傍に、いてやりたい、と。
 他でもない自分が強くそう願っていることも、薄々気づいてはいるのだけれど。



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