引退したといっても、仕事をしていないわけではない。
長い間軍に属し、要職に就いていた者として、現在は軍の相談役という立ち位置にいる。
人界とは違い、国という括りが存在しない魔界では戦争などは起きないが、地域同士のいざこざがないわけではない。
もしこの地域に何かあれば、再び軍に戻されることもありえるだろう。
まだ働こうと思えば働ける年で引退できたのは、この地域が、そして魔界が平和だからということが大きかった。
夜遅く、コクヘキはリビングで、夕方に軍から届いた手紙に目を通していた。
地域の境の警備に関する相談事だ。
手紙で答えるのは難しい内容で、近々城に上る必要があるだろう。
その間はススメをどこかへ預けておかねばならない。
週に一度頼んでいる掃除婦にでも話を持ちかけてみるか、と考えているところで、カチャリと扉が開いた。
「おじさん、おじさん、いっしょにねて」
扉の向こうにいたのは、つい最近養子として引き取った、まだ六歳の兎の獣人、ススメだった。
ススメは枕代わりの熊のぬいぐるみを抱えて、目をこすっている。
いつもならとっくに夢の中へと旅立っている時間のはず。
ちゃんと回っていない舌やボサボサの髪からして、今まで眠っていたのだろう。
「どうした?」
「こわいゆめ、見た……」
コクヘキの問いかけに、ススメはそう言って、今にも泣き出しそうな顔をした。
泣かれるのは困る、とコクヘキはあわてた。
子どもに泣かれたときの対処法など、軍では身につけられなかった。
「こっちに来なさい」
とりあえず、コクヘキは手招きをした。
この距離では、いざ泣かれたとき涙も拭えない。
コクヘキは膝を悪くしていて、日常生活には困らないが、立ち上がるときにわずかな痛みを覚える。
できるならそちらから来てほしい、という内心が伝わったわけではないだろうが、ススメはぽてぽてと近づいてきた。
「おじさぁんっ」
ソファーに上がって、コクヘキの腹に抱きついてくる。
全力でかけられる体重に、コクヘキは苦笑をこぼす。
よしよしと頭をなでてやると、ススメは少しずつ落ち着いていった。
手紙はテーブルの上へ置き、膝を貸して横にさせ、ボサボサになってしまっている白髪を手慰みに整えていく。
己のものよりも高い体温に、不思議とコクヘキも気持ちが凪いでいく。
「おじさんのそばは、安心するね」
「……そうか?」
心情を言い当てられたかのように思えて、一瞬反応が遅れた。
どうやら自分は、小さな兎のいる生活にすっかり慣れてしまったらしい。
傍にいるだけで心が安らぐほどに。
まだ彼女を引き取ってから一月経った程度だというのに。
ススメも同じように思ってくれているのなら、悪いことではないのだろう。
「おじさんはね、わたしのお月さまなんだよ」
「なんだそれは」
コクヘキは小さな笑みをもらす。
兎の幼女と暮らすようになって、自分が以前よりも笑う機会が増えたことに、コクヘキは気づいていた。
ススメは元気がよく威勢もよく、好奇心が旺盛で突っ走る傾向にある。
彼女の一挙手一投足に振り回されながらも、一人で暮らしていたときよりも毎日が充実していることは、覆しようのない事実だった。
「月を見るとね、わーってなるの。
わたし、おじさんをはじめて見たとき、わーってなった。
だから、おじさんはわたしのお月さま」
魔界の住人で月の影響を受けない種族は少ない。
月を見て気分が高揚するのは、獣人としての本能だろう。
だが、コクヘキを見たときに同じものを感じたというのは、理解ができない。
そこには獣人特有の何かしらがあるのかもしれない。
「よくわからないな」
「わたしもよくわからない。
でも、わかんなくてもいいの。
おじさんがそばにいてくれるなら、それでいいよ」
ほんわり、とススメはやわらかな笑みを浮かべてみせた。
見上げてくるルビーのような瞳には、全幅の信頼が映し出されている。
ススメを正式に養子として引き取るにあたって、孤児院の院長から聞いた話をコクヘキは思い返す。
彼女は実の親から育児放棄を受け、最終的に捨てられたのだと。
無邪気に見えて、大人に対しての不信感が根底にあり、職員にも懐いたり甘えたりはしなかったのだと。
大人に対して笑いかけるところを初めて見た、と言っていた。
よろしくお願いします、と頭を下げられた。
言われなくても、ちゃんと独り立ちするまで面倒を見るつもりでいる。
「傍にいるさ。
安心して寝なさい」
コクヘキはできるだけ優しい声で、そう言った。
眠りやすいよう、くりくりとした瞳を己の手で覆う。
必要としてくれる限りは、傍にいてやることが養父としての義務だ。
ススメの心に影が差すことがないよう、コクヘキは尽力するつもりでいる。
現実では、夢の中のようにススメを脅かすものは何もない。
怖い夢から覚めたとき、甘えられる大人がいるのだと、理解してくれていればいい。
やがてすやすやと寝息を立て始めたススメを、コクヘキは抱き上げて自分の部屋へと連れて行く。
コクヘキのベッドは大きい。子ども一人と一緒に入ったところでどうということはない。
ぽんぽん、とススメの背中を優しく叩きながら、コクヘキも眠りに落ちていった。
義務だなんだと言いつつも、本当はそんなものはどうでもよく。
朗らかなくせして寂しがり屋の兎の子どもの傍に、いてやりたい、と。
他でもない自分が強くそう願っていることも、薄々気づいてはいるのだけれど。