運命が一度しか訪れないなんて、誰が決めたんだろうか。
俺の運命の相手は、志月倫子さん。同い年の、少し引っ込み思案な女の子。
一度目の運命は、とても子どもらしい思い込みだった。
小学六年生のときに、初めて同じクラスになった。同じ委員会になって、適当に決めたクラブ活動まで同じだった。
たった、それだけのこと。
もちろん、俺は今でもあれは運命だったと信じているんだけれども。友だちに話せば笑われるような、そんな運命。
……実際、笑われたことがあるから、最近できた友だちには話さないようにしている。
志月は、癖のない黒髪を二つに分けて結んでいた。
動くとその髪がなびいて、思わず目で追ってしまった。
運動が苦手で、図工もちょっと苦手。勉強はだいたい得意。
国語の時間に朗読する声にはよく聞き惚れていた。
同じクラスでも、隣の席になることはなかった。同じ図書委員でも、当番の日は違った。同じ料理クラブに入っていても、班は違った。
だから、俺のほうから積極的に関わろうとしなければ、彼女とは友だちにすらなれない間柄だった。
そして、当時の俺は、とんでもなく子どもだった。
同じ空間にいるだけで照れてしまって、とてもじゃないけど話しかけることなんてできやしなかった。
誰にも言わなかったのに、俺の気持ちは親友にはバレていて。そいつのにやにや笑いを見ると、さらに自分から行動できなかった。
クラスメイトとして、必要に迫られたとき以外、話す機会なんてなかった。
そんなときですら、自分に向けられた視線にドギマギしてしまって、俺はぶっきらぼうな返事をすることくらいしかできずに。
名前すら覚えてもらえたかもあやしい状態で、小学校の卒業式がやってきてしまった。
卒業式当日。
そのときの俺は甘かった。まだチャンスはいくらでもあると思っていた。
私立中学を受験する子以外は、ほとんどの子が同じ中学校に上がる。
中学生になって、少し大人になれば、もうちょっとちゃんとしゃべれるようになるんじゃないか、なんて。
そんな淡い期待を、木っ端みじんに打ち砕かれたのは、卒業式が終わってすぐのこと。
彼女が、仲のいい友人と話しているのが聞こえた。
『引っ越しても、友だちだよ』
『お手紙書くから、返事ちょうだいね』
そんな、お約束みたいな、残酷な言葉たち。
俺の隣にいた親友も、その言葉を聞いていたらしい。ポカリ、と軽く頭を殴られた。
「お前、このままでいいの?」
「……よくない」
じゃあ、どうする? と言うように、親友はまっすぐ俺を見てくる。
どうするって、どうするって、伝えるしかないじゃないか。
好きだって、告白するしかないじゃないか。
たとえ、友だちですらなくても。ほとんど話したことがなくても。
俺は君のことが好きで、忘れられたくないんだって。
引っ越しても、電話とか、手紙とかで、つながっていたいんだって。
俺は決心して、志月の前に進み出た。
彼女の友だちは怪訝そうな顔をしつつも、俺の気迫に押されたのか、志月から少し離れた。
黒い、大きな瞳が、ほとんど身長の変わらない俺に向けられる。
「あ、あの……俺、その……」
言葉が出てこない。だんだんと顔が熱くなってくる。
きっと今、茹でたタコみたいに真っ赤になってる。
好きだって、好きだって、言わなきゃ。
「俺……俺、は……」
口の中がカラカラに乾いていた。
舌が貼りついて、動いてくれない。
息まで苦しくなってきた。
「俺……志月に、言いたいことが、あって」
「うん。何?」
彼女は不思議そうに小首をかしげた。
その拍子に髪が揺れて、ふわりとシャンプーの香りがした。
もう、限界だった。
「引っ越し先でも、元気で!!」
それだけ言い残して、俺はダッシュで校門を出て行った。
もう、卒業式は終わっていたから、いつ帰ってもよかったし、すでに帰っている人も少なくなかった。
とはいえ、意味もなく全力疾走で帰ったバカなんて、俺くらいだろう。
置いていくなよ、とあとで親友には怒られたけど、それ以上に盛大に呆れられた。最初で最後のチャンスを棒に振ったんだから、当然だ。
家に帰ってから、めちゃくちゃ落ち込んだ。
お昼ご飯も食べずに、布団にくるまって男泣きした。
告白、できなかった。
好きどころか、俺のことを忘れないでとか、連絡先の交換とか、それすらできなかった。
運命だって、そう思っていたのに。
いや、そんなものに頼って、何もしようとしなかったから、こんな結果になった。
運命に甘えていちゃいけなかった。運命が訪れたなら、ちゃんとそれをつかもうと、努力しないといけなかった。
恥ずかしくなるくらいに、子どもじみた恋だった。でも、その時は本当にいっぱいいっぱいで、どうにもできない恋だった。
俺の初恋は、こうして終わった。
中学校に上がって少しすれば、他に気になる子ができたりもした。
けど、志月のことを思い出すといまだにどきどきして、忘れられていないことを自覚させられた。志月以上に好きな子はできなかった。
志月の友だちは俺と同じ中学に上がっていたから、やろうと思えば連絡先を知ることはできたのかもしれない。
でも、志月の友だちですらなかった俺が、どんな顔をして聞けばいいのかわからなかった。教えてもらえる気がしなかった。行動する前から何をあきらめているんだ、という感じだけれど。
あの、卒業式の日。俺の初恋は完全に終わったんだろう。
忘れられないくせに、もう考えないようにして、そうしてだんだんと志月のことを思い出すことも減っていった。
二度目の運命は、そんなときに訪れた。
たぶん、本当に、偶然以外の何者でもなかったんだと思う。
中学から始めたバスケが楽しくて、高校はバスケの強豪校に行きたくて。
スポーツ推薦とかで行けるほど強くなかったから、死ぬほど勉強して、なんとか最初はD判定で、教師にあきらめろと言われていた高校に合格した。
高校の、入学式の日。そこで二度目の運命に出会った。
いや……再会した、と言ったほうが正しいのかもしれない。
一目見て、電撃が走った。
「志、月……?」
思わず、声がこぼれた。
彼女はそれに気づかず、振り返ることはなかった。
周りに人が多い中で、大股で十歩分以上は離れているから、聞こえなくて当然だ。
俺よりも低い背。二本の三つ編み。身長も髪型も違う、顔もまだちらりとしか見ていない。
でも、不思議と彼女だってわかった。
彼女だけ、周りと見え方が違っていた。一人だけ輝いて見えた。
もう、三年も経っているのに。
いまだに忘れられていなかったんだと、そのことに驚いて。
でも、そりゃあ忘れられるわけがないじゃないか、と自分の中の砕け散っていたはずの恋心がささやいた。
話しかけたい。でも、どうすればいい?
彼女はもう俺のことなんて覚えていないかもしれない。むしろ、覚えていたらすごいと思う。
ほとんど話したことのなかった、六年生の時のクラスメイト。
卒業式に当たり障りのない挨拶をして走り去った、わけのわからないヤツ。
どんなふうに声をかけたらいいのかわからなかった。
話しかけるタイミングを図りながら、俺はクラス分けの表を見る。
志月との距離は、さっきよりも近くなっている。そのことにどうしようもなくドキドキした。
境 恭吾、それが俺の名前。さかい、さかい。自分の名前を探す。
俺の名前は二組のところにあった。そして……。
こんなことが本当にあるのか、と俺は目を疑った。
俺の名前の、二つ下のところに。
『志月倫子』
彼女の名前が、あった。
大股で五歩分の距離がある彼女を振り返る。彼女はまだ俺に気づいていない。
彼女を見て、ああ、もう認めるしかないと思った。
今度こそ、これは運命なんだと。
これが運命じゃないなら、何が運命なんだって、そう思った。
三度目の正直ならぬ、二度目の正直。
俺はまた恋に落ちた。
「あの……! 志月! 志月倫子さん!」
俺はたまらず、彼女の名前を呼んだ。
今度はさすがに彼女も気づいて、こちらを振り返った。
小学生のときはかけていなかった眼鏡。
レンズの向こうの黒い瞳が、俺を捕らえた。
「志月、だよね?」
「……はい、そうですけど」
志月の傍まで歩み寄ると、彼女は不思議そうに小首をかしげる。
どうやら俺が誰なのか、わかっていないようだ。
それも当たり前のことだろう。
何しろ三年ぶりで、俺はかなり身長も伸びていた。
「俺、境! 境 恭吾! 覚えてないかな?」
「えっと……」
「同じ小学校だったんだ! 六年のとき、クラスも委員会もクラブも一緒だった!」
どうにか思い出してもらおうと、俺はヒントを出しまくった。
これでも思い出せなかったら、完全に忘れられているということだろう。
もしそうなら、落ち込むどころじゃすまない。泣くかもしれない。
でも、もう、あきらめようなんていう気にはなれなかった。
忘れられていたとしても、ここから始めることだってできるはずだから。
「……ああ、あの」
「思い出してくれた!?」
志月の瞳に、やわらかな色が映る。
それだけでうれしくなってしまって、ぐいっと志月に顔を近づけた。
ビックリしたように後ずさる志月に、俺は距離感を間違えたことを悟った。
「あ、ごめん、なんか懐かしい顔見たら、めっちゃテンション上がっちゃって。なれなれしくしてごめんな!」
「別に、気にしてないよ。だいじょうぶ」
志月はそう言って、わずかに微笑んだ。
ひかえめな笑みは、俺の知っている志月のもので。
三年経っても変わっていないところもあるんだと、俺に教えてくれた。
「境くん、おおきくなったんだね。わからなかった」
月の密やかな輝きを音にしたら、こんな感じなんじゃないかって思うような、静かで耳に優しい声。
美の女神ヴィーナスだって、きっとこんなにきれいじゃなかったって思うくらいの微笑み。
世界中に自慢したいくらい、志月は最高にかわいかった。
「また、同じクラスだな。一年間、よろしく!」
「よろしくね」
右手を出したら、志月も手を差し出してくれた。
ぎゅっと握った手は、すごく小さくてやわらかくて、壊してしまわないか心配になるほどで。
今日という日を俺は絶対に忘れない、と思った。
そして、今度こそ。
今度こそは、この運命をつかみ取ると。
小さな手を握りながら、俺は決意を固めた。
だって、運命の女神は、俺に二度微笑んでくれたんだから。
この恋は、きっと女神のおすみつき!