なんで泣いているのかもわからない状態で、ずっと涙が出てくるわけもない。
少しすると胸の痛みが弱まってきて、高ぶっていた感情も収まってくる。
ぽん、ぽん、と頭をなでるエリオさんの手の優しさに促されるように、涙が引いていく。
完全に涙が止まって、しゃっくり上げることもなくなって。
人前で泣いちゃったことの恥ずかしさに顔を上げられずにいると、エリオさんの手が私の頬を包み込んで持ち上げた。
「もう、大丈夫?」
私を映すあたたかな金色の瞳には、思いやりがこもっていた。
すごくどうでもいいことで泣いちゃったのに、心配してくれることが申し訳なくて、うれしい。
だから、私はにへらっとしまりない笑みを浮かべた。
「はい、大丈夫です。お騒がせしました」
悲しい気持ちは今もあるけど、泣いたらだいぶすっきりした。
文字が読めないだなんて思っていなかったから、感情が暴走しちゃっただけだ。
もう、大丈夫。泣いたりしない。
心配してくれる人がいるから。心配させたくないって思うから。
こんなことで落ち込んでなんていられないのです。
「フィーラはきっと、本が大好きだったんだろうね。
だから、読めなかったことがすごくショックだったんじゃないかな」
「たぶん、そうなんだと思います」
見渡すかぎりの本を見たときの感動。文字が読めなかったときの落胆。
自分の心の動きから察するに、そうなんだとしか考えられない。
本が好きだったことなんて、全然覚えていないのに。
意識していないところで、ちゃんと覚えていたらしい。
「身体は覚えてるって、本当ですね。
なんだか、記憶がなくてもなんとかなる気がしてきました」
頭が、記憶を覚えていなくても。
身体が、心が、覚えているものはたしかにあるんだ。
本を見ると無条件に興奮するのも、文字が読めないことが嫌で嫌でしょうがないのも。
本が好きな私が、以前の私が、存在していたから。
覚えているよりも前の私を、初めて認識できたような気がする。
うまく言えないけど、なんだか、すごくほっとした。
「前向きだね。
ついさっきまで泣いてたのに」
「それはそれ、これはこれです。
私は未来に生きるのです!」
「前向きなのはいいけど、空回りそうで心配だな」
「うう……気をつけます」
エリオさんのからかいを含んだ笑みに、私は肩を落とす。
意地悪だけど、意地悪なんだけど、言っていることは間違っていないんだよね。
気を張りすぎるのもよくないって、きっとエリオさんは言いたいんだ。
特に、今はまだ何をどうがんばればいいのかもよくわからないところだしね。
やる気があるのはいいことだけど、あさってな方向へと行っちゃわないように、気をつけないと!
「でも、文字が読めないなんてビックリしました。
エリオさんの魔法でしゃべれるようになってたから、てっきり読み書きもできるものかと……」
そう、普通に会話が成立するようになっていたから、まさか文字は読めないだなんて思ってもいなかったんだよね。
私が寝ている間に使ったらしい魔法は、話せるようにするだけのものだったんだなぁ。
「うーん、それも、魔法でできなくはないんだけどね……」
「そうなんですか? じゃあ!」
ぜひ、お願いします! と言おうとした私を、エリオさんは視線で押し止めた。
眉がひそめられて、目の色が温度を感じさせないものに変わる。
「これ以上は、駄目なんだ。
フィーラの脳にかかる負担が大きすぎる」
「負担……?」
うん、とうなずいて、エリオさんは私に使った魔法について語り始めた。
エリオさんが私に使ったのは、術者の知識を他人に移す術。
脳に直接送り込むため、頭痛がしたり、気絶したりと、副作用がある。それは森で聞いていたとおり。
副作用は効果に比例する、というのも聞いていたけれど、実はこの副作用、術の度合いによってはかなり危険なんだとか。
たくさんの知識を覚え込ませると、脳に障害を起こす危険性がある。実際、過去に例があるらしい。
だから、移してもいい知識の種類や、ここまでしかダメという知識の限度量、術を使っていい人、対象者、などなどいろんな決まりごとがある術なんだそうだ。
エリオさんが賢者だから、そして私が落ち人だからという理由で、今回は基準をクリアしたわけだけど。
知識の限度量は、話せるようになるところまででぎりぎりになっちゃった、と。
まあ、そうだよね。日常会話に困らないレベルの言語って、普通に考えるとかなりの知識量だもんね。
「限度量は人によって違うみたいだし、術者と対象者の相性もある。
フィーラは抵抗が少なかったから、文字を覚えさせても大丈夫の可能性も少なくない。
でも、オレはもうフィーラにその術を使わないよ。
対象者の身を守るための決まりだからね。賢者が、破るわけにはいかない」
難しいことはよくわからないけど、私のことを考えて言ってくれているのはわかった。
ほんと、優しいなぁ、エリオさんは。
優しくて真面目で、非の打ち所が見当たらない。
「じゃあ、私がこの本を読めるようになるためには、文字を習わないといけないんですね」
「……習いたいの?」
私の言葉に、エリオさんは不思議そうな顔をする。
え、何か変なこと言いましたっけ?
「教えてもらえるなら、そうしたいんですけど。
忙しいから、ムリですか?」
エリオさんやタクサスさんは、落ち物とか私のこととかを調べなきゃいけない。
もし二人が忙しいなら、ラピスさんとかに教えてもらおうかなぁって思ったりしたんだけども。
みんなが忙しいなら、しょうがないかなぁ。
「いや、別にそのくらいの暇はあるよ。
でも、いつまでいるのかもわからない世界の言葉を覚えても、意味ないんじゃないかと思って」
「いつまでいるかわからないってことは、下手したら年単位でいることになるかもしれませんし。
そしたら、本が読めないのはすごくつらいです!」
「なるほど、覚えるまでの労力よりも、本が読めない苦痛のほうが、フィーラにとっては大きいんだね」
「そうみたいです」
本が目の前にあるのに、それを読むことができないなんて、苦痛としか言いようがない。
それくらいなら、時間がかかってでも、どのくらい大変でも、文字を覚えようって思うよ。
……本当に、読書が好きだったんだろうなぁ、私。
自分の中からわいて出てくる強い意志に、確信する。
「それに、新しいことを覚えるのって、とっても楽しいことだと思うんです。
今まで知らなかったこと、今まで理解できなかったものが、自分のものになるんですよ!
本が、文字がここにはたくさんあるのに、ただ指をくわえてるだけなんてもったいないです」
心の底から、そう思う。
たぶん、私は勉強というものが元から嫌いじゃなかったんだろう。
新しい知識を得ることは、無上の喜びだ。
知らなかったことを知るたびに、自分の視界が開けていく。
文字さえ読めれば、ここには私の知らないたくさんの知識が眠っているんだ。
この世界のことをもっとよく知るためにも、私は文字を習いたかった。
「そっか、フィーラらしいね」
エリオさんは表情を和らげて、私の頭を優しくなでてくれた。
わかってくれたのがうれしくて、私も笑い返した。
「じゃあ、そんな前向きなフィーラには、この本がピッタリかな」
そう言ってエリオさんは本棚に近づいていき、すぐに一冊の薄い本を取り出して持ってきた。
私に向けて、その本を開いてみせる。
きれいな淡い色のイラストが全面に描かれていて、文字と思わしきミミズは少なめに書かれていた。
「……絵本、ですか?」
「そう。フィーラが知りたがっていたことの入門編としては、これが最適だと思うよ」
「この世界のことについて?」
今日、エリオさんに聞いたのはそのことだった。
《賢者》のこと、神さまのこと……この世界のこと。
何を聞けばいいのかもよくわからない状態だったから、すごく大まかな質問をしたんだ。
エリオさんならきっと答えてくれる、という信頼もあったからなんだと思う。
最初からエリオさんはその絵本を見せようとしていたのかもしれない。
「世界と、神々と、賢者と、竜について」
ゆっくりと、エリオさんはそう言葉を紡いで。
それから、私にその絵本を読み聞かせてくれた。
この世界――センピルヴィレンスの神話を。