15話 失った記憶と残る思い

「記憶が戻ればいいんだが」

 タクサスのつぶやきは、あまり期待していないように聞こえた。

「落ちてきた衝撃による一時的なものなら、しばらくすれば戻るかもしれないね。けど」
「封じられてるか消されてるんなら、難しいだろうな」

 その通り、とエリオは笑みを返す。
 続く言葉を察してくれるタクサスの話は早く進むので楽だ。

「記憶喪失が偶然か故意かは今のところわからない。
 だから、今できることは、あの子の失ってない部分を見定めること、かな」
「失ってない部分?」

 どういうことだ、とタクサスの目が問うように細められる。
 エリオにしてみれば簡単なことなのだけれど、当たり前すぎて思いつかないらしい。
 人間、記憶がすべてではないというだけのことだ。

「感情、感覚、思考パターン」

 箇条書きのように淡々とエリオは答える。

「知らないのと、覚えてないのとは違うってこと。
 覚えてないなりに何かを感じて、考えてる。
 それは今まで過ごしてきた環境があってこそだよね」

 記憶がすべてではない。少女はただ覚えていないだけだ。
 名前すらわからないと言っていた少女に、知識がどの程度まで残っているのかはまだわからない。
 けれど、少なくとも彼女は話せない分、深く考えこんでいた。何度かエリオの存在すら頭から追いやってしまうほどに。
 彼女なりの考えがあり、その考えは過去の少女の考え方を下地にしているはずだ。

 そうなれば、彼女の“無意識”が鍵になる。

 無意識の中に、普段は表に出ない知識が眠っている可能性は高い。
 少女が当然と感じていることが、ここでは不自然なことになるかもしれない。
 少女にとってありえないことが、ここでは普通にあることなのかもしれない。
 それに直面したときの、彼女の『おかしい』という思いが重要になる。

「……そこまで行くと、心理学だな」
「学術として捉えるのは苦手だけど、人の思考を読むのは得意だよ」

 生物的な脳の動きや、過去の事例を引き合いに出して考察するなどといった、小難しいことはエリオには合わない。
 エリオの持つ知識は、本から得たものでも師から教わったものでもない。人に交わり人として過ごしてきた日々で培ってきたものだ。
 知識というよりは知恵。むしろ経験といったほうが正しい。
 元から備わっていた才能もあって、すっかり人間観察が特技になってしまった。
 《賢者》として必要な技でもあるから専売特許というほどではないけれど、エリオの目は精度がいいらしく、仲間内でも好評であり不評だ。
 お前に隠しごとはできないと、皮肉を込めて《陽光の賢者》と通名がつくほどに。

「タクサスには質問を考えておいてほしいんだよね。一般常識や思想的な内容の。
 できれば選択式じゃなくて、『これについてどう思う?』っていう自分で答えを考えてもらう質問。
 それでおおまかな境遇はわかると思う。あんまり期待はできないけど、どの世界か特定できる可能性もある」
「わかった」

 落ち人は、その特殊さから《賢者》に保護されることが多い。保護者が別の人でも、《賢者》とまったく関わりを持たないということはほとんどない。
 それは、国に属さない者が後見人になることで権力者に利用されないためだったり、この世界に厄をもたらす存在にならないよう見張るためだったり、単に研究対象として魅力的だからだったり。
 その時々で理由は少しずつ異なるものの、言ってしまえば落ち人が悪目立ちする存在だからだ。
 空間の歪みは、ある程度の力を持つ者なら感知できる。規模や距離にもよるけれど。
 そのため落ち人の存在を隠すことは難しく、自然と力のある者の監視下に置くしかなくなる。前にあげたような複数の理由から、《賢者》は保護者として適任だった。

 《賢者》には《賢者》のツテがあり、情報源がある。タクサスが出してきた歪みのデータもそれによるものだろう。
 落ち人を保護した《賢者》のほとんどは、記録を残している。
 エリオはあまり興味がなかったためちゃんと読んだことはないが、知人の一人はかなり詳しく調べていたはずだ。
 その知人によると、落ち人の証言などから異世界についてもうかがい知れるらしく、同じ世界から落ちてきたと思われる落ち人も数多くいるらしい。
 記憶はないものの直接落ち人の証言を得られるのだから、過去の記録と照らしあわせれば、何か新たな情報が出てくるかもしれない。
 そこまでうまくはいかなくとも、少なくとも彼女の人となりを知ることはできる。

 タクサスに任せるのは、単純な役割分担だ。
 彼のほうがこういった細かな作業は向いているし、質問内容も偏ることなく被ることなく、必要な情報を得られるだろう。
 案だけ出してあとは人任せのようにも思えるが、二人にとってはいつものことだった。
 誰でも向き不向きはあるものだ。一人でなんでもやろうとする必要はない。
 もちろんエリオも怠けるつもりはなかった。少女と接しながら情報を引き出すのが自分の役割だとわかっている。

 まずは行動を共にしながら、不自然にならない程度に様々なものを見せていくようにしよう。
 彼女の世界に存在しないものを見れば、驚くか怯えるか興味を持つか、何かしらの反応はあるかもしれない。
 手探り状態ではあるものの、元々エリオは事前に緻密な計画を立てたりはせず、臨機応変に、言ってしまえば勘を頼りに行き当たりばったりに動くことが多い。
 いつも通り、目を閉じずに背けずに。それだけでも見えてくるものはあるはずだから。

「とりあえずは百問ほどでいいな」
「……ちょっとあの子に同情したくなった」

 ぽろっとこぼされたタクサスのつぶやきに、エリオの頬が引きつる。
 選択肢のない質問を百問も答えさせられるらしい。
 学問的なものとはわけが違う。質問を考えるよりも答えを考えるほうが何倍も難しいだろうに。
 出題傾向にもよるだろうが、エリオだったら即行で逃げ出しそうだ。

「あ、質問はオレがするから、ちゃんと自分以外にも読める文章にしてね」

 ふと彼の悪癖を思い出し、エリオはからかうように言い足した。
 タクサスは片眉を上げ、かすかに拗ねたような声音で、それくらいわかってると小さくぼやく。
 どうだか、と思ったもののそれ以上は口にせず、エリオは笑みを深めた。

 文字が汚くて読めないわけではない。むしろ文字自体は、彼の性格そのままに歪みなく綺麗に整っている。
 問題は、文章。そもそもあれは文章と呼べるものなのかすら謎だ。
 要点のみの、徹底的に無駄をはぶいた文字の羅列は、タクサス以外には絶対に解けない暗号のようだった。
 他人に読ませる必要のある場合はちゃんとした、簡潔ながらわかりやすい文章を書くので、彼のメモ書きを見てもほとんどの人はわざとだと思い込む。
 けれど、長いつきあいのエリオは知っている。あれが無意識によるものだと。
 ある意味、情報がもれる心配がなくていいのかもしれない。物理的にも精神的にも、彼の研究成果を盗むことができる強者がいるかどうかはさておき。

「口頭で訊くんだな」
「うん。そのほうが反応もわかりやすいしね」

 こういうことばっかり言ってるな。と内心で自嘲する。
 他にも大きな理由はあるけれど、そちらは言わなくともタクサスも気づいているだろう。

「記憶がないからって、嘘をつかないなんて決まりはない。
 混乱による思い込み。警戒心による黙秘やごまかし。
 何も覚えてないなら必要以上に慎重になるはずだからね。……普通なら」

 思わずつけ足してしまった言葉に、タクサスは怪訝な顔をする。

「彼女は普通じゃなかったのか?」

 普通。普通とは何を指すのか。
 少なくともあの反応は、あの表情は、普通ではなかったとエリオは思う。


 木もれ陽を溶かし込んだような、くもりのない瞳の色が頭をよぎる。

 不意にわきあがってきたのは、いらだちだった。



前話へ // 次話へ // 作品目次へ