17 記憶・たまごボーロ V

「会ったこと、ある……?」

 そう言われても、私の思い出した記憶の中に、ケイトは存在しない。
 あっちの世界にいたのが16歳までだったとしても、少しくらい面影は残ってるだろうし、そもそも名前に記憶がないし。
 ケイト、ってたぶん、恵人とか圭人とかそんな感じの名前だよね。
 日本人でも普通にいる名前だって、今までまったく気づかなかった。
 さすがは楽天的なトラ。騙されやすいのが特徴だもんね。

「たまごボーロ」

 ケイトは、テーブルの上に置かれたそれを指差した。
 手作りのたまごボーロは、市販のものより大きめで不揃いで、でもきれいな卵色をしていた。
 きっと、いや絶対おいしいんだろうけど、今は食べる気にはなれなかった。

「俺、一時期これが好きでさ。学校帰りに近くの駄菓子屋で買って、道すがら食べてたりしたんだ。行儀悪いとか言わないでね」

 ケイトの過去語りは、元の世界にまで遡った。




  ◇ ◆ ◇




 たしか桜がまだ咲いてたから、春のことだったと思う。
 その日もたまごボーロ食べながら帰ってたらさ、ちっちゃい女の子がいきなり飛びついてきた。
 たぶん、まだ3歳くらいの子。

 何かと思ったらさ、目をキラッキラさせて、ちょうだい、って言うんだ。俺の持ってるたまごボーロ見ながら。
 子どもは扱いに困るけど嫌いじゃなかったし、そんな顔されたらあげないと悪者みたいじゃん?
 最初は、3粒、あげた。
 そしたら泣きそうな顔してさ……たぶん足りなかったんだろうね。
 泣かれたら困るからって、さらに5粒あげた。
 そしたら現金なことに、もっと、って手を伸ばしてきた。
 なんかもう、笑えてきてさ。残ってるの全部あげた。

 たまごボーロ食べてるその子を見てたら、「小花!」って焦りまくった女性の声がした。
 その子のお母さんらしき人は、俺たちの様子を見てすぐに察したらしくてね。
 女の子を叱って、俺には平謝り。
 で、たまごボーロの分、って500円くれて、さよならした。
 たまごボーロは100円もしなかったし、得したなーって思って。
 その、帰りに、この世界に飛ばされた。
 なんとなく、ほんっとーになんとなく、キラキラした目と、名前は覚えてた。200年以上忘れなかったってすごいでしょ。

 誰かを道連れにしよう、って決めたとき、人選にすごい悩んだんだ。
 会ったことがあって、名前を知ってる、なんて、普通なら家族か仲のよかった友だちを選ぶでしょ。
 でも、家族を殺すなんてできるわけない。幸せでいてほしかったから。
 それは友だちも同じだし、学校の顔見知りもやっぱり後ろめたい。
 そもそも顔見知り程度じゃ、すでに名前を忘れてる人ばっかりだったし。
 限りなく他人で、名前を知ってる人。
 君だ、って思ったよ。
 名前以外、なんにも知らない赤の他人なら、不幸にしてもいいや、って思った。

 でもさぁ、200年ぶりに出会った人間が、人の目見ながらまさかの「おいしそう」、だよ。自分を殺そうとする人を前に「ホットケーキ食べたい」、だよ。
 さすがに予想外すぎてさ。本当に久しぶりに笑ったよね。
 そんなにお腹すいてるなら、食べさせてからでいいかって思った。俺も鬼じゃないからね。
 騒がれたら面倒だから、ホームシックになりそうな余計な記憶は封印しておいた。ここから逃げられたら困るから、軽い暗示も。小花ちゃんは楽天的すぎて、必要なかったかもしれないけど。
 ついでになるべく未練を断ち切ってもらおうと、他にも食べたいものがあるか聞いたら、出てくる出てくる卵料理。
 ホットケーキを食べる目がさ、卵料理を語る目がさ、記憶の底に残ってたキラキラな目と完全に一致した。
 俺が飽きるまでは付き合ってあげよう、って毎日卵料理を作った。

 いつでも死ねるから、いつでも殺せるから、って。
 毎日毎日、先延ばしにして。
 その結果が、これ。




  ◇ ◆ ◇




 長い長い、ケイトの話が終わった。

 小さいときにたまごボーロをくれたお兄ちゃんのことは、なんとなく覚えている気がする。というかきっと、今だから思い出せた。
 記憶があやふやすぎて、面影とかそんなのは全然わからないけど。
 たぶん、私が本格的な卵好きになったのは、そのときのお兄ちゃんが原因だ。
 おいしいおやつを、自分の分まで全部私にくれた、優しいお兄ちゃん。
 私を重度の卵好きにしたお兄ちゃんが、まさか異世界に飛んで、世界を救って、世界に裏切られていたなんて。
 そして、黄泉路の供に私を選んで、異世界に強制召喚するなんて。
 そしてそして、あろうことかそんなケイトに、恋に落ちてしまうなんて。
 なんていう巡り合わせだろうか。いっそ運命なんじゃないだろうか、これは。

 そんなばかなことを現実逃避に考えながらも、脳内はグルグル回る。
 ケイトの過去は、正直重すぎて、私には背負いきれない。
 私が知っているのは、今このときのケイトだけ。
 いつも笑顔の仮面を被ってたケイト。私を甘やかしたり拒絶したりしたケイト。どうやら私を殺そうと思っていたらしいケイト。
 好きな人と死ねるなら、それは心中って言うのかもしれないけど、私はケイトと心中したいわけじゃない。
 だから、ケイトと一緒に死ぬことはできない。
 ひどく単純な結論が出てしまった。

「私を殺すの?」
「うん」

 ケイトは即答した。
 私が何か反応を返すよりも先に、

「って、言えたらよかったんだけど」

 と続けて、へにゃりと情けない笑みを見せた。
 初めて見る顔。そして、

「殺したく、ないなぁって……思っちゃったんだ」

 うそつきなケイトが、初めて、ほんのわずかも飾ることなく感情を晒した。
 もろくて、複雑で、今まで見てきたどのケイトとも違って、どのケイトにも通じる。
 子どものまま大人になってしまったような、ひとりの人間としての、ケイト。
 彼の瞳の奥で、16歳のケイトが泣いているように見えた。

「……私も、殺されたくない」
「うん、わかってる」
「死にたくないし、ケイトに人殺しになってほしくもない」
「……そっか」
 
 考えがまとまらないまま話す私に、答えるケイトの声は力ないもので。
 不安になる。心がざわざわする。
 このままだと、取り返しのつかないことになってしまいそうな気がした。

「私は、どうすればいい?」

 そう問いかけると、ケイトは一度、目を閉じて。
 次に目を開けたときには、いつもどおりの微笑みを浮かべていた。

「元の世界に帰ればいい」

 静かな声。揺れない瞳。
 ああまったく、また上手に仮面を被るんだから。
 今までの私なら、簡単に騙せたかもしれないけど、もう意味ないよ。
 だって素顔を見ちゃったんだから。
 比べればすぐにわかる。嘘か、本当か。

「俺は君のことが気に入った。だから、逃がしてあげる」

 気に入った、なんて。
 そんなもんじゃないくせに。

「記憶は全部元に戻ったよね? じゃあ、帰りたいはずだ。大事な家族が、友人が、待ってるんだから」

 そうやってわざと私の里心をあおろうとして。
 帰りたいよ。きっと待ってるよ。
 お父さんお母さんお姉ちゃん。奈津に和葉に千雪。会いたい人の顔なんて、今まで忘れていたことが嘘みたいに、いくらでも思い浮かぶ。
 ケイトが家族や友人を不幸にしたくないって思ったように、私だって大切な人たちを悲しませたくなんてない。
 私が帰らなかったら、きっとみんな心配する。泣かせてしまうかもしれない。

「帰れるの?」
「今日のうちならね」
「どういうこと?」

 どうしていきなり、今日なんだろう。
 異世界からの召喚には、まだ他にも決まりごとがあるんだろうか。

四十九日しじゅうくにち、ってわかるよね。その間は魂はさまよっていて、49日間で、魂の居場所が決まる。どんな偶然か、その猶予期間はこの世界でも有効でね。異世界に行くってことは、一度死ぬようなものらしい」

 日本人としてなんとなくは知っていた知識を、まさか異世界でまで聞くとは思わなかった。
 小学生のときにおじいちゃんが亡くなって、四十九日についておばあちゃんが教えてくれたけど、もっと長ったらしい説明でわかりにくかった記憶しかない。

「君の居場所はまだ定まってない。今日までなら、俺の力で元の世界に帰すことができる」

 だから、帰るんだ、とケイトの瞳が言っている。
 タイムリミットは、今日。
 なるほど、今になってケイトが私にすべてを話してくれた理由がわかった。
 たぶん、『たまごボーロ』は私が記憶を取り戻すためのキーワードだった。ケイトがそういう術をかけたんだろう。
 きっと最初はゲーム感覚だったそのキーワードを、誘導して引き出させたのは。
 私に、選択させるため。
 正しい答えを、選ばせるため。

 普通なら、私は帰るべきなんだろう。
 他の選択肢なんて、存在しないはずなんだろう。
 ただ、ひとつ、気になることがある。

「私が帰ったら、どうするの?」
「それは判断材料にすべきじゃないよね」

 わかってる。帰るなら、ケイトのことを考えてはいけない。
 いくら好きな人でも、家族、友人、故郷、他の大切なものすべてと天秤にかけてまで選ぶなんて、容易なことじゃない。

 でも、考えずにはいられないんだ。
 黄泉路の供にするために、私を喚んだケイト。
 なら、私が帰った、そのあとは。
 きっと、ひとりで。
 死んでしまうんじゃないかって。

 首から下げた巾着をぎゅっと握る。
 デイジー、今こそ力を貸してよ。
 あなたを食べると決めたとき以上に、今、勇気が、覚悟が必要なんだ。

「ねえ、ケイト。私のこと好き?」

 これが最後の問いかけ。
 そしてきっと、ケイトはイエスとは答えない。
『俺は、君のことだけは好きにならないよ』
 ケイトはあのときだって、うそつきだったから。

「嫌いじゃないよ、君と一緒にいた時間は久しぶりに楽しかったし。でもそれは、君の求める想いとは違うだろうね。俺にとって君は、所詮暇つぶしのおもちゃでしかなかったから」

 ああ、ケイト、私わかるよ。
 目をそらしたら嘘だってバレるから、そらせないんでしょ。
 ケイトは今、完璧な仮面を被ってる。きれいなきれいな微笑み。
 だからこそ、嘘だってわかっちゃうんだよ。

 騙されてあげられたらよかったのかもしれない。
 残念だなぁ、結局好きになってもらえなかったか。じゃあしょうがないから、帰るよ。って、言ってあげられたらよかったのかもしれない。
 そのほうが、ケイトのためだったかもしれない。
 でも、無理だ。そんなの私が我慢できない。
 エゴでしかなくても、私は、私のしたいようにしか動けない。

「ケイト、名前を呼んで」
「……なにそれ」
「なんでもいいから」

 ねえ、なんで名前を呼ばないの。
 いつもみたいに、小花ちゃんって。
 軽い調子で、穏やかな声で。
 本当にいつもどおりのケイトなら、呼べるはずなのに。

「こはな、ちゃん……」

 ケイトの声はかすかに震えていた。
 緊張してる中でいつもどおりを心がけて、結果的に力みすぎたみたいな声だった。
 仮面に大きなヒビが入った。
 一度、完全に外した仮面だもん。もろくもなってるよね。
 それだけでわかっちゃったよ。
 ケイトが私のこと、すごく、すごく大切で。
 大切すぎるからこそ、手放そうとしてるんだってこと。

「ケイト、好きだよ」
「……知ってる」

 うん、だろうね。
 じゃあ、私が出した答えもわかるよね。
 合わせた目と目から、伝わっているよね。

 後悔はするんじゃないかな。こんな短時間で決めるなんて。
 でも、私は。
 大好きな人が死んでしまっているかもしれない未来で後悔するより、大切な人たちがどこかでしあわせになっていることを信じていられる未来で後悔するほうがいい。
 そんな、すごく自分勝手で、単純な答えなんだ。

「私さ、外の世界が見てみたいんだ。この島から出てみたい。連れてってくれるかな」

 この島はいいところだけど、一生ここで暮らすのは、ちょっとなぁって思う。
 完全なふたりっきりってのも、うれしい部分もありつつキツい面も多い。生理のときみたいにね。
 他に相談できる人とか、友だちとかも欲しいし。
 ケイト以外の人との交流は断ちたくない。
 せっかく異世界に来たのに、ここ以外を知らないっていうのももったいないしね。
 面倒見てもらってる立場でわがままかもしれないけど、ケイトが私を喚んだんだし、これくらい許してくれないかな。

「……君は、ほんとうに、ばかだ」

 ケイトは心の底から、私を罵倒して。
 こはな、と縋るような、それでいて血を吐くような声で、私の名前を呼んだ。
 その血が、私という毒を摂取してしまったためのものなら。
 私はケイトの傍で、ケイトの毒であり続けたい。
 死を望むケイトにとっての毒は、生への執着。
 私がこの世界に存在している限り、ケイトは死ぬことができない。
 私がケイトの生きる理由になる。足枷に、なる。



 ねえケイト、それなら、ずっと一緒にいようよ。
 とりあえずは今、一緒にたまごボーロを食べようよ。

 ばかな恋だってなんだって、好きな人を救えるなら、あっぱれなもんじゃない?



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