13 誘惑・マドレーヌ

 ねむい。とてつもなくねむい。
 生理痛はそんなに重くない代わりに、抗いがたい睡魔に襲われるのはいつもと変わらず。
 今回は半月くらい遅れてたから、余計に眠気が強烈な気がする。
 耐えきれなくてお昼寝させてもらったけど、覚めたはずの目はまたすぐに閉じようとする。
 台所からは卵とバターが焼ける甘〜い匂い。マドレーヌらへんだろうと私の優秀な鼻が当たりをつける。
 食べたい。食べたいけどねむい。ねむいけど食べたい。
 匂いにつられて私はもぞもぞと身体を起こす。
 でも、視界はぼんやりするし、ゆっくりにしか動けないし、なんだかまだ頭が働いてない感じがする。
 のそりのそりとベッドから下りて、ゾンビみたいな足取りでケイトの背中に近づいていく。

「小花ちゃん? 起きたならお皿出してくれる?」

 ケイトが何か言ってる。
 それを低速回転中の脳が理解するより先に、私は広い背中に抱きついた。

「け〜い〜と〜」

 きゅうっとケイトのお腹に腕を回す。おお、筋肉だ〜。
 はぁ、と吐き出されたケイトのため息が、お腹から直に伝わる。
 おいしそうな匂いに浮き立っていた心は、それだけでどんより沈んでいく。

「寝ぼけてるの? 近づかないでって言ったよね」
「う〜〜」

 言われた。覚えてる。血の匂いがするからでしょ。
 でも近づきたい。離れたくない。
 好きだから、傍にいたいしいてほしいし、さわりたいしさわってほしい。
 この島にたったふたりきりなんだから、距離をたもってたらいくら常春でも心が凍えてしまう。
 お腹の前で組んだ手を、ケイトはトントンと軽く叩く。
 そんなことしたってほどいてなんてやらない。

「離れて、小花ちゃん」
「やだ……」
「小花ちゃん……」

 困りきった声は罪悪感を刺激する。でも知らない。
 いつもは優しいのに時々妙に冷たくて。私の恋をばかなものだと決めつけて。なのに決定的に撥ねつけたりはしないで。
 期待させてはそれを砕く残酷なケイトなんて、もっと困ってしまえばいいと思う。
 眠気はいともたやすく私から自制心を奪い去る。
 好きでいるだけでいいなんて、嘘だって。わがままで身勝手な本心が顔を出す。

「さいきん、けいとすぐ目をそらす……さびしい……」

 後ろからなら、ケイトに目をそらされる心配はない。そもそも目が合ってないんだから。
 ケイトの体温を感じる。ケイトの鼓動を感じる。ケイトが息をして、ここに存在していることを感じる。
 それがどれだけ私を安心させるのか、どれだけ私の胸を熱くさせるのか、ケイトはきっと知らない。

「ほっとけーき、もっと見たい」

 最初に見たときからおいしそうだと思っていた。
 大好きなホットケーキの色。卵好きの私にとっての、しあわせの色。
 そう見えたのは、とてもあたたかくてやさしい色をしていたから。
 たまにひどいことも言うけど、ケイトの本質はその瞳にこそ表れている。少なくとも私にはそう見える。

「……なるほどね。俺の目の色が小花ちゃんにはホットケーキに見えるわけか。謎が解けたよ」
「なぞ?」
「なんでもない」
「おしえろ〜〜〜」

 ぎゅうううっと抱きつく力を強くして、背中にぐりぐりと頭をすりつける。
 なんだろう、なんか楽しくなってきた。
 自然と笑いがこぼれてくる。

「寝ぼけてるっていうより酔っぱらいみたいだね……」

 はぁ、とまたため息の音が聞こえたけど、そんなの気にしない。
 理性は眠気の前に完全降伏している。

「ねえねえけいと、こっち向いて」

 そう言いながらも、ケイトは振り返ってくれないだろうとわかっていた。
 だから私は彼の顔に腕を伸ばして、ぐいっと自力でこっちを向かせる。
 ホットケーキ色の瞳は、今はなんとも言いがたい複雑な色を浮かべていた。
 すぐにそらされた視線に、プッツンと来て。
 何かを考えるより早く、ケイトの頬にキスをしていた。

「――小花ちゃん」

 その声は、初めて聞くものだった。
 ゾワリと一瞬で鳥肌が立つ。
 脳内で危険信号が点滅して、反射的に私はケイトから離れようとした。
 でも、それを引き止めたのは、さっき離れろと言った張本人。

「わざと? 誘ってるの?」

 静かな声音に、妙な迫力があった。
 つかまれた腕に力が込められる。
 痛い、という苦情はきっと聞いてもらえない。そんな顔をしている。

「なら、期待に応えないといけないかな」

 ニヤリ、という笑みに気を取られた瞬間。
 足払いをされ、後ろに倒れこんだ私の上に、気づけば彼がのしかかっていた。
 衝撃は彼の手が吸収してくれたようで、少しの痛みもなく。
 私はあっというまにケイトに押し倒されていた。
 パッチリ、目が開く。眠気は一瞬で空の彼方まで飛んでいった。

 え。……え?
 えぇぇぇええええぇぇえええ!!?

「小花ちゃんは、たとえば俺が今ここで君を犯そうとしても、抵抗しないの?」

 私を見下ろすケイトの瞳に熱はなかった。ただ憤りだけがあった。
 それでいて、うっかり本当にヤッてしまいそうな危うさも見え隠れしていた。
 ゾクッと、背筋を走ったのはいったいなんなのか。
 初めて見る瞳の色が、こわくて、でもそれだけじゃない。
 驚きが去っても、バクバクと鳴る心臓は一向に落ち着きを取り戻さない。

「ケイトが、そうしたいならいいよ」

 緊張から震える声で、心のままに答える。
 好きな人に抱いてもらえるって、すごいしあわせなことなんじゃないだろうか。
 だって、女として見てもらえてるってことだ。異性として扱ってもらえるってことだ。
 3歳児扱いをされてたことを思えば、大進歩のような気がする。
 身体から始まる恋だって全然ありだと思うし。
 ……うん、でも。

「でも、好きになってもらえてないのに、身体だけ仲良くなっちゃうのは、悲しいかなぁ」

 へらり、と私は笑った。
 他にどんな顔をすればいいのかわからなかった。
 もし、ケイトに求められたなら、きっと私は拒まないだろう。
 そしてきっと、こっそり傷つくんだろう。
 理屈でどんなにごまかしたって、私が欲しいのは、ケイトの心なんだ。

「……ばかじゃないの」

 つぶやきと言うには激しくて、叫びと言うにはささやかな。
 重い響きを秘めた言葉が落とされる。
 卵の香りがバターに隠されるマドレーヌみたいに、確かに感じるのに読み取れない感情があった。

「おれは……」

 じいっと、真上にあるケイトの瞳を見つめる。
 そこに宿る色の変化を、ひとつも見落とさないように。

「俺は、君のことだけは好きにならないよ」

 そっかぁ、それはつらいなぁ。
 でも、なんでだろう。
 ケイトの瞳は、その真逆で。

 好きって、言っているように見えた。



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