ねむい。とてつもなくねむい。
生理痛はそんなに重くない代わりに、抗いがたい睡魔に襲われるのはいつもと変わらず。
今回は半月くらい遅れてたから、余計に眠気が強烈な気がする。
耐えきれなくてお昼寝させてもらったけど、覚めたはずの目はまたすぐに閉じようとする。
台所からは卵とバターが焼ける甘〜い匂い。マドレーヌらへんだろうと私の優秀な鼻が当たりをつける。
食べたい。食べたいけどねむい。ねむいけど食べたい。
匂いにつられて私はもぞもぞと身体を起こす。
でも、視界はぼんやりするし、ゆっくりにしか動けないし、なんだかまだ頭が働いてない感じがする。
のそりのそりとベッドから下りて、ゾンビみたいな足取りでケイトの背中に近づいていく。
「小花ちゃん? 起きたならお皿出してくれる?」
ケイトが何か言ってる。
それを低速回転中の脳が理解するより先に、私は広い背中に抱きついた。
「け〜い〜と〜」
きゅうっとケイトのお腹に腕を回す。おお、筋肉だ〜。
はぁ、と吐き出されたケイトのため息が、お腹から直に伝わる。
おいしそうな匂いに浮き立っていた心は、それだけでどんより沈んでいく。
「寝ぼけてるの? 近づかないでって言ったよね」
「う〜〜」
言われた。覚えてる。血の匂いがするからでしょ。
でも近づきたい。離れたくない。
好きだから、傍にいたいしいてほしいし、さわりたいしさわってほしい。
この島にたったふたりきりなんだから、距離をたもってたらいくら常春でも心が凍えてしまう。
お腹の前で組んだ手を、ケイトはトントンと軽く叩く。
そんなことしたってほどいてなんてやらない。
「離れて、小花ちゃん」
「やだ……」
「小花ちゃん……」
困りきった声は罪悪感を刺激する。でも知らない。
いつもは優しいのに時々妙に冷たくて。私の恋をばかなものだと決めつけて。なのに決定的に撥ねつけたりはしないで。
期待させてはそれを砕く残酷なケイトなんて、もっと困ってしまえばいいと思う。
眠気はいともたやすく私から自制心を奪い去る。
好きでいるだけでいいなんて、嘘だって。わがままで身勝手な本心が顔を出す。
「さいきん、けいとすぐ目をそらす……さびしい……」
後ろからなら、ケイトに目をそらされる心配はない。そもそも目が合ってないんだから。
ケイトの体温を感じる。ケイトの鼓動を感じる。ケイトが息をして、ここに存在していることを感じる。
それがどれだけ私を安心させるのか、どれだけ私の胸を熱くさせるのか、ケイトはきっと知らない。
「ほっとけーき、もっと見たい」
最初に見たときからおいしそうだと思っていた。
大好きなホットケーキの色。卵好きの私にとっての、しあわせの色。
そう見えたのは、とてもあたたかくてやさしい色をしていたから。
たまにひどいことも言うけど、ケイトの本質はその瞳にこそ表れている。少なくとも私にはそう見える。
「……なるほどね。俺の目の色が小花ちゃんにはホットケーキに見えるわけか。謎が解けたよ」
「なぞ?」
「なんでもない」
「おしえろ〜〜〜」
ぎゅうううっと抱きつく力を強くして、背中にぐりぐりと頭をすりつける。
なんだろう、なんか楽しくなってきた。
自然と笑いがこぼれてくる。
「寝ぼけてるっていうより酔っぱらいみたいだね……」
はぁ、とまたため息の音が聞こえたけど、そんなの気にしない。
理性は眠気の前に完全降伏している。
「ねえねえけいと、こっち向いて」
そう言いながらも、ケイトは振り返ってくれないだろうとわかっていた。
だから私は彼の顔に腕を伸ばして、ぐいっと自力でこっちを向かせる。
ホットケーキ色の瞳は、今はなんとも言いがたい複雑な色を浮かべていた。
すぐにそらされた視線に、プッツンと来て。
何かを考えるより早く、ケイトの頬にキスをしていた。
「――小花ちゃん」
その声は、初めて聞くものだった。
ゾワリと一瞬で鳥肌が立つ。
脳内で危険信号が点滅して、反射的に私はケイトから離れようとした。
でも、それを引き止めたのは、さっき離れろと言った張本人。
「わざと? 誘ってるの?」
静かな声音に、妙な迫力があった。
つかまれた腕に力が込められる。
痛い、という苦情はきっと聞いてもらえない。そんな顔をしている。
「なら、期待に応えないといけないかな」
ニヤリ、という笑みに気を取られた瞬間。
足払いをされ、後ろに倒れこんだ私の上に、気づけば彼がのしかかっていた。
衝撃は彼の手が吸収してくれたようで、少しの痛みもなく。
私はあっというまにケイトに押し倒されていた。
パッチリ、目が開く。眠気は一瞬で空の彼方まで飛んでいった。
え。……え?
えぇぇぇええええぇぇえええ!!?
「小花ちゃんは、たとえば俺が今ここで君を犯そうとしても、抵抗しないの?」
私を見下ろすケイトの瞳に熱はなかった。ただ憤りだけがあった。
それでいて、うっかり本当にヤッてしまいそうな危うさも見え隠れしていた。
ゾクッと、背筋を走ったのはいったいなんなのか。
初めて見る瞳の色が、こわくて、でもそれだけじゃない。
驚きが去っても、バクバクと鳴る心臓は一向に落ち着きを取り戻さない。
「ケイトが、そうしたいならいいよ」
緊張から震える声で、心のままに答える。
好きな人に抱いてもらえるって、すごいしあわせなことなんじゃないだろうか。
だって、女として見てもらえてるってことだ。異性として扱ってもらえるってことだ。
3歳児扱いをされてたことを思えば、大進歩のような気がする。
身体から始まる恋だって全然ありだと思うし。
……うん、でも。
「でも、好きになってもらえてないのに、身体だけ仲良くなっちゃうのは、悲しいかなぁ」
へらり、と私は笑った。
他にどんな顔をすればいいのかわからなかった。
もし、ケイトに求められたなら、きっと私は拒まないだろう。
そしてきっと、こっそり傷つくんだろう。
理屈でどんなにごまかしたって、私が欲しいのは、ケイトの心なんだ。
「……ばかじゃないの」
つぶやきと言うには激しくて、叫びと言うにはささやかな。
重い響きを秘めた言葉が落とされる。
卵の香りがバターに隠されるマドレーヌみたいに、確かに感じるのに読み取れない感情があった。
「おれは……」
じいっと、真上にあるケイトの瞳を見つめる。
そこに宿る色の変化を、ひとつも見落とさないように。
「俺は、君のことだけは好きにならないよ」
そっかぁ、それはつらいなぁ。
でも、なんでだろう。
ケイトの瞳は、その真逆で。
好きって、言っているように見えた。