ここに来て一ヶ月以上たったけど、静かすぎる夜にはいまだに慣れない。
草木が寝静まる時間、って実際何時頃を指してるんだろう。
今がそれに該当するのか、ぼんやり考えてみても動きの遅い頭では答えが出るはずもなく。まあそもそも厳密な時間を知るすべもなかったりして。
とにかく今は深夜で。草木はわからないけどいつもの私はぐっすり寝てる時間で。
今日に限って目が覚めちゃった理由はわからないけど、もう一度寝直す気にならない理由は、目の前にある。
「ケイト……?」
隣のベッドは、もぬけの殻。
ケイトが、いない。
「……おーい」
風の音すらしない、しんと静まり返った室内で、大声を出す勇気はない。
息みたいな声で呼んでみても、返事がないのは聞こえてないからなのか、家にいないからなのか。
もう一度、隣のベッドに目を向けても、人が寝ていた形跡すら残っていない。
思わず縋るように、首から下げた巾着をぎゅっと握った。
毎日毎日、隣のベッドにいるケイトを感じながら眠りについた。
恋心を自覚してすぐは、ドキドキしすぎてなかなか寝つけなかったりもした。
少しの距離をあけて仲良く並べられたベッド。
おやすみ、と言えば隣のベッドからおやすみって返ってくるのが当たり前で。今日もそうして眠りについたはずなのに。
いったい、ケイトはどこに行ったんだろう?
台所、お風呂、トイレ、ゴミ箱。家の中で隠れられそうなところは全部調べた。
それでも見つからないってことは、外、しかありえない。
電灯の立ち並ぶ現代社会ならまだしも、深夜の森なんて怖くないわけがない。映画のCMで悲鳴を上げるくらいにはホラー耐性は低い。
でも、このままで眠れるような気も、全然しない。
気にしなければいいのかもしれない。ケイトなんて放っておいて、布団にもぐり込めば、意外と普通に眠気はやってくるのかもしれない。
なのに、私の足は自然と出入り口に向かっていた。
パジャマ姿だっていう逡巡は一瞬だけ。木製の扉を開け放つ。
星が、降り注いでいるみたいだった。
星明かりに照らされたその人は、玄関から少し離れた、畑の隅っこに座り込んでいた。
足をおっ広げて、片手を斜め後ろについて、空を仰いで。
もう片方の手には何か飲み物を持っている。
「やあ、小花ちゃん。君も星を見に来たの?」
ゆっくりと振り返ったケイトは、いつもどおりすぎる笑みを浮かべていた。
今が深夜だなんて信じられないくらい、昼間の彼と同じ顔。
「ケイトが、いなかったから」
「心配しなくても、もうそろそろ戻るつもりだったよ」
そう言いつつもケイトは腰を上げようとはしない。
もうそろそろってどのくらいのそろそろ? 少なくとも今すぐに私と部屋に戻るつもりはなさそうだ。
ひとりで戻る気にはなれなかった私は、ケイトの傍まで近づいていって、すぐ隣に腰を下ろした。
手は少し伸ばすだけで届くけど、肩が触れ合うことはない距離。
今の私に、許された距離。
かすかに鼻孔をかすめた匂いに、私は隣に、正確には彼が持っているグラスに視線を向ける。
「……それ、お酒?」
風にかき消される程度のアルコール臭。
はちみつ色のそれは、果実酒か何かだろうか。
めずらしいこともあったもんだ。めずらしいというか、ケイトがお酒を飲んでるところを見るのはこれが初めて。
カランッとグラスの中で氷同士がぶつかって音を立てた。
「そう。小花ちゃんも飲む?」
「私、未成年だよ」
「異世界でもそういうの気にするんだ。意外と真面目だね」
「真面目っていうか……それが当たり前だったから」
「小花ちゃんらしい」
何がおかしいのか、ケイトはくすくすと笑う。
お酒が入ると笑い上戸になるんだろうか。いやでもケイトはわりといつでも笑ってる気もする。久々に笑ったって最初のときに言ってたのは、きっとただの冗談だったんだろう。
酔うと普段は抑圧されてるものが開放されるって言うけど、いつもより笑いのツボが浅くなってるくらいなら、害がなくていいことだ。
「卵酒とか好きそうなんだけどね」
「あれってけっこう度数高いんじゃなかったっけ」
「アルコール飛ばすこともできるよ。子ども用に牛乳入れるレシピもある」
「へぇ、ミルクセーキみたいなもの?」
「ああ、そんな感じかも」
話しながらケイトが腕をひと振りすると、ぽんぽんっと空中に現れる、卵液、牛乳、砂糖にコップ。
卵液と牛乳がコップの中に注がれ、砂糖が入れられ、コップの中身がミキサーみたいに高速回転する。
ケイト自身は指を一本も動かすことなく、10秒くらいでミルクセーキができてしまった。
宙に浮かぶそれを手に取ったケイトは、はい、と私に手渡してくれた。
「小花ちゃんだけ手持ち無沙汰でしょ。お酒じゃないけど、一杯付き合ってよ」
「ありがとう……」
受け取ったミルクセーキは、人肌よりあったかいくらい。あまい。
毎日だって飲みたいくらい優しい味をしていた。
でも、本当に優しいのは、ミルクセーキではなくて。
ちびちび飲みながら、じぃっと隣を見つめていると、ケイトは困ったように笑った。
「俺じゃなくて星見なよ。そんなに見られると穴が開きそうなんだけど」
恥じらってるわけじゃないだろうけど、ケイトは私から少し視線をそらした。
そんなこと言われたって、私は星を見に来たわけじゃない。ケイトを探しに来たんだ。
空に敷き詰められた宝石よりも、星と共鳴するように輝く紋様よりも、星明かりに浮かび上がるケイトの表情を見逃さずにいたい。
穴が開くなら開いてしまえと思う。そうしたらケイトだって少しは思い知るだろう。
私がどれだけの強さで、ケイトを想っているのかってことを。
「ケイトを見てたい」
宵闇の中、今は黒にも見えるケイトの瞳を覗き込みながら、はっきりと告げる。
いつもどおりの微笑み。少しのほころびも感じさせない平常運転のケイト。
それは私をほっとさせてくれるものだったはずなのに、悔しくて仕方がない。
だって、夜にふらりと星を仰ぎたくなるくらいには、いつもとは違う何かがあるはずなのに。
ケイトはそれを、私に見せようとはしてくれないんだ。
手の届かない夜空の星に恋い焦がれるようで、くるしい。
星の住処の宇宙では、人は息ができない。
「帰りたくないの?」
その問いは私を非難するものだった。
自分の世界に、家族も、友人も、大切なものを残してきているはずなのに。
ケイトに恋をして、好意を示して、想いを返してほしいと願うことは、きっとおかしいことなんだろう。
いつか帰るのかもしれない私が、この世界で大切なものを作るのは、どっちにとってもつらい結果を引き起こすだけの愚かしい行為だってわかってる。
なのに、心は嘘をつけない。
少しも躊躇することなく、一直線に向かっていく。
「わかんない。ただ好きなの」
ケイトのことが、好き。すき。だいすき。
私にわかるのはその気持ちだけ。
元の世界に帰らなきゃいけないのに、とか、いつか離ればなれになるのに、とか。
そんなこと考えられるだけの余白なんてない。
日を増すごとに、ケイトのことで頭がいっぱいになっていく。
まるで私がまるまる作り変えられていくみたいに。
「小花ちゃんは……」
カチリと、合わさる視線。
いつも柔和な光をたたえる瞳は、夜だからか、冷たく、鋭く。
それでいて、どこか弱々しく。
「透明すぎて、困る」
「……透明?」
言うだけ言って、ケイトはすぐに視線をそらしてしまった。
たった数秒。ケイトは私の瞳の中に何を見たんだろう。
きっとケイトが作ってくれたミルクセーキのように、あたたかくて、あまい、あますぎる想いが存在していたはず。
ケイトの言葉の意味はまったくもってわからないけれど。
少しでも私の気持ちが伝わっているなら、それでいいと思った。