翌日、いつもどおり仕事をしていると、ミルトが書類を追加しに来た。
机の上に書類を重ねて置いた彼は、俺の顔を見て目を瞬かせた。
「隊長、具合でも悪いんですか?」
「……いや」
顔に出てしまっているんだろうか、と眉をしかめながら否定する。
ただ睡眠を取っていないだけだ。一日くらいは寝なくとも体調は問題ない。
たしかに、万全とは言いがたいかもしれないが。
「ああ、というよりも、眠そうですね。昨夜はお楽しみだったとか?」
ニヤリ、と人を食ったような笑みでミルトは聞いてきた。
「……ミルト」
「はいはい、すみません。冗談ですってば」
書類から顔を上げて睨みつければ、ミルトは両の手のひらを俺に向けて振った。
彼の冗談は冗談ではすませられないものも多い。
仮にも直属の上司なのだから、もう少し敬ってほしいものなのだけれど。
今さらそれを言ったところで、聞くような奴でもないだろう。
「ってことはせっかくの据え膳をいただかなかったわけですか。さすが隊長」
感心するような響きを持ったその言葉に、俺は身体を硬直させた。
どうやら昨日のことはすでに知られているらしい。
いったいどこまでだろうか。彼女が部屋に来たことだけ? それとも一緒に寝たことも? まさか俺の感じたことまで……。
人の心の中が覗けないのはわかりきっていることだ。けれど、動揺したために思考がおかしな方向に向かってしまっていた。
「知らないわけがないでしょ。あの子に隠密行動ができるわけないんですから」
呆れたようにミルトは言う。
考えてみれば当然だ。あの時間、俺の部屋に来るまでに見回りに出くわさないわけがない。ミルトはその報告を受け取ったらしい。
俺の部屋に来たという情報だけで、ミルトはだいたいのことを推測できてしまったんだろう。サクラの存在を一日でつかんだ彼なのだから。
つくづく、こいつに隠し事はできないと本気で思う。
多少の後ろ暗さを感じている俺にとっては、面倒なことだ。
「別に、わざわざ吹聴したりはしませんよ。ま、もう手遅れかもしれませんが」
ミルトの指摘は的確だ。俺は思わず舌打ちしたくなった。
昨日サクラと出くわした見回りが、口の軽い奴だったらどうしようもない。
すでに流れている愛人という噂を裏づけることになってしまうだろう。
そう、愛人。
サクラは俺の愛人だという噂が、砦ではまことしやかにささやかれている。
どこからそんな噂が出てきたのか、考えるまでもない。
俺は目の前の男を睨みつける。
「噂を流したのはお前だな」
視線の先の青年は、感情の読めない笑みを浮かべた。
それは俺の言葉を肯定しているに他ならない。
たった数日で噂を蔓延させることなど、こいつにとっては造作もないことだろう。
もしかしたら、数日前に砦に戻ってきたレットの力をも借りたのかもしれない。
「ご名答。隊長ならその理由もおわかりかと思いますが」
人を試すような言いように、俺は眉をひそめる。
単純に、サクラを守るため……ではないのだろう。ミルトのことだから。
サクラは精霊の客人だ。万一損なわれるようなことがあれば、気を悪くした精霊による被害は避けられない。
だからといって、荒くれ者の軍人に、彼女には手を出すな、と言ったところで素直に聞くはずもない。
俺の名前を使うことによって、面倒事が起きないようにと仕組んだんだろう。
それと、もう一つ。
きっとミルトは、一挙両得を狙っている。
俺の名前を出しても、サクラに危害を加えようという者がいたとしたら。
それは、俺に従うつもりがないということでもある。
サクラの存在を踏み絵代わりにして、隊員の心のありようを計っているのではないか。
この予想はきっと外れてはいないだろう。
「勝手なことをするな」
「そうは言われましてもね。精霊の客人を野放しにするわけにもいきませんって。彼女自身が面倒を起こしそうな性格してるのに」
それは否定できない、とつい思ってしまった。
サクラの正直さや危なっかしさは、時に事件を引き起こすだろう。
予想というよりも、経験から来る確信に近かった。
「ってことで、オレとしては隊長に見張っといてもらえるのは大助かりなんで。さっさと手でもなんでも出しちゃったらどうですか? どうせ初めてじゃないんでしょ?」
「っ! なぜそれを……」
「あ、やっぱり? もしかしてとは思ってたんですよね〜」
ミルトのしてやったりな笑みを見て、カマをかけられた、ということに気がついた。
いつも笑顔を崩さないミルトが、このときばかりは憎らしく思える。
なぜ勘づかれたのかはわからない。けれど、男女が同じ部屋で一週間以上も過ごしていれば、そういった邪推をしないほうがおかしいとも言えるかもしれない。
厄介な奴にバレてしまった、と俺は頭を抱えたくなった。
「……他に用がないなら仕事に戻れ」
結局、俺はそう言うことしかできなかった。
口でミルトに敵わないことは、彼が部下になる前からわかっていたことだ。
今さらそれを悔しいとは思わない。
「はいはい、怖いなぁ」
失礼しましたー、と間延びした挨拶を残して、ミルトは退室していった。
最後までニヤニヤと笑っていたミルトは、どう見ても怖がっているようには思えなかった。
俺のことを怖がらないサクラを思い出してしまって、つい顔が険しくなる。
彼女は怖がるどころか、俺の腕の中で安心しきって寝てしまうほどに、俺のことを信頼している。
据え膳をいただくも何も。
「手を、出せるわけがないだろう……」
サクラは、精霊の客人だ。
本来、国に保護されるべき人間だ。
もし彼女が王都で暮らすことになるのだとすれば、会う機会もなくなるだろう。
責任をとるつもりもなく、一時の欲で、身体の関係を持っていいわけがない。
彼女のために、安全で、安心できる居場所を提供する義務が、俺にはある。
その俺が、彼女にとって危険な存在になってはいけないのだ。
それから数日後のこと。
俺の苦悩など何も知らないサクラは、今日も脳天気に俺の部屋を訪ねてきた。
その手に自作のブラウニーを持って。
料理上手というのは、正直意外だった。そんな女性らしい特技があったとは。
試しにと一つ食べてみれば、かなりおいしい。
味にこだわりがないせいかもしれないが、砦の料理人の作った菓子と違いがわからなかった。
「うまいな」
「よかったぁ、隊長さんの口に合わなかったらどうしようかと思いました」
俺の感想に、サクラはふにゃりとうれしそうな笑みを浮かべた。
少し照れくさそうなその表情に、俺の中の何かが反応するのがわかった。
それをごまかすように、俺はブラウニーを口に入れる。
食べやすい甘さのブラウニーが、若干糖度を増したように思えた。
「隊長さんにはすごくお世話になってますし、何かお礼ができたらなって思いまして。日頃の感謝を込めて、作ったんです」
にこにこ、と警戒心なんてまるでない笑顔を向けてくる。
“お世話”の中にはきっと、数日前の嵐の夜のことも含まれているんだろう。
あの夜、サクラを抱き寄せながら俺が何を考えていたのかなんて、知りもしないで。
無防備な表情に、無意識に力の入っていた肩から力が抜ける。
信頼されているなら、それに応えなければならない。
あの時感じた欲は、ただの気の迷いだ。
そういうことにしておかないと、きっと困ったことになる。
精霊の客人の保護は、義務でもある。もちろん、最初の夜のことが負い目になっているということもある。
だから気にするなと言っても、サクラは俺に礼を告げた。
本当は、この砦で働く必要だってないというのに。
感謝を忘れない心も、労働を厭わない精神も、尊いもののように思える。
お前は変わっているな、と感じたままを言葉にした。
きっと今の俺は穏やかな表情をしている。
「お前も食べるか?」
そう言って、俺はブラウニーを袋から取り出して、サクラに手渡そうとする。
が、何を思ったのか、サクラは手ずからそれを口にした。
指先に触れた唇のやわらかさに、俺の中にひそんでいた欲がうずいた。
「……お前な」
思わずこぼれた言葉の続きは、ため息となって宙に消えていった。
サクラは心底不思議そうな顔をしている。
自分が今何をしたのか、わかっていないんだろう。
計算しているわけではないのだと理解している。だからこそたちが悪いとも思う。
触れたい、と。
顔を覗かせた衝動が、俺の心を支配していく。
あの夜に感じたものと同じ、彼女への欲。
やっぱり、忘れられるわけがなかった。なかったことにはできなかった。
ごめんなさい、と何もわかっていないくせに謝るサクラ。
じんわりと、思考が熱に侵されていく。
さらされている首や二の腕、足の白さに目がくらみそうだ。
俺の全身が彼女に反応する。
触れたい、とそれだけしか考えられなくなった。
手を伸ばして、その赤く熟れた唇へと触れた。
驚愕に目を丸くするサクラを見つめる。
子どものように無邪気な色をした黒い瞳に、男の顔をした俺が映っている。
親指の腹で、ゆっくりと彼女の唇をなぞる。
かたい指の皮が、薄紅色の唇を傷つけてしまわないか心配になるほどに、やわらかかった。
このまま、口づけてしまいたい。
彼女の呼吸すらも飲み込んで、深くつながりたい。
そんな欲求を、理性が必死に抑え込む。
サクラは精霊の客人だ。俺にとって守るべき存在だ。
彼女の信頼を裏切るわけにはいかないんだ。
劣情をなんとか振り払い、口の端についていた食べかすを取って、手を離した。
「あとは、お前が食べろ」
そう言って残りのブラウニーの入った袋をサクラに押しつける。
「え? でもこれ、隊長さんのために作ったんですけど」
「……今はもう、甘いものはいい」
困ったような顔をするサクラから視線をそらす。
我ながら、はっきりしない物言いになってしまった。
口内に残るチョコの甘みが、じわじわと心まで侵食していくような気がした。
ブラウニーよりも、欲しいものがある。けれどそれは求めてはいけないものだ。
これ以上、甘いものはいらない。
「……もう、充分だ」
息苦しさにあえぐように、ため息混じりにこぼした。
口の中ではなく、胸中に広がっていくこの甘ったるいものは、なんなのだろうか。
突き止めたいような、突き止めるのが怖いような。
あいまいな気持ちを持て余してしまう。
触れたいと、そう思うのは、本当にただの男としての欲でしかないのか。
そうでないというなら、それは……。
答えが出る前に、俺は考えるのを放棄した。
これ以上はいけない、という気がした。
忘れなければいけない。この欲も、この疑問も。
けれど、俺はすでに知ってしまっている。彼女の肌のぬくもりを。
どうしても、忘れることができずにいる。
サクラは、間違いなく、甘い。