グレイスの回想16 −やり直し−

 目が覚めたとき、まず感じたのは、腕に抱いたぬくもりの心地よさ。
 視線を下ろしてみれば、そこには健やかに寝息を立てるサクラ。
 あれだけ彼女を追い立てた俺の腕の中で、安心しきったように寝ているというのは、大物というかなんというか。
 そっとサクラの頬をなでると、んにゃ、と変な声をもらした。
 警笛が鳴ろうと起きなさそうな、気の抜けた顔のサクラに、俺は忍び笑いをこぼす。
 じんわりと心のうちに広がっていくものは、しあわせだとかそういったたぐいのものだろう。

 まだ仕事が始まるまでには時間がある。
 いつもはもっと早くに起きて、見回りついでに砦の周囲を走り込んでいるけれど。
 今日くらいは、ゆっくりしていてもいいだろう。
 こんな穏やかで、清々しい朝を迎えられたのだから。
 もう少しだけ、愛しい少女のぬくもりを感じながら寝ていたかった。

 隣に、というよりも腕の中に人がいる状態でこれだけぐっすりと眠れたのは、初めてのことかもしれない。
 どれほどに自分がサクラに心を許しているか、思い知らされたようで少々気恥ずかしい。
 サクラがこの世界にやってきてそろそろ二ヶ月。けれどもっと昔から、彼女は自分の傍にいたかのような、そんな気がしてくる。
 それだけ彼女と共にあることが自然だということだろう。

「愛してる」

 俺は寝ているサクラの耳元でささやいた。
 サクラが起きているときには、言えなかった言葉。
 まだ、伝えることはできない。
 今にも暴れまわりそうな恋情を押しとどめておくためにも。
 もっと、サクラが隣にいることが当たり前になったら。
 そうしたら、きちんと告げることができるかもしれない。

 それから少しして、サクラは目を覚ました。
 初めは俺が起きていることに気づいていない様子で、ぺたぺたと俺の胸に触れたり、ため息をついたり。
 何かに気づいたように顔を上げたとき、バチリと目が合い、ぎこちなく朝の挨拶を口にした。
 恥じらいの表情を浮かべるサクラは、まるで普通の少女のように見えて。
 めずらしいと思ってそれを指摘すると、サクラはいきなり布団を奪って俺から距離を取った。

「そりゃ、照れもしますよ! 私のことなんだと思ってるんですか!」
「つつしみのない奴だと」
「た、隊長さん、ひどい……」

 その言葉に俺はピクリと反応する。
 まったく、ひどいのはどちらだ。

「名前で呼べと言っただろう」

 あいていた距離をつめ、サクラの頬に触れる。
 すべらかな頬は、今は少し赤くなっていて、熱を持っていた。
 サクラは戸惑うように視線をさまよわせてから、うるんだ闇色の瞳に俺を映した。

「ぐ、グレイスさん?」

 ぐらり、と。
 理性が揺らぐ音がしたような気がした。
 裏返った声すらも狙っているのかと言いたくなるほどに愛らしい。
 なんだこのかわいい生物は。本当にお前はあのサクラか。
 いや、サクラでなければこれほどにかわいいと思うこともないのだけれど、いつもと違う恥じらう彼女は、正直破壊力がありすぎる。

「や、やっぱり照れます……さんづけとかなんか新婚さんチックじゃないですか」

 サクラはぶつぶつと言いながら布団で顔の下半分を隠してしまった。

「それもいいな。嫁に来るか?」

 ふと口をついて出てきた言葉は、そのまま俺の願いなのだと言ってから気づいた。
 サクラとずっと共にありたい。サクラの一生が欲しい。
 それは、間違いなく結婚願望そのものだ。
 奇声を発したサクラは、きっとあまり本気には取っていないのだろうけれど。
 サクラを、この世界につなぎ止める枷となってくれるなら。
 結婚という手段は理想的なように思えた。
 とはいえ、今すぐどうこうすることは現実的に不可能だ。サクラは精霊の客人なのだから。
 サクラが俺に、この世界に慣れてくれるように、時間を置く必要もあるだろうし。
 この望みはしばらくは胸のうちに秘めておこう。

 結局、サクラは俺を名前で呼ぶことはできないようだった。
 少しずつ慣れていく、と言っていたけれど、いつになることやら。
 あまり期待はしないほうがよさそうだ。
 サクラが俺に愛想を尽かさないかぎり、時間はいくらでもある。
 ゆっくり進んでいくのも、サクラと一緒になら楽しい行程となるだろう。

「隊長さんは照れたりしないんですね」

 サクラは悔しそうに唇を尖らせる。
 どうやらいつもと立場が逆なのが気に食わないらしい。

「いつもお前にしてやられていては困るからな」

 ラブレターのことまで持ち出してきたサクラに、俺はそう言ってから、機嫌を取るように額に口づけを落とした。
 正直、余裕なんてどこにもない。
 動揺が顔に出にくいだけで、さっきから何度もサクラに心を乱されている。
 それでも男としてのプライドもあるために、素直にそれを認めることはできない。
 十も下の少女にいつも手玉に取られているようでは、情けなさすぎる。

「私、負けませんよ! 好きになったのは私のほうが先なんですから」
「勝負ではないだろう。それに、それを言うなら俺のほうが先だ」
「え、いつからですか?」

 サクラの問いに、俺の脳裏をいくつかの記憶がよぎった。
 自分の想いに気づいたのは、サクラが酔っ払ったあの夜だけれど。
 もっとずっと前から、彼女のことを好きになっていた。
 きっと、家族が欲しいとこぼしたサクラとの未来を想像してしまった時には、すでに。
 俺はサクラに落ちてしまっていたんだろう。

「……。そろそろ起きるか」
「あ、ごまかした!」

 正直に答えるわけにもいかない俺は、素早く起き上がって話をそらす。
 当然サクラは不満そうだけれど、気にしないことにした。

「サクラ」

 ベッドから下りたところで、彼女を振り返る。
 ピクッと肩を揺らしたサクラに手を伸ばして、やわらかな頬に触れる。
 指を顎まで滑らせて、そのままくいと持ち上げ、かすめるようなキスをした。
 夜よりも暗い闇の色の瞳を覗き込めば、そこには雄の顔をした自分が映っていた。

「もう放しはしないからな。覚悟しておけ」

 最終宣告のように、俺ははっきりと告げた。
 もう放さない。放せない。逃げるつもりはないし、逃がすつもりもない。
 サクラは俺のものだ。
 故郷である異世界にだって、返してやるつもりはない。
 俺をあおりにあおって本気にさせたのはサクラなのだから、最後まで責任を取ってもらわなければ。

「望むところです!」

 迎え撃つように力強く返事をしたサクラが、どこまでわかっているのかは知らないが。
 本人が言うなら遠慮はいらないだろう、と俺は心中で笑みを深めた。


  * * * *


 これまでのことを思い返せば、いつもサクラに負けてばかりの自分しかいなかった。
 情けなさについたため息は深いものとなった。
 どうしてサクラでなければいけないんだろうか、と考えたところで、きっと答えは出ない。
 わかっているのは、どうしようもないほどにサクラにおぼれているということ。
 そして、これからもきっと、彼女に敵う日は来ないのだろうということだ。

 あまりにもサクラが哀れな声を出すものだから、俺は仕方なく部屋に入った。
 服を着ろと言ってもサクラは頑として聞かなかった。
 しばらく馬鹿らしい言い合いをして、結局お互いが妥協することにした。
 バスタオル姿の上に、俺のシャツをはおる。
 これはこれで色々とまずい気もするけれど、とりあえずむき出しだった肩やら二の腕やらを隠せただけ、マシだと思うことにした。

「それで、どうしてバスタオル姿だったんだ」

 遅い食事を取りながら、俺は傍らに立つサクラに尋ねる。
 ちなみにサクラはすでに食堂で食べてきたらしい。
 恋人になってからは一緒に俺の部屋で夕食や朝食を食べるようにもなったが、毎回必ずというわけでもない。

「よくぞ聞いてくれました! これには海よりも深く山よりも高い理由がありまして」
「簡潔に言え」

 話が長くなりそうな気配を感じた俺は、先手を打った。

「どうぞ召し上がれってことです!」

 サクラは両手を広げて笑顔でそう言った。
 思わず食べる手を止めてしまった。
 召し上がれ、が今食べている食事のことではないことは、サクラの性格を考えればわかることだ。
 つまりサクラは、俺を誘惑するつもりでバスタオル一枚の姿でいたらしい。
 たしかに、彼女の差し出すものは俺にとって、夕食よりも魅力的なごちそうではあるけれど。
 ……こうもはっきり言われてしまうと、反応に困る。

「あ、やめてくださいその残念な子を見るような目。だから言ったじゃないですか。ちゃんと理由があってのことなんですよ!」
「どんな理由だ」

 食事を再開しつつ、俺は話を聞くことにした。
 多少長くなったとしても、必要な説明をすっ飛ばして召し上がれと言われるよりはいい。

「あのですね、隊長さん、私がこの世界に来た最初の夜のことを今でも気にしてるでしょう?」

 唐突に過去の愚行を蒸し返されて、俺は顔をしかめる。
 あの夜のことは思い出したくもない記憶だ。
 けれど同時に、決して忘れてはならない記憶でもあった。

「……気にしていないと言うと、嘘になるな」

 少し迷って、正直に答えることにした。
 被害者であるサクラはまったく気にしていないようだけれど、俺が無理強いしたことは変えられない事実だ。
 本当なら罪を償うべきなのかもしれないが、サクラがそれを望まない。
 何度謝ったところで気が軽くなるわけもなく、許してくれるとわかっていて謝るのも何かが違う。
 結局、昇華されない罪悪感と後悔の念だけが胸のうちにくすぶっている。

「でしょ? だから私も考えたわけです。少しでも隊長さんの気が楽になるようにって」

 そんなことを考えていたのか、と俺は驚いた。
 そもそも、俺が今もあの夜のことを引きずっていると、サクラが気づいていたことにも驚きだ。
 意外とサクラは俺のことを見てくれているらしい。そして、理解してくれているらしい。
 うれしいような、気恥ずかしいようなむずがゆさを覚える。

「あの日の夜をやり直しましょうよ、隊長さん」

 包み込むような優しい微笑みで、サクラは言った。
 それは、いつもの無邪気な子どもっぽい笑みとは違う、どこか大人びた表情だった。

「……どう、やり直せばいいんだ」

 もう、飯を食べながら話を聞くのはあきらめた。
 今はサクラの相手をするべきだ。きっと、そのほうが俺にとってもいいだろう。そんな気がした。
 俺の言葉に、サクラは俺のすぐ横にまで近寄ってきた。
 椅子に座っている俺を見下ろして、小さな両手で俺の手を取り、にぱっと朗らかな笑みをこぼした。

「初めまして、水上桜です! 早速ですが隊長さん、大好きです。抱いてください」

 直球すぎる、誘いの言葉。
 自己紹介のすぐあとにそれはないだろう。
 『早速ですが』は、関連性のない前後の発言をむりやりつなげるための言葉ではない。
 突っ込みどころは大量にあったが、俺は思わず笑ってしまった。
 彼女らしい、と思ってしまったから。
 いつもいつも、彼女は言葉を、自分を飾ることを知らない。
 そんなところすらかわいく、愛おしく思えてしまうのだから、俺は相当サクラに毒されているんだろう。

「めちゃくちゃだな」
「嫌、ですか?」

 サクラは不安そうな色を瞳に浮かべる。
 めちゃくちゃではあるが、サクラなりに俺のことを考えての発言ではあるんだろう。
 俺の罪悪感を減らすために、どうすればいいのか。
 考えて考えて出た答えがこれだというなら。
 乗らないというのも、野暮というものか。

「グレイス・キィ・タイラルドだ。俺のものになってくれるか?」

 俺は立ち上がって、サクラを見下ろしながら告げた。
 告白というには即物的で、欲深い、俺の望みを。
 まるでプロポーズのようだ、と俺は思った。
 きっとサクラは、そんなことには気づかないのだろうけど。

「はい!」

 晴れやかな笑顔でサクラは元気に返事をした。
 罪悪感が減るのかどうかは、あとになってみなければわからないが。
 まあ、こういうのも悪くない、と俺は思った。


 食べ途中で放置された夕食を思い出すのは、きっと、好物によって腹が満たされてからのことだろう。



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