グレイスの回想15 −幸福な夜−

 はぁ、と息を吐いて、俺はペンを置いた。
 その横ではミルトが書類の枚数を数えている。
 枚数が間違っていなければ、今日の仕事は終わりだ。
 ミルトの手元をぼんやりと眺めていると、数え終わったらしい彼はニッコリと笑った。

「お疲れさまです。いつもより遅くなっちゃいましたね」

 どうやら枚数は合っていたらしい。
 もう一度俺はため息をついた。

「付き合わせて悪かった」

 書類を種類別に分けているミルトを見上げ、俺は謝る。
 隊員の報告が間違っていたと、今日の夕刻に十一師団から指摘があった。
 それは単純な数え間違いだったけれど、すでに上に提出する書類は書いてしまったあとだった。
 当然、すべて書き直し。もちろん通常の仕事だってあるのだから、いつもよりも遅くまで残って終わらせるしかない。
 時間のムダを省くため、いつもなら部屋で取る食事も執務室で食べた。
 寝る時間まで削らずにすんだことは、喜ぶべきかもしれない。

「いえいえお気になさらず。これもオレの仕事ですから。本音を言えばかなり面倒でしたけど、まあ明日以降が楽になると思えば」

 ミルトは相も変わらず憎まれ口を叩くが、彼がいなければ今日中には終わらなかっただろうとわかっているから何も言えない。
 書類仕事では俺の何倍も使える。本人もそれを自覚しているから、こうしていざというときは補佐に回ってくれる。
 つくづく、優秀な奴だと思う。

「書類はオレが持っていくので、お先にどうぞ。愛しの彼女が待っているかもしれませんしね」

 こうして、からかうようなことがなければ、文句のつけどころはないというのに。
 人を食ったような笑みを見せるミルトを睨みつければ、彼は肩をすくめた。

「わー怖い怖い。照れ隠しに睨むのやめてくれません?」
「そんなんじゃない」

 照れているわけじゃない。
 ことあるごとに揶揄してくるミルトに呆れと怒りを感じているだけだ。
 愛しの彼女、というのも間違っている。
 愛しく思っていることはたしかだけれど、両思いではない状態でそう呼ぶのは違和感がある。

「まずは始めてみるっていうのも、ありだとオレは思うんですけどね」

 俺の心中を正確に読み取ったのか、ミルトは苦笑しながらそんなことを言う。
 サクラの気持ちを信じることができず、一歩を踏み出せずにいる俺。
 俺の気持ちなんてお見通しだろうミルトからしてみれば、もどかしく思えるのかもしれない。

「まずは……か」

 俺は小さくつぶやく。
 本人が好きだと言っているのだから、告白を受け入れて、さっさと自分のものにしてしまえばいい。ミルトはそう言いたいんだろう。
 それはこれまでに何度も思い浮かび、何度も却下してきた考えだった。
 そんな中途半端なことはしたくないと、俺の中で歯止めがかかってしまう。
 すでに俺には、サクラを一生守り続けるだけの覚悟がある。
 もちろん、もし想いを通じ合わせることができれば、だけれど。
 対してサクラには、俺と一生を共にする覚悟があるようには、どうしても見えない。
 望郷の念だって、簡単には捨てきれないはずだ。

 けれど、それでも。
 まずは、という言葉に心が揺らぐのは、期待をしてしまっているから。
 サクラの想いが真のものであればいいと。

「頭のかたい隊長には無理かな?」
「いや、どうだろうな」

 俺は明言できずに、あいまいににごした。
 数日前から毎日送られるラブレターは、サクラの気持ちを視覚で訴えてくる。
 少しずつ、少しずつだけれど。
 サクラの想いを疑う気持ちが、減っていっているのを自覚している。
 彼女の言葉を信じられる日が来るのは、そう遠くない未来のように思えた。
 それはもしかしたら明日かもしれないし……今日かもしれない。



 私室に戻る途中、男女の諍う声が聞こえた。
 耳のいい俺は、すぐにそれが誰と誰のものなのか把握した。
 サクラと、ビリーだ。
 ビリーは何年も前から俺に反感を持っている。
 どう考えても、和やかに交流できる組み合わせではない。
 うれしくないことに、サクラを踏み絵にするというミルトのはかりごとは成功してしまったようだ。

「いいだろー? 咥えんのに隊長のもんも俺のもんも大して違いはねぇよ」

 ビリーの下品な言葉を聞きながら、俺は階段を駆け上り、彼の背後に回った。
 どうしようかと考えているのか、視線を泳がせていたサクラと目が合った。

「それは俺への侮辱と取るぞ」
「た、隊長……!」

 高圧的な低い声を出すと、ビリーは身体を震わせながら振り返った。
 彼の顔には、しまった、とわかりやすく書かれていた。
 反感を持っているくせに、妙に小心者の彼は、俺と直接やり合おうとはしない。
 だからサクラに近づくことで俺に当てつけるという、程度の低い嫌がらせを思いついたのだろう。
 ただ俺に当てつけるために、サクラを傷つけられてはたまったものじゃない。
 俺は相手の呼吸すら止めてやるとばかりに、きつく睨みつけた。

「これに手を出すな」

 刃のように鋭い言葉を突きつける。
 ビリーの顔はすでに真っ青になっていた。

「ちっ……」

 それでも最後の強がりか、悔しげな舌打ちを残してビリーはその場を去っていった。
 彼の後ろ姿を見送ってから、サクラに目を落とすと、彼女はなぜか瞳をキラキラとさせていた。
 ……怖くなかったのなら、それに越したことはないけれど。
 本当に、彼女の考えていることは理解できない。



「怖くはなかったか?」

 サクラを部屋に迎え入れた俺は、彼女の赤くなった手首をなでながらそう聞いた。
 触れて気づく。サクラの手はかすかに震えていた。
 馬鹿なことを尋ねてしまった。
 怖くなかったはずなど、ないだろうに。

「怖いよりも、むかつきました」
「お前らしいな」

 サクラの答えに、俺は苦笑した。
 自らの恐怖を認めるつもりはないらしい。
 俺に気にさせないためか、弱さを人に晒したくないからか。
 きっと、そのどちらでもあるんだろう。

「私、咥えるなら隊長さんのものがいいです」

 あけすけすぎる言葉に、俺は度肝を抜かれた。
 サクラはいつも突拍子もないことを言って俺を驚かせるけれど、いつもの比ではなかった。

「……言葉を選べ」

 俺は顔をしかめて、注意した。
 感情のままに話すのはサクラの長所であり短所だ。
 特に、こういった直接的な言葉は、男の劣情をあおりやすい。
 当人にはあおっているつもりなどないのだろうから、始末に負えない。

「他の人じゃ嫌なんです。私がさわってほしいのは、隊長さんだけです」

 サクラはまっすぐ、射抜くように強いまなざしで俺を見上げた。
 そこには、嘘も、誇張も、媚びも、計算もない。
 ただ自分の気持ちを伝えたいとばかりに、むき出しの熱情を宿した瞳。
 言葉を選ぶことなく、飾ることなく。
 読み違えようのないほど、はっきりとした意思を感じる。

「私がさわってほしいのも、さわりたいのも、キスしたいのも、抱いてほしいのも。全部、隊長さんだけなんです」

 心からそう思っているように、真剣な声と表情でサクラは言い募る。
 俺だって。触れたくて、触れてほしくて、キスしたくて、抱きたい。そう思うのはサクラだけだ。
 サクラの言葉に共感すればするほど、その言葉が真実味を帯びていく。
 本当に、俺と同じだけの想いを、サクラも持っていてくれているんだろうか。

「……身体だけか?」

 俺がそう問うと、サクラは怒ったような顔をした。
 サクラの手首に触れていた手を逆に取られて、両手でぎゅっと握られた。
 まるで、指先から、気持ちを伝えるように。

「違いますよ! 好きって言いたいし、言ってほしいし。毎日ちょっとしたことを話して笑ったりだとか、おいしいものを一緒に食べたりだとか。そういうことも隊長さんとしたいです」

 サクラの語る望みを、俺は思い描く。
 それは俺とサクラの日常が重なり合うということだ。
 同じ時を共に過ごして、共に笑い合う。
 今、俺が手を伸ばせば、その空想が実現するのだろうか。

「私の“好き”は、そういう意味です。隊長さんの気持ちとは違うんですか?」
「……いや」

 俺はサクラの言葉を否定する。
 サクラの、拒絶されることを恐れない真摯な瞳を見ていたら、気づいてしまった。
 自分はただ、傷つきたくなかっただけなのだと。
 サクラの言葉を信じて、もしいつか想いが食い違う日が来たら。
 俺はきっと、裏切られたと思ってしまうだろう。
 傷つけられたくなかった。サクラを憎みたくなかった。
 だから、彼女の想いは恋情ではないと、決めつけることで自らを守っていた。
 けれどそれでは、一歩も前には進めない。
 俺は、サクラが愛しい。サクラが、欲しい。

「本当に、いいんだな?」

 サクラの言葉を、サクラの想いを、信じてみたくなった。
 彼女が嘘をつかないことはよく知っている。
 男を騙して喜ぶような奴ではないことも、もちろん。
 だからサクラは本気だと、最初からわかっていたはずだ。
 そこに込められている想いが、どれだけのものなのか、不安だっただけで。
 けれどサクラが、これほどに真剣な表情で好きと言うなら、信じてみてもいいんじゃないだろうか。

 たとえ、信じたことでこの先、傷つくことがあったとしても。
 それでもいい、と思えるほどに、サクラを欲していた。
 本当のところ、もう限界だったのかもしれない。
 己の想いから逃げ続けることが。

「抱いてくれますか?」

 サクラは本当に、言葉を選ぼうとしない。
 その問いに、俺は細く長く、ため息を吐いた。
 サクラが精霊の客人だろうと、どれだけ変わった人間だろうと、関係ない。
 彼女に連なる厄介事も全部まとめて、受け入れよう。
 覚悟は、決まった。

「もう、黙れ」

 サクラの小さな唇に、自分のそれを重ねる。
 こうして触れてしまえば、もう、手放せない。

 つまりは、それが答えだった。

 互いの熱を感じ、熱を高め合い、熱を分かち合う。
 そのことがこの上もなく幸福に思えるのは、相手がサクラだからなのだろうと言われるでもなく本能が理解していた。
 甘やかな声に、理性は役に立たないほどに溶かされていく。
 誘われるように白い肌に吸いつけば、赤く散った痕に独占欲が満たされる。
 最初の夜の記憶を塗り替えるように、俺は丁寧に丹念にサクラを甘やかしていく。

 サクラはうわ言のように、好き、とくり返し言葉にした。
 何度となく言われてきたはずのその言葉に、愛情も欲望も際限なくわき上がってくる。
 自分はどう想いを返せばいいんだろうか。
 胸にくすぶり、全身を焦がしつくすこの想いは、どんな言葉でも伝えきれないような気がした。
 愛を告げる代わりに、数えきれないほど名前を呼んだ。
 俺の腕の中で、サクラが笑った。


 あでやかで、朗らかで、本当にしあわせそうな笑顔だった。



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