グレイスの回想13 −名前−

 なぜかはわからないが、俺は今、サクラに避けられているらしい。
 まず、彼女が俺の部屋に来ることがなくなった。
 すれ違ってもそそくさと去ってしまって、挨拶どころか目も合わせようとしない。
 そのくせ遠くからこちらを見てくる視線を感じることがある。
 何がしたいのかまったくわからなかった。

 必要以上に近づかれると困るくせに、寄ってこないとなると気になってくる。
 以前サクラを避けていたことへの意趣返しか? とも思ったが、そんな仕返しの方法はサクラらしくはない。
 ミルトは何か知っているようだが、おもしろいからと言って教えてはくれなかった。
 俺の反応がつまらないから、挨拶のような告白をすることにも飽きたのだろうか。
 揺らぎそうな自分を自覚していたから、正直なところ助かる。けれど残念な気持ちもわき上がってくる矛盾に、俺はため息を噛み殺した。
 こうして彼女のほうから距離を置きだしたということは、もう冗談を続ける気はないんだろう。
 最初から、わかっていたはずだ。彼女が本気ではなかったことなど。
 それでも少し、期待してしまっていた自分もいたらしい。



 俺にも仕事があるのだから、サクラのことばかり考えていることもできない。
 その日執務室にやってきたのは、小柄な隠密部隊隊員、レット・スピナーだった。

「やっほー、第五の隊長さん。元気にしてた?」

 底なしの明るい声で、レットは開口一番そう言った。
 いつもどおりのノリの軽さに、俺はため息をつく。

「十日ほどしかここを離れていなかっただろう」
「だって、その十日の間に病気にかかっちゃうことだってあるでしょ。体調確認は大切だよ」
「特に問題はない」

 変に話を長引かせるのもどうかと思い、簡潔に答える。
 きっと、レットも本気で俺の体調を気にしているわけではないんだろう。
 ただの世間話のようなもの。天気の話と同じだ。

「それはよかった。隊長さんに何かあったらここは総崩れになるからね」
「そんなやわな鍛え方をしたつもりはない」
「じょーだんだよ、じょーだん。まったく第五の隊長さんは頭がかったいなぁ」

 にひゃにひゃとレットは笑う。
 もう一度吐きそうになったため息を俺は飲み込む。
 レットのペースに乗せられていては話が一向に進まない。
 トン、と人差し指で執務机を叩いて音を響かせた。

「無駄話はいい。どうだった?」

 これ以上話が脱線しないようにと、俺は単刀直入に尋ねる。
 今回レットを王都まで行かせたのは、サクラのことが関係している。
 精霊の客人が現れたという書類を提出したのは、すでに一ヶ月以上も前のこと。
 前にこの国に精霊の客人が現れたのは百年近く昔のことだから、俺も詳しく知っているわけではないが、通常は一月も経たずに国のほうで保護するために動き出すはず。
 どうしてなんの音沙汰もないのかと、レットに探りに行かせたわけだ。
 レットはつまらなそうに口を尖らせながらも話し始めた。

「どーやらねー、上まで話が行ってないみたいなんだ」
「どういうことだ」

 鋭い視線でレットを見ると、彼はこてんと首をかしげた。

「ぼくにもよくはわからないよ。ただ、下のほうで、しかも本当に最初の段階で情報が止められてるのはたしか。王城では精霊の客人なんて噂にも上ってない。知ってるのはたった数人なんじゃないかな」

 どうやら上、つまり王族や上位議員に書類が行っていないらしい。
 精霊の客人の存在は一議員が処理していいような案件ではないだろう。
 情報が止められているというのは故意だとしか思えない。
 けれど、なんのために?
 精霊の客人がいないことで得をする者なんているんだろうか。
 俺は腕を組んで考え込んだ。

「……精霊の客人を厭う者の妨害か? それとも、手中に収めたいのか」
「それがねぇ、特にそういう動きもないんだよ。いっそのこと動いてくれれば、こっちも対処のしようがあるんだけど」

 お手上げ、とばかりにレットは両手を上げる。
 レットにわからないものを、王都を見てきてもいない俺にわかるわけがない。

「書類を止めてる人間はわかってる。王城はぼくらの管轄外ではあるけど、動くこともできるよ。どうする? 書類をちゃんと上に回してもらうか、もしくはぼくらから直接上に話をつけちゃうか」

 軍の隠密部隊は、基本的に軍内での情報管理を主としている。
 王城は王族や貴族の独擅場だ。
 だからといって、こちらから働きかけることができないわけではない。
 議員をせっつくのは簡単なこととして、しかるべき手順を踏めば、王族に直接話を持っていくこともできる。
 レットに任せれば、数日中にもサクラの存在は上へと伝わることだろう。
 だが、書類を止めている者がいるという事実が引っかかる。

「相手の狙いがわかる前から動くのは危険だ。様子見しよう」

 少し逡巡してから、俺はそう答えを出した。
 今のところ、サクラはこの砦での生活に困った事も特になく、不満もなさそうだった。
 むしろ人間関係も円満なようで、このままここにいてもいいのではと思うほどだ。
 すぐにでも精霊の客人として保護してもらう必要性は感じなかった。
 それよりは、なぜ情報が止められているのかを探ったほうがいいのではないだろうか。

「ふ〜ん。へ〜え」
「……なんだ」

 変な声をもらすレットに、俺は眉をひそめる。
 何もかもわかっているとばかりの笑みが癪に障った。

「ふふふ、ぼく知ってるよ、第五の隊長さん。隊長さんはサクラ・ミナカミが好きなんだ。だから先延ばしにしたいんでしょ?」

 レットの言葉は衝撃的でもあり、ある程度予想できていたものでもあった。
 サクラのことを好きだという気持ちを隠そうとは、今さら思わない。
 ミルトにでも何か聞いたのか、俺がわかりやすすぎるのか。隠密部隊のレットに隠せるはずないのかもしれない。
 先延ばしにしたい、というのも、たしかに図星なのかもしれなかった。

 国に保護されるということは、国がサクラの後見人を決めるということ。
 一定以上の立場のある俺は、後見人としての条件を満たしている。今までこの砦で問題なく過ごせているというのも判断材料に入れられるかもしれない。
 けれど、魔物の危険の近しいこの砦は、精霊の客人の居住場所としてふさわしくないとされる可能性も高い。
 もし、王都の貴族がサクラの後見人として選ばれたなら。
 ……離ればなれになる。
 それだけはどうしても避けたかった。
 自らの恋情に気づいてしまった今、耐えられそうにはなかったから。

 これも、職権乱用にあたるんだろうか。
 本当にサクラのことを考えるなら、国に話をつけたほうがいいのかもしれない。
 それでも、今はまだ。許されるうちは。
 サクラと共にありたいと、願ってしまっている。

「ま、りょーかいしたよ。じゃあぼくは……」

 にやにやと笑っていたレットが、急に訝しげな表情になって扉の方向を振り返った。
 なんだろうかと俺もそちらに目をやるが、すぐにそれは聞こえてきた。
 こちらに駆けてくる足音が。

「――っ!」

 バンッと音を立てて開かれた扉の先にいたのは、サクラだった。
 叫ぶように発せられたその言葉は、なぜか聞き取ることができなかった。

「どうしたんだ?」

 サクラが執務室に来るのは初めてのことだ。
 しかも、今は仕事中のはず。
 今まで話していた内容のこともあり、何かあったのかと心配になった。
 サクラは何かを口にして、ガクンとその場に崩折れるように膝をついた。

「おい、どうした!?」

 俺はあわててサクラの元まで駆け寄った。
 肩に手をやって顔を覗き込むと、サクラの目から涙がポロポロとこぼれ始めた。
 口を開いたり閉じたりし、聞き取れない音を出す。
 ……聞き取れない?
 それはおかしい。特に意味のない言葉なら、聞き取れないなんて思うことはない。
 なら、サクラは意味のある言葉を話しているはずなのだ。
 それが、俺の理解できる言語ではない、というだけで。

「……精霊の加護が、切れたのか?」

 それしか思い至らない。
 何かしらの理由で、精霊が言葉の相互変換をしてくれなくなったんだろう。
 サクラはいつも元の世界の言葉を話している。
 それでも意思の疎通ができていたのは、精霊が翻訳していてくれたおかげだ。
 なぜかはわからないが、今、その精霊の加護が失われているらしい。

 サクラは糸が切れたようにうずくまりながら、涙を流していた。
 助けて、もう嫌だ、と全身から伝わってくる。
 泣けばいいのに、といつだったか思ったことがあった。
 気まぐれな精霊に勝手に異世界に連れてこられて、それでも笑顔を絶やさない少女に。
 寂しいだろうに、つらいだろうに、無理に笑おうとする彼女を見ていられなくて。
 けれど、こうして涙を見てしまえば、平静でいることはできなかった。
 守るべき存在、ではない。
 何よりも守ってやりたい存在に、いつのまにかなっていたのだ。

「――サクラ」

 初めて、俺はその名前を呼んだ。
 彼女がこの世界に来てから一ヶ月以上も経つというのに、一度も呼んだことのない名前だった。
 名前を呼んでしまったら、彼女の存在を認めてしまったら、もう後戻りはできないとわかっていたのかもしれない。
 後戻りなど、今さらするつもりはない。
 今はただ、サクラに“通じる言葉”を届けたかった。

「サクラ」

 顔を上げたサクラに、俺はもう一度呼びかける。
 涙で濡れた瞳に、情けない顔をした男が映っていた。
 名前を呼ばれたのだと認識できたんだろう。
 サクラはもっとと求めるように、手を伸ばしてきた。
 倒れ込むような勢いで飛びついてきたサクラを、俺は受け止める。
 華奢な背中を、ぽんぽんとなでさするように優しく叩く。
 耳元でサクラの声が聞こえる。
 やっぱり言葉の意味はわからなかったけれど、心から安心したような声色だった。
 眠りに落ちていこうとしているのか、だんだんと体重がかかってくる。
 それでも、離すものかとばかりに、背中のシャツがぎゅっと握りしめられたのを感じた。

 寝かしつけるようにゆっくりと背中をさする。
 何度も何度もサクラの名前を呼んだ。
 大丈夫だ、心配はいらない、と伝えられるように。
 やがて、サクラは完全に寝入った。
 小さな身体を横抱きにして、俺は立ち上がる。
 ゆっくり休ませるために、俺の私室に運んだほうがいいだろう。

「心配しなくても、精霊の加護はまだあるよ。たぶん気まぐれで力を貸さなかったんだろうね」

 レットが、俺の腕の中のサクラを見ながらそう告げる。
 気配を消していたこともあって、半ば存在を忘れていた。
 言われて、サクラの中の精霊にまで気を配ってみれば、たしかにまだ精霊は存在していた。
 また、精霊の気まぐれが、彼女を傷つけた。
 直接文句が言えるものなら、いくらでも言いたいことがあるのに。
 精霊というものはどこまで自分勝手な生き物なんだろうか。

「サクラと俺は今日はもう休む。連絡を頼む」
「はーいはい、お安いご用です。ちゃんと伝えておくよ」

 心得ているとばかりににっこりとレットは笑む。
 あとは彼に任せておけば大丈夫だろう。
 急を要する仕事もない。ミルトにはあとでグチグチ言われる可能性はあるが、それくらいは気にならない。
 それよりも、こんな状態のサクラを一人にしておくほうが、嫌だった。

「本当に大事なんだね、サクラ・ミナカミのこと」
「……ああ」

 レットの言葉に、俺は肯定を返した。
 大事だなんて言葉では言い表しきれない。
 サクラの笑顔を守りたい。サクラの心を守りたい。サクラが、サクラらしくいられる居場所を、守りたい。
 ずっと、この手で守っていくことができたなら。


 サクラを守り続けられる権利が欲しい、と俺は思った。



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