それから、俺はあからさまにサクラを避けることはやめた。
とはいえ当然、以前と同じ関係に戻れるはずもない。
「隊長さん、好きです!」
彼女は俺と顔を合わせると、挨拶のように告白をするようになった。
場所は選んでいるのか、俺の部屋だとか、他に人がいないときにかぎってだったけれど。
気軽に告げられた愛の言葉に、俺は返事をせずに顔をしかめる。
「そんな顔しないでくださいよ、本心なのに。ブロークンハートしちゃいますよ」
眉を垂れさせ口をとがらせ、不満そうな表情でサクラはそう言う。
その言いようが冗談にしか聞こえないのだと、どうして彼女はわからないんだろうか。
「話はそれだけか」
話を打ち切るように、俺はわざと硬質な声を出す。
彼女の冗談に付き合っていられるほど、俺には心の余裕がなかった。
欲しいものは、そんな軽い言葉じゃない。
挨拶のように告げ、断られても大して傷つかないような、薄い思いじゃない。
恋情だとか愛情だとか、執着だとか独占欲だとか。
俺だけに向けられる強い想いが欲しい。
俺がどれだけ退けようと、サクラはめげなかった。
挨拶代わりの告白をやめようとはしない。
自然と俺の受け答えは冷たくなり、サクラとの関係はぎくしゃくとしたものになった。
このままでいいわけがない。
それくらいは俺にもわかっていた。
けれど、仕方のないことというのはあるものだ。
どんなに軽い言葉でも、好きと告げられれば期待もしたくなる。
傍に近寄られてしまえば、触れたくもなる。
自分を律しようと、距離を取るのは当然のこと。
二人の間にあいた距離は、そのまま心の距離のように思えた。
そんなある日、昼休憩に部屋に来たサクラの様子が明らかにおかしかった。
熱に浮かされているようにとろんとした目、甘くかすれた声。全身が熱く、脈は速く、軽く触れただけで過剰な反応を返す。
ただ、熱があるというだけではないように見えた。
誰かに薬でも盛られたか、とミルトやレットの顔が頭をよぎるが、ミルトが動く理由はないし、レットは今はちょうど王都に行っている。
原因がわからずに、どうしたものかと悩んでいると。
「隊長さん、さわって」
俺にもたれかかっていたサクラが、耳元でそうささやいた。
ぞわりと、身体が反応するのがわかった。
具合が悪いときですら、お前は自重しないのか。
どれだけ俺をもてあそべば気がすむんだ。
「これ以上は歯止めが利かなくなる」
苦々しい思いのままに、うなるような低い声で告げる。
「歯止めなんて利かなくっていいんです」
「抱かないと言っただろう」
「そんなの無視しちゃってください」
つたないけれどわかりやすい誘惑の言葉に、理性がぐらつく。
身体にくすぶり始めた熱を追い出すように、俺はため息を吐いた。
それから、サクラを抱き上げてベッドに運ぶ。
彼女の誘惑に乗るためではなく、彼女を寝かしつけるために。
この様子では午後の仕事はできないだろう。大事を取って休ませたほうがいい。
サクラに布団をかけて、頭をなでる。
具合の悪いときは心細くなりやすいものだ。
せめて寝入るまでは傍にいてやろうと思った。
今だけは、距離なんて気にすることなく。
さすがに俺の欲望も、具合の悪いサクラの前ではおとなしくしていてくれるだろうから。
「たいちょーさんの意気地なし」
責めるように見上げてくる闇色の瞳は、熱があるためかうるんでいる。
布団で口元を隠しながら、くぐもった声でサクラは俺をなじった。
その言葉に怒るべきなのか、落ち込むべきなのか。
答えは出ることなく、結局何も言えずに、サクラの頭をなで続けた。
意気地がないのは、きっと間違っていないんだろう。
寝ているサクラを部屋に残して、いつもどおり仕事をこなした。
鍵はかけてあるから大丈夫だろうとは思いつつも、様子のおかしかったサクラが心配で、仕事ははかどったとは言いがたかった。
それでも今日の分の仕事を終えて、部屋に戻ってくると、ちょうどサクラが目を覚ましたところだった。
体調不良、ということで特別にサクラの夕食は俺の部屋に運んでもらった。
一緒に食事を取るのは一ヶ月ぶりだ。前とは違ってきちんとサクラの分は別になっている。
新鮮な思いを抱きながら食事をしていると、サクラが夢の内容を話し出した。
どうやら夢の中に精霊が出てきたらしい。
人の子の精霊が夢に出てくるという話は聞いたことがあった。現実で精霊を見ることができない者でも、夢の中では会うことができるのだとか。
サクラの場合は現実でも見ることができるんだろうが、ちょうど寝ていたから夢に入ったのかもしれない。
夢の中で精霊が教えてくれた、体調不良の理由。
その内容に、俺は顔がしかめられていくのを止められなかった。
いわく、サクラの中にいる精霊が、最初の夜の情事を覚えていて、またあの時のような感覚を味わいたかったから、ということらしい。
精霊というものが、感覚だけで生きている、人間には理解しがたい存在だというのは話に聞いていたけれど。
これは、自分勝手すぎないだろうか。
精霊の客人は、サクラは、精霊のおもちゃではない。好き勝手に振り回していいわけがない。
そして、精霊の暴挙に対して、あまり憤りを感じていないサクラ自身も、問題だ。
「ということで、抱いてください」
そんなことまで言い出すものだから、まったくサクラという人間はよくわからない。
いったい何を考えているのか。何も考えていないのかもしれないが。
今の自分はきっと、悪鬼のように険しい顔をしているに違いない。
「何が、ということで、だ。そんなもの聞けるわけがないだろう」
簡単に言っているが、それはここ最近の俺が最も避けていたことだ。
気持ちが伴わない行為はしないようにと。
元の距離感がわからなくなるほどに、俺は自分を律することが難しくなっていた。
その理由はわかっている。サクラがいたずらに俺の情欲をあおるからだ。
サクラに手を出してはならない。サクラを傷つけたくはない。
その俺の思いを邪魔するのが、他でもないサクラ自身だというのはどういうことなんだろうか。
俺の答えを予想していたように、サクラは俺を説得にかかる。
ご機嫌取り、なんて冗談みたいな言葉選びをしているが、サクラなりに本気ではあるんだろう。
精霊の加護があって、なんとか人並みに生活することのできる精霊の客人。もし精霊に見放されたら、どうなるかなんて考えるだけでも厳しいものがある。
一番の弊害は、言葉が通じないこと。
外国に行くのとは違って、サクラの話している言葉を知る者は世界中を探してもどこにもいない。
それは間違いなく、恐怖のはずだ。
だからといって、サクラの提案を飲むわけにもいかないが。
「……こうなったら最終手段です。小隊長さんのところ行ってきます」
サクラは言うが早いか、身をひるがえして部屋を出ていこうとした。
「待て。何をしに行くつもりだ」
コンパスは俺のほうが長い。サクラが扉にたどり着く前に、俺は彼女の手首をつかんで歩みを止めさせた。
むっとした顔でサクラが振り返る。
手を放してもらいたいのか、軽く手を引っぱったり揺すったりしているが、その程度の抵抗は痛くもかゆくもない。
「もちろん抱いてもらいに」
「却下だ」
言葉にかぶせるように、ピシャリと言い放つ。
「隊長さんにそんな権限はありません!」
サクラも即座に声を上げた。
強い声音には、いらだちがにじみ出ている。
それだけサクラも必死だということなんだろう。
「……頼む」
傍に引き止めるように、サクラの手首を握る手に力を込めた。
わかっている。俺にサクラを止める権利がないことくらい。
それでも、駄目だと、嫌だと思ってしまう気持ちはなくすことはできない。
ミルトが……奴じゃなくても、他の男が彼女の肌に触れるだなんて、想像しただけで相手を半殺しにしたくなる。
サクラは、気にならないんだろうか。
俺が好きだと言ったその口で、他の男に抱いてもらうだなんて言う。
やっぱり、恋焦がれているのは俺だけなんだろう。
サクラの告白はその場のノリのようなもので、気持ちのこもったものではなかったんだろう。
少なからずショックを受けている自分に嗤いたくなる。最初からわかっていたことだったはずだけれど、心の底では期待してしまっていたらしい。
「ずるいです隊長さん。あれもダメこれもダメじゃ、私もどうすればいいのかわかりません」
困りきったような顔で、サクラは俺を見上げてくる。
その保護欲を掻き立てられる表情にすら、自分の中の男が反応するのがわかった。
なぜ自分がサクラを拒んでいるのかがだんだんわからなくなってくる。
サクラも望んでいるのなら。それがサクラのためにもなるのなら。
何も、問題はないんじゃないのか?
悪魔のささやきが己のうちから聞こえてくる。
責任を取るつもりもある。今は鳴りをひそめている精霊だって、いつまた同じことをするかわからない。
他の、サクラの気持ちなんて考えもしないような男に渡すくらいなら。
俺のほうが、彼女を大切にできるんじゃないだろうか。
けれど、そうじゃない。と俺は内心で否定する。
誰よりも大切にしたいからこそ。大切にするために、手を出してはいけないんだ。
サクラの気持ちを脇に置いておいてはいけない。
欲しいものはサクラの身体じゃない。
心ごと、いつか俺のものになってほしいから。
今は、手を出すわけにはいかない。
「私の身体、そんなに嫌ですか? 二度と抱きたくないくらい」
「そんなわけがない。……わかっていて聞いているだろう」
サクラの身体を嫌だと思っているなら、そもそもあんなふうに避けたりもしなかった。
触れたくなる、と。大切にしたい、とサクラにはもう伝えてある。
俺の気持ちはサクラだってわかっているはずだ。
「じゃあ、いいじゃないですか。据え膳食わぬは男の恥、ですよ」
サクラの言いようは、どこまでも軽い。
俺の気持ちも、自分自身の気持ちすらも、どうでもいいとばかりに。
そうじゃないだろう。
そんな、簡単な問題じゃないだろう。
家族が欲しい、といつだったかサクラは言っていた。
それは、本当に自分が望んだ者でなければ意味がないはずだろう。
それとも俺は、サクラにとって、その場かぎりですませられてしまう程度の男だということなのか?
「お前が……」
この気持ちを、どう言い表せばいいんだろうか。
どう言えば、サクラに伝わってくれるんだろうか。
「お前の心が、俺にないのなら。身体だけつながってもむなしいだけなんだ」
思っていた以上に、その言葉は切実な響きを持った。
そう、身体だけでは、もう足りない。
だからこそこんなに必死になって彼女を説得するはめになっている。
俺は、サクラの家族になりたい。
サクラがこの世界に来てよかったと思えるような存在になりたい。
俺の傍で、いつも笑っていてほしいんだ。
「私の好きだって気持ちを信じないのは、隊長さんです」
手首をつかんだままだった俺の手に、サクラのもう片方の手が添えられる。
小さくてやわらかな手から伝わるぬくもりに、彼女が傍にいるのだと、こんなときだというのに安堵した。
「お前の態度が信じさせてくれないからだろう」
「どうすれば信じてくれるんですか?」
夜の闇を溶かし込んだような瞳が俺を仰ぎ見ている。
静かに答えを待つ彼女は、いつもよりも真剣な顔をしていた。
まっすぐ向けられる視線を受け止められずに、俺は目をそらした。
「……あまり、困らせるな」
そうとしか言うことができなかった。
信じられるものなら、俺だって信じたい。
けれど、サクラの言葉からは気持ちが感じられない。
俺が彼女に抱いているような恋情の一欠片でも、汲み取ることができたなら。
そうしたら、何も気にすることなくこの手に抱くことができるというのに。