2.椿は安堵したい

 硝子の器に浮かべた椿を、主はずいぶんと気に入ってくださったらしい。
 審神者の仕事をしている最中も、たまにちらりとそちらに目を向けるのを、傍に控えている長谷部は何度も目にしていた。
 それによって書き損じて、審神者が頭を抱えるのも、ここ数日ですでに四度目になる。
 うなだれる審神者を励ますのも長谷部の仕事だ。
 なんとか今日の分の仕事を終わらせた審神者と、雑談をしていたとき。
 話の流れで、審神者はその問いを口にした。

「長谷部は前の主のことが嫌いなの?」

 いつか尋ねられるだろうと、思ってはいた。
 素直な性質の主に、空気を読むといった技能はない。
 問いかけの理由は、長谷部の口から聞く前の主の話に、いい印象のものがなかったからだろう。
 それほど多くを語っていたつもりはなかった。
 けれど、こうして肉体を得る前とはいえ、刀として振るわれた頃の記憶のようなものは残っていて。
 どうしても、己の中で消化しきれずに。

「……そうですね。嫌い、と言ってしまってもいいかもしれません」

 顔をしかめてしまわぬよう。声がきつくなってしまわぬよう。
 努めて普段どおりに長谷部は答えた。
 それでも、嫌いではない、と言うことはできなくて。
 感受性豊かな主が表情をくもらせるのを、長谷部は申し訳なく思った。

「じゃあ」

 しかし審神者は、すぐに持ち直したようだった。
 気合いを入れるように、ぐっ、と握りこぶしを作る。
 やる気満々、といった顔で、まっすぐ長谷部と目を合わせた。

「私は長谷部に嫌われないように、がんばらないとね!」

 その言葉に、長谷部はハッとさせられた。
 がんばらなければ、と思っていた。
 今度こそ、主のため力を尽くさねば、と。
 刀は使われなければ意味がない。
 どんな名刀も敵を斬る機会がなければなまくらと同じ。

 けれど、そうか。
 彼女にとっては、がんばるのは、主のほうなのか。

 いや、長谷部とてわかっている。
 実際にがんばらねばならないのは長谷部の、刀のほうだ。
 主のお役に立てるよう。主命を守れるよう。
 日々己が刃を磨き、用命とあらば出陣し敵を狩り、その他些細な命もきっちりこなし。
 忠実な臣として、いつまでもお傍に置いてもらえるよう。

 そうして長谷部たち刀が切磋琢磨するように、審神者も刀に見合う主であれるようがんばる、とそう言ってくれているのだ。
 長谷部に嫌われないよう、ということは、つまりそういうことだろう。
 この主にとっては、刀と己は同列なのだ。
 主が命を下す刀を選べるように。刀にも主を選ぶ権利があると。
 それはとても……気分のいいものだった。

「俺が主を、貴女を嫌うことなど、日が西から昇ろうともありえませんよ」

 ふっ、と自然に笑みがこぼれた。
 いつになく晴れやかな気持ちだった。
 よかった! と顔をほころばせる主を、守りたいと思う。
 長谷部は卓の上の椿を一瞥する。
 優しげな緑色の混じった透明な硝子の器に、常緑の葉と共に浮かべられた一輪の椿。
 数日前、長谷部の妙案によって彼女の笑顔を守れたように。
 叶うことなら誰よりも、主のお役に立ちたい。

 今度こそは。
 長谷部は主を守る権利を持っているのだから。


  * * * *


「あんまり甘やかすのは感心しねぇな」

 そう、長谷部を呼び止めたのは、薬研藤四郎だった。
 長谷部は廊下の途中で足を止めて振り返る。
 薬研は中途半端に開いた障子の陰にいた。
 気配に気づいてはいた。それが誰か、ということにも。
 気づいていたから、長谷部は黙って通り過ぎようとしていた。
 けれどどうやら彼のほうは長谷部に話があるらしい。

「なんのことだ」
「わかってんだろ?」

 ジロ、と大きな薄紫色の瞳が長谷部を睨む。
 白磁の肌に絹糸のような髪。少年の姿をした彼は、けれどその外見に似合わずずいぶんと落ち着きがあり、男気あふれている。
 表情一つで空気が凍ったことがわかるほどに、彼は場を支配するのが得意だ。
 しかし、長谷部とて負けてはいられない。
 表情を変えることなく、口を開いた。

「……主のことであれば、甘やかしているつもりはない。俺はただ主の命に従っているだけだ」

 審神者は抜けているところがあるが、馬鹿ではない。
 しなければならないこと、してはいけないことはきちんと心得ている。
 審神者としての立場を忘れることなく、責務を果たしている。
 他に彼女に望むことなどあろうはずがない。
 長谷部は、審神者として努める彼女の手足となり働くことこそ、至上の喜びなのだから。

「なんでもかんでもはいはい言うこと聞くのがあんたの知る忠臣か? 大将のことを思うなら、ちゃんと自分の意見も言ってやれ」
「それではまるで主のやりように不満があるようだな。俺は主のなさることに間違いはないと思っている」
「……あくまでそれで通すつもりかよ」

 チッ、と薬研は舌打ちする。
 男らしさは獰猛さ、野蛮さと紙一重。彼はまるで野犬のようだ。
 主や他の刀剣にとって頼れる兄貴分である薬研は、長谷部の前では違う姿を見せる。
 初めのうちはこうではなかったように思うのだが。

「理想の主、だろ。あんたにとって」

 薬研の声は、その声以上に冷たい響きを持っていた。
 反射的に柄に手をかけたのは、殺気を感じたからか、それとも。
 今、殺気を放っているのは、きっと己のほうだ。

「何が言いたい。薬研藤四郎」

 長谷部も鋭い声で問い返す。
 殺気を向けられていることに気づいているだろうに、薬研は動じない。
 おきれいな顔には表情らしいものが見えない。
 どこか達観したような、それでいて長谷部を嘲っているような。
 薄紫色の瞳が静かに長谷部を映している。

「自分を必要としてくれる。自分がいなきゃなんにもできない。そりゃあお優しい大将はあんたを他の誰かに譲ったりはしないだろうさ。信長みたいにはな」

 薬研はゆるりと足を運び、障子の陰から出て長谷部の正面へと立った。
 淡々とした声。降り積もるようにただ長谷部に事実のみを語る。
 温度の感じられないそれは、けれど切っ先のように鋭く。
 見上げられているのは己のほうだというのに、静かな迫力に気圧されて、長谷部は口を挟むことができない。

「大将はあんたの人形じゃない。あんたの都合で大将を縛るな」

 どこまでも冷めた声で、言いきると薬研は長谷部の前から去っていった。
 最初からそれを忠告したかっただけなのだろう。
 しばしその場に立ち尽くしていた長谷部は、ぎゅっと拳を握った。
 ふつふつとわき上がる憤りと嫌悪感。悪しき感情ばかりが胸のうちで渦巻いている。
 薬研が長谷部の前でだけ態度が違うのも当たり前だ。
 先に嫌ったのは、長谷部のほうなのだから。

 貴様に何がわかる。
 焼けるその瞬間まで、主と共にあれた貴様に。

 少年の姿をした薬研藤四郎を脳裏に描く。
 あの細い首をくびれば少しは気が安まるだろうか。
 あるいは、刀剣としては斬り伏せるほうが似合いか。
 短刀の間合いは狭い。彼の切っ先が己に届くよりも先に、長谷部の刃が彼を血で染め上げることだろう。

 けれど、できない。
 想像の中ですら彼を殺せない。
 そんなことをすれば、きっと……主が泣くから。

 心優しい主は、どの刀とも良好な関係を築き、なかなか心を開かない刀にも気を配っている。
 和を大切にする主が、長谷部と薬研の仲違いを知れば、どう思うだろうか。
 嫌い合うことしかできない二人を悲しむだろう。審神者として皆をまとめられぬことに落ち込むだろう。
 だからこそ、長谷部は己が刃を薬研に向けずにすんでいるのだ。
 そうとも知らず、好き勝手に言ってくれた薬研が憎らしい。

 何が、理想の主、だ。
 何が、主は長谷部の人形じゃない、だ。
 そんなこと……。

 そんなことは。
 己の手前勝手さには。
 ずいぶんと前から、気づいていた。
 気づいていようと、どうにもできないのだ。
 どうしても求めてしまうのだ。
 己を求めてくれる主を。己を捨てずに、傍に置いてくれる主を。
 名をもらった主に一生を捧げることを許されなかった記憶が、長谷部を縛る。
 身体を得た今度こそ、今度こそは全身全霊を持って尽くそうと。
 忠誠心ばかりが中身を置いて先走る。

 もう二度と、あの時のような思いはしたくないのだ。
 己のいないところで主が敵に討たれ、それを日が経ってから知らされるような。
 そんな絶望は二度と知りたくない。

「……主」

 主命が欲しい。
 一生、傍を離れるな、と。
 それさえあれば、長谷部は忠実な第一の臣となれる。
 それさえあれば。


 長谷部は、心から安堵できるというのに。



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