お祭りで遊ぶ前に、まずはお参り。
それは、私がこのお祭りに行くときの毎回のルールだった。
神様のお膝元で遊ばせてもらうんだもの。挨拶は大切でしょう? なんて微笑む母に、私も特に反論は思いつかなくて。
あとにして思えば、母は単純に神社仏閣が好きだったんだな、とわかるけど。
今さらルールを変える必要性も感じないから、今日もこうしてガランガランと鐘を鳴らす。
神様、お世話になります。
ベビーカステラのおまけをたくさんもらえますように。焼きたてカリふわの大判焼きが食べられますように。
あとついでに、平穏な日常が守られますように。
心の中で唱え終わってから、横にいる季人を確認する。
季人はもうとっくにお願いが済んでいたらしく、目を開けて神社の奥を見ていた。
と、いうか。
睨んで、いる?
「……どうしたの?」
訝しげに声をかければ、季人はこっちを向いて、表情を和ませた。
奇妙な空気は一瞬で霧散し、今のは見間違いだろうかという気になってくる。
「いや、別に」
「別にって顔じゃなかったけど」
「うーん……」
季人は困ったように苦笑して、あごに手を持っていく。
何か言いづらいことでもあるんだろうか。
別に季人は神社仏閣が嫌いってことはなかったと思うんだけど。
最近何かしらあって、好みが変わったという可能性もないわけじゃない。
「この世界が、本当に乙女ゲームと同じなんだとしたら、」
見るというよりも、見定めるように。
その先にある目に見えない何かを捉えるように、季人は社の奥に視線を向ける。
「今ごろ神様は何を思っているんだろうな、って考えてただけ」
私に言っているはずなのに、独り言みたいな、淡々とした声のトーン。
緑混じりの茶の瞳からは、なんの感情も読み取れない。
どうして季人が神様を気にしているのか、全然わからないけど。
季人らしくない、ということだけはわかった。
「よくわかんないけど、神様がいたとしても、何思ってるかなんてただの人間にわかるわけないんだから、考えるだけ無駄じゃない?」
バッサリ切り捨てると、季人はパチッと目をまたたかせた。
それからすぐに、破顔する、という言葉がぴったりの笑顔を見せた。
うん、こっちのほうが季人らしい。
「咲姫のそういうところ、好きだよ」
「そりゃどうも」
「ほんと、スッとするくらい現実主義だよね。俺の言ったことを信じてくれたのが、不思議なくらい」
「優先順位が違っただけでしょ」
乙女ゲームだとかヒロインだとかサポートキャラだとか。いつもの私なら一笑に付しただろう。
季人の言葉は、私にとって他のどんな要素よりも優先されるだけの付加価値がある。
それは今まで築いてきた信頼関係に由来するものだから、私の基準が甘くなっているわけじゃない。
それだけ、季人が特別枠だっていうだけの話だ。
「あのね、季人」
特別、だから。
知ってほしいと思うし、知りたいと思う。
「大丈夫だったよ」
唐突な話題転換に、季人は一度だけ目をまたたかせた。
どこから話せばいいのかよくわからないけど、何を話すかは決まっている。
数日前に言えなかったことを、今、伝えなければ。
「百合川陽良は彩ちゃんのことが好きなんだって。好きで、大事で、だから彩ちゃんに近づいた私の真意を探りにきた。それだけだった」
季人は私の言葉に目を見開く。
ここ数日、話す機会を持てなかったから、初めて知る事実だろう。驚いて当然だ。
攻略対象がヒロイン以外の女性を好きになることがあると、萩満月や蓮見蛍の件ですでにわかっていたとはいえ。
「こっちに他意がないことはわかってもらえたし、ちゃんと学校では話しかけてこないよう頼んだ。百合川陽良はきっと、彩ちゃんのために、私との約束を守るよ」
今回のことで、攻略対象が相手でも、話し合いで解決することもできるってわかったのは大きな収穫だった。
実際には話し合いというより、取引、って感じだったけど。
攻略対象との接触を避けきれなかったとき、最悪の事態を回避する方法はいくらでもあるのだと知れた。
それは私にとっても、季人にとっても、有利に働く情報のはずだ。
「……季人は、何が怖かったの?」
まっすぐ、季人を見上げる。
ペリドットの原石みたいな色をした瞳は、あの時、確かに怯えを宿していた。
お化けを怖がる子どもが、母親にぎゅっと身体を寄せるように。
「咲姫が……」
かすれた声が、私を呼ぶ。
季人はくしゃりと顔を歪ませ、また、あの時と同じ目をした。
「咲姫が傷つけられること。それ以上に……咲姫が、俺の知らない咲姫になること」
季人の、知らない私。
言葉の意味を取りかねて、私はそのまま続きを待った。
「ゲームのプレイヤーキャラ、立花咲姫は、よく言えば誰でも感情移入しやすい、悪く言えば無個性なヒロインだった。咲姫も自覚はあると思うけど、今の咲姫とは似ても似つかない。この世界とゲームにどういうつながりがあるかわからない以上、攻略対象と関わることで、咲姫が変わってしまう可能性が、ないわけじゃない」
無個性なヒロイン。なるほど、美少女小説とかで主人公の顔に特徴がないのと一緒か。
パズルゲームくらいしかやったことのなかった私にはピンと来ないけど、そういえば乙女ゲームが好きな友だちが以前、ヒロインが個性なさすぎてつまらない、なんて愚痴っていた記憶がある。
自分が個性あふれているとは思わないけど、世間一般的な女子高生からはかけ離れている自覚がある。
『恋花』のヒロインが無個性だったなら、それはたしかに私と似ているわけがないだろう。
「ゲームとは違って、現実でただの大学生が調べられることなんて、ごく一部なんだ。同じ学校に通っていればまだなんとかなったのかもしれないけど、もう三年も前に卒業したOBじゃ」
そもそもその設定自体に無理があると思うんだけど、ゲームの制作者はいったい何を考えてたんだか。
大学生が、三年も前に卒業した高校の生徒に詳しいわけがないじゃん。そう思うのは、私が乙女ゲームをやったことがないからなんだろうか。
季人には全然まったくなんの非もない。むしろ、今持っているだけの情報を集めるのにもだいぶ苦労しただろうから、感謝の気持ちしかなかった。
「百合川陽良については後手に後手に回ってしまった。ゲームとは違う出会いだったのも焦った理由だよ。ゲーム知識が当てにならないんじゃ、本当に俺にできることは何もない」
そんなの。
季人が責任を感じること、ないのに。
この世界はゲームに酷似していて、でも私たちはたしかにここで生きていて。
人と人が関わり合うきっかけなんてそれこそ無限の可能性が存在していて。
攻略対象と関わる可能性をゼロにするなんて、そんなことは不可能だって、私だってちゃんとわかっていた。
少しでも面倒を避けるために、少しでも平穏を維持できるように。そのために動いてきただけだ。
面倒は避ける。君子危うきに近寄らず。
でも、巻き込まれたらそこでゲームオーバーなわけじゃない。
「何もできないことが、歯がゆかった。全力でサポートするなんて言っておきながら、肝心なときは役立たずなんて」
役立たずなんて思っていない。
そう私が言ったところで、季人は自分を責めることをやめないんだろう。
優しくて、従妹思いで、責任感が強いからなぁ。
季人が私の人生に責任を持たなきゃいけない義務なんてないのに。
彼がこうなってしまったのは、私が季人の厚意に甘えすぎていたせいなのかもしれない。
「……だからって、八つ当たりしていい理由にはならないね。ごめん、俺は俺自身に一番腹を立ててたんだ」
「私こそ、ごめん。夏休みだからって油断してた」
百合川陽良の襲撃を防ぐ手はなかったかもしれないけど、
報告・連絡・相談についてはもっとどうにかできたはずだ。
不測の事態にいっぱいいっぱいだった私には、あれが精一杯だったとはいえ。
私が百合川陽良とバトルしている間中、まんじりともせずに私からの連絡を待っていたんだろうから、心配が限点突破しても何も不思議じゃない。
むしろそこで、私に腹を立てないあたりが、季人の甘さを物語っている。
「これで本当に仲直り、だね」
季人に言わなきゃいけないことは全部言った。季人がおかしかった理由も確認した。
これでいつも通りに戻れるはずだ。うれしくて私はふふっと笑みをこぼす。
上機嫌な私は、伸びてきた季人の手を拒絶する気もまったく起きなくて。
大きな手にするりと手をすくい取られ、伝わってくるぬくもりに心があたためられる。
別に季人なら、少しくらい恥ずかしくてもいいか。
私よりもぬくい手は、夏の夜にはちょうどいいから。
ドキドキ、ドキドキ。
いつもとは違う音を立てる心臓も、今は妙に心地いい。
「……咲姫が、彼を好きになったらどうしようかと思った」
季人の口からこぼれ落ちたのは、迷子の子どもみたいな頼りない一言。
は? と思った。一瞬その言葉を理解することができなかった。
彼って、誰だ。話の流れ的に百合川陽良だろう。好きにって、どういうことだ。
……恋愛的な、意味で?
「いくらなんでも発想が飛躍しすぎじゃない?」
「そんなことない。攻略対象っていうのは、咲姫と恋愛関係になる可能性がある人たち。つまりは、咲姫が好きになる可能性があるってことなんだからね」
そりゃあ、理屈上はそうなのかもしれないけど。
学園の王子サマや生徒会長、チャラ男にお色気教師。あんな派手な人たちに恋に落ちる自分なんて、想像もつかなかった。
そもそも恋というもの自体、ピンと来ないわけで。
むしろまだ攻略対象の人たちよりは……。
私は浮かんだ考えをしっかり吟味することなく、口を開く。
「少し話したことがあるだけの攻略対象や、名前だけ知ってる攻略対象より、季人のほうがずっとずっと好きだよ」
私の言葉に、季人は目をまんまるにした。
めずらしい表情を見て、あれ? と今さらながらに思う。
これってなんだか愛の告白みたいじゃない? いやいやもちろんそういうつもりではないんだけど。
じゃあ、どういうつもりかって、そりゃあ従妹のつもりだ。妹もどきのつもりだ。
「……わかって言ってるのかな」
「何を?」
「いや、いいんだけどね」
はああ、と季人は少し重たげなため息をついた。
私の手を握る手に、痛くない程度の力がこめられる。
「俺は、咲姫が誰かを攻略する気でいたなら、サポートはできなかったよ」
思えば最初から、季人は『攻略対象を避けるために』力を貸すと言っていた。
それは私の性格を考慮して、ということもあったんだろうけど。
ずっと、恐れていたのかもしれない。
私が私でなくなってしまうことを。大切な従妹が別の誰かにすり替わってしまうことを。
「咲姫がこのゲームをプレイするつもりがなくて、よかった」
穏やかな、けれど弱々しげな笑み。
季人にとって私は、良くも悪くも泣き所なんだろう。
うれしい、と思ってしまって、ごめんなさい。