それから十数分ほど車は静かに走り、無事に花園家へと到着した。
初めて見る花園家の豪邸にぽかーんとする暇もなく、出迎えてくれたのは鬼の形相をした彩ちゃんだった。対百合川陽良限定で。
すぐに帰るつもりだった私は、彼女に引きずられるようにして連れられて、なぜか今、百合川陽良と一緒に応接間にいた。
そうしてなぜか、彩ちゃんと百合川陽良の口論を聞く羽目になっていた。
「本当に陽良は私の話を聞かないんだから! 咲姫ちゃんは大丈夫だって言ったでしょう!?」
「それはあくまで君の判断だからね。正しいとは限らない」
「少しは信用してくれたっていいじゃない!」
「悪いけど、人を見る目に関しては彩を信用することはできない」
「……っ!! 陽良のバカ!!」
うわぁ、出た、バカって。バカって。これは子どものケンカだろうか。
本当に最近は彩ちゃんの意外な面ばかりを見ている気がする。百合川陽良の前ではこんなに子どもっぽかったのか。
それだけ、子どものころから信頼関係を築いているってことだろう。た、たぶん。
嫌いだからきつく当たっているわけではないと思いたい。それだとあまりに百合川陽良が報われない。
まあ私は彩ちゃんの味方なので、もし百合川陽良のことが嫌いなら全力で逃亡を手助けする気だけれど。
「彩ちゃん、そのへんで。私は大丈夫だったから」
「咲姫ちゃん……でも……」
百合川陽良を睨んでいた瞳が、こちらを向いた瞬間へにゃりと情けない顔になった。
彩ちゃんが何を気にしているのかはもちろんわかっている。
なるべく攻略対象を避けたいという私の意向は、つい最近話したばかりだ。
結果的に、自分のせいで百合川陽良が私に目をつけて、こうして実力行使にまで出てしまった、と。彩ちゃんは気に病んでいるんだろう。
攻略対象を避けたいという考えは今も変わっていない。面倒事は回避してなんぼ。
けど、今回にいたっては、わりとどうにかなりそうな気がしている。
「大丈夫、大丈夫」
「……なら、いいのだけど」
にっこりと笑いかければ、彩ちゃんは納得しきれない様子ながらも引き下がった。
そんな彼女に私は近づいていき、すぐ傍にいる百合川陽良には聞こえないよう、小声で耳打ちをした。
「ほら、バカって言われて落ち込んでる人がいるよ」
「陽良はそれくらいで落ち込んだりしないわ」
「そうかなぁ」
彩ちゃんに観察力がないのか、当人だからこそ気づけないのか。
今の百合川陽良は私から見ると、飼い主の機嫌を損ねてしまった猫が、強がってそっぽ向いてるみたいな顔をしている。
「どうしてこんなことをしたのか、彩ちゃんもわかってるよね?」
百合川陽良のためじゃなく、彩ちゃんのために、私は助け舟を出した。
たしかに百合川陽良は勝手なことをしたけど、彩ちゃんを心配する気持ちは、理解できなくもない。
しっかりしているように見えて、情にもろくてそそっかしいところがある。そう百合川陽良は彩ちゃんを評した。私もそのとおりだと思う。
何より、百合川陽良にとって彩ちゃんが大切な存在だからこそ、些細なことでも心配になるんだろう。
別に危なっかしいわけでもない私のことを、当然のように季人が心配するのと同じで。
「……言い過ぎたわ、ごめんなさい」
「いや、僕のほうこそ」
彩ちゃんが謝ると、百合川陽良もわりとあっさり自分の非を認めた。
「僕も過保護すぎるのかもしれない。でも、それが必要なくらいに君の立場が難しいものだということも、わかってほしい。僕の干渉がわずらわしいと言うなら、彩子ももう少し警戒心を持って」
真剣な顔で、百合川陽良は彩ちゃんに向かい合う。その空色の瞳には彩ちゃんしか映っていない。
イケメンでも、腹黒でも、攻略対象でも。
こうやって、たった一人を本気で案じたり、たった一人に本気で恋したり、するんだなぁ。
「今回は、僕の思い過ごしだったようだから謝るよ、ごめん。立花さんもごめんね」
「誤解が解けてヨカッタデス」
ようやくこっちを向いた百合川陽良に、私はぎこちなく苦笑いを返す。
にこやかに笑い返すことなんてまだできそうにない。でも、彼への不信感はすでに消え失せていた。
彼が彩ちゃんに見せる表情に、告げる言葉に、嘘が見当たらなかったから。
どうせイケメンは、なんていうレッテルを貼っていられなくなった。
私のイケメン嫌いの始まりは、実の父親だ。
子どものころ、格好いいお父さんだねって言われるたびに誇らしかった。自慢の父親だった。
それが、五年前に一変した。
モデルみたいにきれいな顔を思い出すたびに、記憶に泥を塗りたくりたくなった。
許さない。許せない。大嫌いだあんなやつ。
あいつは嘘をついた。私たちをしあわせにするって、一生大事にするって嘘をついた。
イケメンは平気で嘘をつく。平気で人を傷つける。平気で、大切だったはずのものを捨てる。
イケメンなんて、嫌いだ。何を言われたって信じられない。また、傷つけられるかもしれないと思うと……怖い。
中学生のときの同級生に、最低な性格のイケメンがいたのも拍車をかけた。
顔が、性格に直結しているわけじゃないことなんて、きっと本当はずっと、わかっていた。
でも、顔のせいにしてしまいたかった。私たちが捨てられたのも、イケメンだったから心変わりしても仕方ないんだって思えばまだ心が楽だった。
こうやって、個人に触れてしまえば、そんな偏見は簡単に溶けて消えていってしまうものなのに。
ガチガチな固定観念で自分を守っていたことが、恥ずかしい。そうでもしないと自分を保てなかったことが馬鹿みたいだ。
もちろんあいつを許すつもりはないけど、イケメンだからというだけで蛇蝎のごとく嫌うことは、もうできない。
……まあ、イケメンとの接触は、注意を払わないと面倒なことになるのはわかっているので、なるべく関わらない方針でいくのは変わらないけど。
行動は今までどおりでも、気持ち的な面ではだいぶ違う。
「迷惑料というわけじゃありませんが、一つばかりお願いがあります」
ピッと人差し指を立てて百合川陽良と視線を合わせる。
「学校では、というよりも人の目につくような場所では、よほどの用があるとき以外は話しかけてこないでください。百合川先輩は目立ちすぎます。私は好奇の目にさらされたくはありません。それに、私という前例があれば、彩ちゃんにも累が及びます」
百合川陽良の矢印が彩ちゃんに向いている以上、ゲームの攻略対象として警戒する必要はなくなる。残る問題は、彼が非常に人目を集める有名人だということ。
要は花園学園の生徒の、より正確には百合川陽良のファンの目に触れさえしなければいいんだ。
私の平穏な学園生活のために、必要な交渉。百合川陽良にとってもそう悪くはない提案だと思う。
彩ちゃんと仲のいい私が百合川陽良と交流を持つようになれば、彼と縁を結びたいがために彩ちゃんに近づく人が出てくる。まあそんなやからは今までにもいくらでもいただろうけど。
「もちろんわかっているつもりだよ。僕ももう君をどうこうしようという気はないからね。そのようにさせてもらうよ」
百合川陽良のその言葉に、今さらながらぞっとした。
どうこうしようという気があったなら、彼は何をしたのか。そんなの少し考えればわかることだ。
私の出方次第では、学校での接触も考えていたんだろう。
たとえば、みんなの前で、ちょっとだけ私を特別扱いする。百合川陽良は何もしなくても、それだけで噂は広がる。それだけで私は、百合川陽良のファンに吊し上げられる。そういう寸法だ。
私の平穏は、彼のたった数分の行動であっけなく壊れる程度のものということ。
あーこわい百合川陽良こわい。やっぱり腹黒とは仲良くなれそうにない。
「それでは私はこの辺で失礼させてもらいますね。ごめんね彩ちゃん、送ってもらえる?」
前半は百合川陽良に、後半は彩ちゃんに向けて言った。
百合川陽良の車で家に帰るのは危険だ。降りるところを誰かに目撃されでもしたら一貫の終わり。
だからこそわざわざ彩ちゃんの家まで来たんだから、ここは彼女の厚意に甘えるしかない。
「もう? お茶くらいは飲んでいっても……」
「コンビニ行くだけのはずだったからさ。家族が心配してて」
引き留めようとする彩ちゃんに、私は携帯を取り出して正直に答える。
心苦しいけどここは断らせてもらおう。車の中でメールしたから通知のバイブは鳴りやんだけど、きっとかなり心配しているはずだ。
「そう……なら仕方ないわね。また今度招待させて? 咲姫ちゃんの好きなケーキを焼くから!」
「そのときは僕もご相伴に預かれるのかな」
「それは咲姫ちゃん次第ね」
「……まあ、彩ちゃんの家なら問題はないかと」
答えるのに少々間があいてしまったのは、いまだ百合川陽良への苦手意識が残っているからだ。
でも、ここで拒絶するほどの何かがあるわけでもない。私は平穏な学校生活さえ送れればいいんだから。この場合、最終決定権は主催者である彩ちゃんにあるわけだし。
「楽しみね!」
ああ、彩ちゃんの笑顔がまぶしい。
* * * *
彩ちゃんの家の車で、無事に家に帰ってきて。
オレンジ色に染まる空を見上げて、ずいぶん長い買い物になったわりに結局ハーゲンタッツは買えなかったなぁなんて思いつつ。
ただいまー、と言いながら玄関を開けたら、満面の笑顔の季人に出迎えられた。
「ドライブは楽しかったかい? お姫さま」
あーーーこれはやばい、目が笑ってない。こわい。
ぶっちゃけさっきの百合川陽良が目じゃないくらいにこわい。
ちらりと玄関に並んでる靴を見れば、伯母さんの靴が見当たらない。買い物にでも出かけているらしい。つまり、現在この家に味方はいない。
最初、彩ちゃんにSOSを出すときに一緒に心配しないでってメールしたし、百合川陽良との攻防が一区切りついたところでも大丈夫だってメールした。彩ちゃんの家で話が終わってからこれから帰るともメールした。
季人が心配性なのはよくわかっていたから、報・連・相は、相談除きしっかりやったつもりなんだけども。
正直、これほど心配をかけるようなことだっただろうか……と振り返ってみてもよくわからない。
今日は色々ありすぎて、頭が飽和状態だ。
お姫さま、なんて。そう呼ばれたのはいつぶりだろう。少なくとも高校生になってからは初めてな気がする。
私の機嫌を取るとき。私を慰めるとき。茶化して私の心を軽くするとき。
いつも私のためを思って呼ばれていたそれが、今は如実に彼の心理状況を表している。
私のことを心配しすぎて、怒り心頭……ということを。
「心配かけてごめんなさい……」
百合川陽良とは交渉して、ちゃんと平穏は守りきれたとか、そういった説明はあとだ。
ここは、ちょっと理不尽に感じても謝り倒すしかない。
普段温厚な人ほど、怒ったときは怖い。私はそれを身にしみて知っている。
そこまで本気で怒られたことなんて、過去に数えるくらいしかなかったけど。
「……心配、ね」
季人は小さな声でつぶやいてから、ふう、とため息をついた。
いつもなら、それでお怒りモードはおしまいになる、はずだった。
けど、今回はそう簡単にはいかなかったらしい。
「っ、季人?」
肩が、押された。
背中が、玄関扉にぶつかる。
季人の片手は私の肩を、もう片方の手は私を囲うみたいに顔のすぐ横についていて。
なんだろうか、この体勢は。なんだろうか、この閉塞感は。
意味もわからず心臓が大きな音を立て始めた。
季人は、ただ私を見下ろしていて。
いつにない怖い顔をしていて。
それなのにどこか泣き出しそうな表情にも見えて。
なんで、どうして、と余計に頭が混乱する。
「咲姫は、」
こつん、と。
季人の額が、私の肩に乗せられた。
「咲姫はどうせ、わかってない。俺がどれだけ、心配したのか。……どれだけ恐ろしかったか」
どうせ、なんて言われても反発する気にはなれなかった。だって本当にわからなかったから。
恐ろしかった、って、何……?
どうしてこんなに、季人の身体は、季人の声は、震えているんだろう。
「すえひと……?」
声が、かすれた。
季人がここまで弱っている事実に、驚きを隠せない。
いったい何が彼を追いつめたのか、まったく思い至らない。
季人が心配性なのは知っている。季人が私のことを大事に思ってくれているのも知っている。
でも、この狼狽っぷりは、まるで私に生命の危機が迫っていたかのようだ。
百合川陽良には少々危険なイベントが存在すると聞いていたけど、今回がそれに当てはまらないのは、状況的に季人だってわかっていたはずだ。
季人は何を心配していたの?
何がそんなに怖いの?
季人が……なんか、変だ。