32:味方《サポート》がいるから大丈夫

 百合川陽良がやってきてから、何分が経っただろうか。
 私にはこの時間が永遠のように感じられた。
 すぐ近くに百合川陽良がいると思うと、身じろぎ一つできなかった。
 呼吸の音や、鼓動の音すら、彼に聞こえてしまわないかと不安になって。
 息なんて止めようがないのに、両手で口をふさいでいた。

 百合川陽良は、どうやら花園さんを待っているようだった。
 名前で呼んでいるということは、親しい仲なんだろう。
 私と約束していたはずの花園さんが、どうして彼とも約束をしたのかはわからないけれど。
 しかも、よりにもよって同じ放課後に、同じ場所で、なんて。
 そこに意図的なものを感じるのは、勘ぐりすぎだろうか。

「電話に出ないなんて、どこで何をやっているんだか」

 さっきから、何度か花園さんに電話をかけているようだ。
 中性的な美声は、わかりやすく苛立ちを含んでいた。
 誰にも見られていないと思って、素の自分を出しているんだろう。
 設定として知っていただけの二面性が、今は怖くて仕方がない。

「……仕方ない、帰ろう」

 待ち望んだ言葉が、百合川陽良の口から吐き出された。
 続いて聞こえてきたのは、ゆっくりと立ち去る足音。
 育ちのよさがわかる足音が、だんだんと遠ざかっていく。
 それが完全に聞こえなくなったところで、私はようやくちゃんと呼吸できるようになった。

「怖かった……」

 まだ少し足が震えている。心臓の音がうるさい。
 絶対に、絶対に出会ってはいけないと思っていた攻略対象。
 百合川陽良には、学園に非公認ファンクラブがある。
 どこの少女漫画だとツッコミを入れたくなるけれど、元が乙女ゲームなのだからしょうがない。
 彼と出会いイベントを起こし、万が一個人的な関わりを持ってしまったりしたら。
 恐ろしい目に遭うのは想像に難くない。
 平穏な学園生活を送りたい私としては、絶対に知り合いたくない人種なのだ。

 植え込みの陰から出て、大きく深呼吸する。
 一応、きょろきょろと周りを見回してみたけど、遠くから運動部のかけ声が聞こえるだけで、中庭には人影はない。
 帰ると言っていた百合川陽良が戻ってくることもないだろう。
 衝撃は去ったものの、まだ完全にいつもの調子を取り戻したわけじゃない。
 私も帰らなきゃ、と思うのに、足が動いてくれない。
 気づけば、携帯電話を取り出して、短縮で電話をかけていた。

『――咲姫? どうかした?』

 三回のコール音のあと、季人の声が鼓膜を揺らした。
 その心配げな声に、情けないくらいにほっとした。
 電話特有のノイズが邪魔だとすら思う。

「えっと、ごめん。今、大丈夫?」
『うん、家で本読んでただけだから、大丈夫だよ』
「そっか……」

 季人は講義のあと、いつもあまり寄り道をすることなく帰ってくる。
 大丈夫だろうとは思っていたけれど、予想が外れなくてよかった。
 言うことを聞かない足を動かして、近くのベンチに座る。

『メール、見た?』

 季人の問いかけに、さっきメールをもらったばっかりだったことを思い出す。
 このタイミングで電話をかけたら、そのメールのことで電話したと思われるのが普通だろう。

「見たよ。……それについては、帰ったらで」
『了解。他にすぐに話したいことでもあった?』

 そう尋ねる季人の声はどこまでも優しい。
 何があったのか、知っているはずがないのに。
 私の様子がいつもと違うことに、気づいているんだろう。
 本当、この従兄には敵いそうにない。
 こうして話しやすい空気を作ってくれるのがありがたくて、遠慮なく寄りかかりたくなってしまう。

「帰ってからでも……よかったんだけど」

 ボソリ、とつぶやきながら、震えの治まってきた膝をなでる。
 そろそろ普通に歩いて帰ることができそうだ。
 でも、通話を切って帰ろうという気にはなれなかった。

「なんか、季人の声聞いて、安心したくて」

 素直になるのが恥ずかしくて、声はどうしても小さなものになってしまった。
 一番関わりたくない攻略対象が、さっきまで目と鼻の先にいたのだ。
 少しでも音を立てたら、気づかれていただろう。
 中庭という条件は満たしていた。出会いイベントが発生してしまう可能性は高かった。
 イケメンは苦手だ。イケメンは嫌いだ。イケメンは……怖い。
 なんとか出会わずにすんだことを、いつもと変わらない季人の声を聞いて実感したかったのかもしれない。

『安心できた?』
「ちょっとだけね」

 私はそう言って少し笑う。
 ちょっと、だなんて、思わず格好つけてしまった。
 本当は、声を聞いた瞬間、泣きたくなるくらいに安心したのに。
 季人はいつもいつも、私の精神安定剤になってくれる。

『どうしたらもっと安心させられるかな』

 私の気持ちを知ってか知らずか、季人は無制限甘やかし癖を発動する。
 もう充分、と言おうとして、少し逡巡する。
 あともう少しくらい、甘えても許されるだろうか。

「季人は……私の、味方なんだよね」

 季人はことあるごとに言う。『俺は咲姫の味方だよ』と。
 その言葉が、実はかなり心の支えになっているんだって、ちゃんと自覚している。
 季人はいつも、私の欲しい言葉をくれる。
 世界でひとりぼっちになってしまったような気持ちになっていたときだって、季人の言葉に救われた。
 魔法みたいな優しく甘い言葉を、今、聞かせてほしくなった。

『うん、そうだよ』

 間髪入れずに、肯定が返ってきた。
 そこには少しの迷いもなかった。

『咲姫がどんな子でも、咲姫が何をしても、誰が咲姫を嫌っても、俺は咲姫の味方だよ。咲姫がつらい目に遭っているなら助けたいし、咲姫がしあわせになるためならどんなことでもしてあげる』

 穏やかな声が、優しく心に響く。
 まるで、頭をなでられているように、全身を包み込まれているように。
 安心感が身体中に広がって、ああ、もう大丈夫だ、という気がしてきた。
 気休めなんかじゃない、と私にはわかる。
 きっと季人は、私のためならなんだってしてくれる。
 今までがそうだったように。

「……ほんと、季人は私に甘いんだから」
『それくらい、咲姫は俺にとって大切な存在ってことだよ』
「シスコン」
『ブラコンに言われたくないな』

 ああ言えばこう言う、といった感じで遠慮なく言い合う。
 なんだか楽しくなってきてくすっと笑うと、電話越しに季人の笑い声も聞こえてきた。
 季人のおかげで、すっかりいつも通りの調子に戻った気がする。

「……ありがと」
『どういたしまして』

 理由も言わずにお礼を告げると、わかってるとばかりの返事。
 敵わないなぁ、と再度思った。

「じゃあ、これから帰るよ。私からも話すことあるし」
『迎えにいこうか?』

 その問いかけはとても自然に私を気遣うものだった。
 心配性だな、と私はひっそり苦笑する。
 ベンチから立ち上がって、スカートについた埃を払う。
 足はしっかりと地面を踏んでいる。心臓も変な音を立てていたりはしない。

「大丈夫。ちゃんと帰れるよ」

 私は電話の向こうの季人に、きっぱりとそう言いきった。
 帰って、話さないといけないことがある。
 花園さんのこと。百合川陽良のこと。
 これから、どうするのかについて。

 正直危なかったけれど、百合川陽良とは、まだ出会っていない。
 まだ、悲観するようなことなんて何も起きていない。


 大丈夫、私には心強い味方サポートがいるんだから。



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