21:真夜中の珍事はピアノの音と共に

 携帯のトップ画面を見ながら、あと何分、あと何秒、と数える。
 プレゼントはすでに手に持っていて、準備万端だ。
 日付けが変わった瞬間に、時間を見ていた携帯を机に置いて、部屋を出た。
 そしてそのまま、隣の部屋の戸をノックして、返事を待たずにガチャリと開けた。
 部屋の主は、学習椅子に腰を下ろしたたままこちらに顔を向けていた。
 少し驚いたような顔をしている彼に、私は笑いかける。

「季人、誕生日おめでとう」

 そう言いながら、歩み寄っていく。
 目をぱちぱちとさせた季人は、少ししてふんわりと笑みを浮かべた。

「ありがとう、咲姫」

 本当にうれしそうな様子に、私も笑みを深める。
 私の誕生日に、その日になってすぐにお祝いしてもらえてうれしかったから、私も真似してみたのだ。大成功なようでよかった。
 お祝いの言葉だけでこんなに喜んでもらえたなら、プレゼントを渡したらどうなるんだろう。
 私が中学生になったときくらいから、毎年誕生日にはプレゼントを贈っていたし、まさか今年は何もなしだなんて思ってはいないはず。
 当日にこうして祝うのは初めてのことだから、驚いたのかな。

「これ、プレゼント。パーティーのときに渡そうか悩んだんだけど、どうせだし今日から使って」

 そう言ってプレゼントの包みを手渡す。
 中身は奮発して買ったイヤホンだ。
 大きな電気屋さんだったからか、簡単なものだったけどちゃんと包装もしてもらえた。

「ありがとう。開けていい?」
「もちろん」

 私が答えると、季人は早速とばかりに包装紙を剥き始めた。
 破かずにちゃんとテープを爪で切って開けるあたり、几帳面だよね。
 イヤホンがプレゼントだってことは、贈ろうと決めたその時に季人にばれている。
 問題は、前に使っていたイヤホンが、たぶんそれなりに値が張るものだったということ。
 私的には奮発したとはいえ、がっかりされないかが心配だ。
 中から出てきたイヤホンの箱の裏表を見ながら、季人は表情を和らげた。

「あ、このメーカー知ってる。高かったでしょ?」
「プレゼントなんだから、値段は気にしないの」

 とりあえず及第点は取れそうだ、と私は内心ほっとする。
 季人はなんだかんだで頑固で妥協しないところがあるからなぁ。
 お眼鏡に適う品だったようで、よかった。

「せっかくだし、一緒に聴いてみる?」

 イヤホンの箱も丁寧に開けながら、季人はそう提案してきた。
 たしかに、電気屋で試し聴きはできなかったから、音質は少し気になる。
 聴いたところで、普段曲を聴かない私にわかるとは思えないけど。

「じゃあ、ちょっとだけ」
「わかった。少し待ってて」

 そう言って、季人はスピーカーで小音量で聴いていた曲を止め、学習机の横にかけてあったカバンの中からウォークマンを取り出す。
 それに出したばかりのイヤホンを取りつけて、片一方を私に手渡す。
 耳に着けてみると、音楽が聞こえてきた。
 情調的なピアノの演奏だ。聞き覚えのあるクラシック曲だけど、題名はわからない。

「音、どうかな?」

 もう片方を耳に着けている季人を見上げて、問いかけてみる。
 やっぱり私には音質がどうのっていうのはわからなかったから。

「うん、いい感じ。高音も低音もバランスよく聞こえるね」
「ならよかった」

 機嫌がよさそうに笑っている季人を見て、私は安堵の息を吐いた。
 まだ少し残っていた不安が、全部消えてなくなった。
 一応、口コミとかもチェックしたけど、音楽に詳しくない私には半分も理解できなかった。
 電気屋さんに置いてあった中で、一番高いイヤホンを買うことができたなら、不安に思うことなんてなかったんだろうけど。
 予算的にどう考えても無理でした。
 上から三番目の値段のイヤホンでも、季人を満足させることはできたらしい。

「季人って、洋楽好きだよね」

 イヤホンから流れるクラシックを聴きながら、前から思っていたことを口にする。
 季人がいつも部屋で流している曲も、ピアノやヴァイオリンやチェロなんかのソロや合奏、オーケストラのものや、たまに何語かすらわからないオペラのときもある。
 クラシックだけじゃなくて、この前みたいに西洋楽器に合わせて編曲されたものなんかもよく聴いている。
 洋楽というよりも、西洋楽器が好きなのかな?

「民族音楽も好きだよ」
「懐古主義なの?」
「そういうわけじゃないよ」

 季人は苦笑しながら否定して、それからふと手の中のウォークマンへと視線を落とす。
 ウォークマンを見ているはずの瞳は、その実、何も映してはいなかった。

「電子音じゃなければ、なんでもよかったんだ。ポップスはどうしても電子音が入ってくるから、洋楽とか民族調な曲ばかり聴くようになっただけ」

 いつもと変わらず穏やかに微笑んでいるのに、私にはなぜか泣いているように見えた。
 イヤホンから流れる音楽に耳をかたむける。
 打ち込みじゃない、ピアノそのものの演奏だ。
 季人がこれを聴く理由は、好きだからではなく消去法なのだという。

「電子音って、シンセとか? それとも生演奏じゃないものは全部?」
「まあ、そんなところ」

 打ち込みもダメ、か。
 そうなるとたしかに、J-POP系はほぼ全滅だろうなぁ。
 ギターとかベースとかは生演奏なことも多いけど、電子音の入っていない曲を探すのは難しいだろうと、あまり音楽に詳しくない私でもわかる。

「なんで嫌いなの?」
「……嫌いというか、単に、好みに合わないだけだよ」
「そういうもん?」

 首をかしげた私に、顔を上げた季人が笑いかける。

「食べ物の好みと一緒だよ。どうしても好きになれないものってあるでしょ」
「それは、そうかもしれないけど」

 赤貝なんかのコリコリとした食感が苦手な私には、そのたとえはわかりやすかった。
 食べ物の好き嫌いというものは、理屈じゃない。
 もちろん、苦いからとか辛いからとか食感が嫌だからとか、何かしら理由はあるものだけれど、とにかく嫌いなものは嫌い。これにつきる。
 音楽も、それと一緒なんだろうか?
 耳障りじゃなければなんでも聞ける私には、季人のこだわりは理解できない。

「電子音に、邪魔されたくないんだ」

 静かな声で、けれどはっきりと、季人は告げる。
 抑揚の少ない声は、何かしらの決意のようなものを感じさせた。

「何を?」

 緑混じりの焦がれ色の瞳を見つめながら、私は尋ねる。
 そんなに長居するつもりはなかったから立ったままだけれど、そろそろずっと上向いていて首が疲れてきた。
 けれど、視線はそらせなかった。
 なんとなく、重要な答えが返ってくるような気がしたから。

 季人はうっすらと微笑みながら、私に手を伸ばしてきた。
 その手に私の頬を包み込まれ、親指の腹で優しくなでられる。
 手のひらは頬に接したまま、長くきれいな指が、私の耳の形を確かめるように縁をなぞっていく。
 微妙なこそばゆさに、勝手に肩が跳ねた。
 私を映す瞳の奥に、私の知らない色が宿っている。
 それを見て、私はなぜか、怖い、と思った。
 クライマックスとばかりに鳴り響くピアノに、鼓動が重なった。

「……季人?」

 戸惑いながら名前を呼ぶと、季人はにっこりと笑った。
 そうして、私の耳に触れていた手でイヤホンを取り、ウォークマンを停止させた。
 急に聞こえなくなったピアノの音に、私は心許なくなる。

「さ、早く寝ないと。もう夜遅いよ」

 私の肩をつかんで、ドアのほうへと方向転換させる。
 そのまま背中を軽く押されれば、もう部屋を出ていくしかない。
 季人にも聞かれたくないことの一つや二つはあるだろう。
 うかつに季人の内面へと踏み込んでいいものではない。
 たとえ、従妹でも。
 いや、従兄妹という近しい関係だからこそ、距離感は気をつけないといけないのかもしれない。
 たまに間違えそうになるのは、私が季人に甘えきっているせいだ。

「おやすみ、咲姫。プレゼント、大切に使うよ」

 部屋から一歩廊下に出た私に、季人は笑顔でそう言った。
 その表情からは、先ほど見た影も、見知らぬ色も、きれいに消え去っている。
 私はなんだか狐につままれたような気分になってしまった。

「……おやすみ」

 言いながら、私は季人から視線をそらした。
 顔を見ていられなかったことに、特に理由はない。たぶん。
 そんな私の頭を、季人はぽんぽんと優しくなでた。
 いつもどおりの季人だ。どこもおかしいところはない。
 おかしいのは、私のほうなのかもしれない。
 ぎゅっと、胸元でパジャマを握った。

「また明日」

 その言葉を残して、バタン、とドアが閉められる。
 廊下に一人になった私は、大きく深呼吸をする。
 それからくるりときびすを返した。
 部屋に戻って、寝よう。
 そうすれば、変な気持ちは全部なくなるはず。
 明日には何もかも元どおりなはず。


 耳まで熱いのは、季人の体温の高い手であたためられただけ、のはずだから。



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