休日出勤の帰りに寄った、会社からほど近いカフェ。
そろそろ店を出ようか、と思ったところで、声をかけられた。
「久しぶり。……俺のことなんて、忘れちゃった?」
振り向くと、そこにいたのは整った容姿の、私とあまり年の離れていないだろう男性。
パッと見てすぐに、見覚えのある顔だということはわかった。
少し記憶をたどっただけで、彼が誰なのかを思い出すことができた。
「高杉くん、でしょう? 忘れるわけないじゃない」
私はそう、にっこりと笑いかける。
彼の名前は高杉健二。中学生のころの同級生だ。出席番号順で前後だったために、一緒に行動することも多かった。
高校も大学も別々だったけれど、学生のころに二度ほど同窓会があった。
社会人になってからは行っていなかったから、最後に顔を合わせたのはもう五年以上前のことだ。
整った顔立ち。和やかな目元に、特徴的な泣きぼくろ。
何より、その人好きのする笑顔が彼の最大の特徴。
「……忘れられるわけ、ないわ」
小さくつぶやくと、彼は目を丸くした。
どういう意味なのかわかっていないんだろう。
そんな彼に、私はクスリと笑みをこぼす。
「今でも覚えてるわよ、あなたが私につけてくれたあだ名。クレーターだなんて、女子にひどいわよね」
「……それはむしろ忘れていてほしかったんだけど」
はは、と高杉くんは苦笑い。
彼も当時のことを忘れてはいなかったらしい。
一般的に、いじめた側はそのことを覚えていないと言うけれど、高杉くんには当てはまらなかったようだ。
まあ、いじめというほどのものでもなかったのだけれど。
「当時の私はそれはそれは傷ついたものだったのよ」
周りにたくさんの人がいる同窓会ではネタにできなかった分、大げさに言ってやった。
ニキビがひどかったから、ボコボコの月面のようだということで、クレーター。
思春期の女の子につけるにはずいぶんなあだ名だ。
とはいえ、別に高杉くんとの仲はそれほど悪くなかった。
クラスのまとめ役だった私と、クラスでムードメーカー的存在だった高杉くんは、衝突することもあったけれどなんだかんだでお互いを尊重しあっていたように思う。
男子が女子をからかうのなんて、義務教育中ならよくあることだ。
「……ごめん」
ほとんど冗談だったというのに、高杉くんは真面目な顔をして謝ってきた。
今度は私のほうが目を丸くする番だった。
それから少し懐かしくなる。
ああ、こういうところ、変わっていない。
卒業式の日にも、今までひどいあだ名で呼んでいてごめんと、彼は真っ赤な顔をして謝ってくれたっけ。
「もう、いいわよ。水に流してあげる」
別に私も、十年以上も前のことを本気で根に持っていたりはしない。
たしかに当時は多少傷ついてはいたけれど。
高杉くんが本気で言っていないことくらいは、中学生のときの私でも気づいていたから。
「それは、ちょっと困るかな」
「え?」
困るとは、どういうことだろう、と私は首をかしげる。
高杉くんはどこか照れくさそうに笑った。
「高橋は知らないよな。あのあだ名、ただの照れ隠しだったってこと」
「照れ隠し、って?」
「俺、好きだったんだよ。中学生のとき、高橋のことが」
衝撃的なカミングアウトに、私は思いきり目を見開いた。きっと間抜けな顔になっているだろう。
それはさすがに気づくことができなかった。
けれど、言われてみれば、思い当たる節がないわけじゃない。
「……そういうことだったの。ちょっと納得」
男子が女子をからかうのなんて、義務教育中ならよくあること。
好意を持っている女子なら、余計に。
卒業式の日の、あの真っ赤な顔は、もしかしたら告白しようとしていたのかもしれない。
けれど最後の最後でも素直になれずに、謝るだけになってしまったのかもしれない。
憶測でしかないけれど、そんな気がした。
「思春期まっただ中だったからなぁ。素直になるのが難しかったんだよ。今思い出すとすごく恥ずかしい」
「男の子って、好きな子をいじめちゃうことがあるものね」
「そう、まさにそれ」
秘密のなくなった私たちは、屈託なく笑い合う。
過去と現在は地続きではあるけれど、やっぱり過去は過去。今の自分では考えられないような失敗を犯したりする。
特に思春期などという、自分ではどうしようもないジレンマに悩まされるような期間は。
「好きだからって、何を言ってもいいわけじゃないけど。そんなかわいい理由なら、許すしかないわね」
何しろ十年以上も前のこと。
許さないなんて選択肢は元からなかったものの、思いもよらないことを聞かされてしまっては、過去の浅い傷なんてどうでもよくなる。
残っていたのかどうかも怪しいくらいのわずかなわだかまりも、きれいさっぱり消えていく。
クラスの人気者だった高杉くんに想いを寄せられていただなんて、むしろ得した気分だ。
「まだ許してくれなくてもいいよ」
「どうして?」
高杉くんが何を考えているのかわからずに、私は尋ねる。
許してほしかったから、恥を忍んでまで理由を話したんじゃないの?
不思議そうな顔をする私に、高杉くんは朗らかな笑みを見せた。
「許してもらうために、お詫びに夕食奢らせてよ」
「そんな、悪いわ。もう気にしていないのに」
「ダメかな? 正直、お詫びは口実でしかないんだけど」
口実……と、口の中でつぶやく。
お詫びが口実なら、ただ単に私と一緒にご飯が食べたい、ということだろうか。
それは、どうして?
奢りたがり、という可能性も、ないわけではないけど。
それよりも……。
「もしかして、ナンパ?」
「ナンパ、よりも真剣なつもり」
「……本気?」
私の問いかけに、高杉くんは笑みを深くする。
それは今までのさわやかなものとは少し違って、女性を魅了する色香を感じさせた。
思わず、私でさえドキッとしてしまうほどに。
「過去は過去、のつもりだったんだけど。偶然入ったカフェで懐かしい顔を見かけて、男連れで残念って思ってたら、どうやら恋人ではなさそうでさ。その上君は彼がいなくなったあとに涙なんて見せるし。気にするな、ってほうが無理じゃない?」
その言葉に、胸がズキリと痛んだ。
始まることもなかった恋を、思い出してしまったから。
ここでさっきまで一緒にいたのは、仕事の同僚。
過去の恋を、まるで終わったことのように語る同僚に、発破をかけた。
同僚の恋の相手は、私ではない。私の大切な親友。
過去の恋がまだ終わってはいないことを。親友が、今でも同僚を想っていることを、教えてあげた。
そして、二人の再会を、私はきちんと祝うことができていたはずだ。
私の気持ちを同僚は知らない。気持ちも何も、そもそも恋と呼べるほどに育つこともなかった。
……なのに。
第三者の目には、そうは見えていなかったんだということが、わかってしまう。
高杉くんは、私が振られたとでも思っているんだろう。
やっぱり、涙なんて流すんじゃなかった。
「一部始終を見られていたわけね。できたら忘れてほしいんだけど」
ため息を一つついて、私はそう言った。
数年ぶりに再会した昔なじみでしかない高杉くんに、事情を説明するつもりはない。
親友も、同僚も、私のことを信頼して自分のことを話してくれた。
それを第三者にもらすなんてこと、できるわけがない。
「じゃあ、忘れてあげるから、今度デートしよう」
「ランクが上がっているのは気のせい? お詫びじゃなかったの?」
「お詫びは夕食、交換条件はデート。ダメ?」
笑顔で問いかけてくる高杉くんは自信満々の様子で、断られないとわかっているように見えた。
断ったところで、特に困ることはないかもしれない。
でも、彼の笑みを見ていると、なんだかここで断るのももったいないような気がして。
私は苦笑をこぼして、うなずいた。
「しょうがないわね。それくらいなら付き合ってあげるわ」
それで忘れてくれるなら、夕食や、たった一度のデートくらい安いものだ。
気晴らしとでも思えばむしろ楽しめるかもしれない。
別に生娘でもないんだから、今さらデートやそこらで騒いだりはしない。
……それに、今は、一人で食事をしたい気分ではなかったから。
ちょうどいい、と思っておくことにしよう。
「とりあえずはそれでいいよ。次につなげられるよう尽力するから」
高杉くんはうれしそうに顔をほころばせる。
まったく、どこまでが冗談なんだか。
「偶然に感謝したいな。もしかしたら、こういうのを運命って呼ぶのかもしれないけど」
「ずいぶんと口がうまくなったものね」
「十年も経ってますから」
ああ言えばこう言う。憎まれ口も多かった中学生のころとは本当に別人のよう。
そのにこにこ笑顔はとても無害そうなのに、人を乗せるのがうまいようで、舐めてかかっていては痛い目を見そうだ。
「私のこと、いじめたいの?」
なんの気なしに、そう聞いてみた。
中学生のころ、私のことが好きだったから『クレーター』なんてあだ名をつけてからかってきた彼。
今も、同じなんだろうか。
好きな子への態度は。――私への、想いは。
過去は過去のつもりだったけど、と言った彼は、今の私にどんな思いを抱いているんだろうか。
夕食やデートに誘うのは、どういった意図で?
「今は、甘やかしてあげたい、かな」
高杉くんは、甘くやわらかく微笑む。
まるで、好きな子へと向けるような表情に、私には見えた。
そんな顔をされたら、うぬぼれてしまいそうになる。
もしかして、高杉くんは、今でも……とか。
次につなげられるようにとか、運命とか、まるっきり冗談というわけではないのかもしれない、なんて。
ただの気のせい、なんだろうけれど。
これは、始まるかもしれない恋、とでも言えばいいのか。
まだ名前をつけられない胸の高鳴りに、私は惑わされている。