恋愛なんて面倒くさい。そう言ってのけた彼に、私は理由を尋ねた。
彼はしばらく黙ってから、重い口を開いて。
そうして語ったのは、些細なすれ違いが大きな亀裂となって、ケンカ別れとなってしまった元カノの話。
「今となってはもう、過去の恋だ」
職場の同期の宮本は、そう話を締めくくった。
休日出勤した帰りに寄った、会社からほど近いカフェ。
お酒が入ってるわけでもないのに、なんで恋愛相談なんて受けているのか。
けれどこれは私が望んだこと。
私はこの時を待っていた。
やっと、やっと彼の口から本音を聞くことができそうだ。
「未練はないの?」
私は慎重に言葉を選んで、問いかけた。
宮本は気難しいところがある。彼の警戒心を刺激してはいけない。
同期としては仲がいいほうだけれど、友人と呼べるかは微妙な間柄。
そんな私に、ここまで話してくれただけでも、奇跡に近かった。
「ない……なんて、言えるわけない」
宮本はうつむいたまま、絞り出すような声を発する。
長い前髪に邪魔されて確かめようがないけれど、握りしめた自分の拳を見ているんだろう。
その手で、つかめなかったものを思い出しているのかもしれない。
「ずっと、ずっと好きだったんだ。簡単に忘れられるような気持ちだったら、こんなに苦しんでいない」
拳を、強くテーブルに押しつける。
力を込めて叩きつけないのは、さすが理性的な宮本らしい。
音を立てない拳が、余計に彼の苦しみを表しているように、私には見えた。
「でももう、すべて終わったことだ。過ぎ去ってしまったものは、二度と取り戻せない」
一つため息をついてから、宮本はきっぱりとそう言った。
あきらめきれるように、自分に言い聞かせるように。
見えない涙を見たような気がした。
いや、きっと気のせいじゃない。
ずっと、彼女と別れたその時から、宮本の心は涙を流しているんだろう。
涙の海に自分の身が沈んでしまうほどに。
今も、泣きやむことができずにいるんだろう。
その涙を止めることができるのは、きっと、私だけだ。
「まだ、終わっていなかったら?」
「え……?」
「私、知っているの。あなたと同じように、まだ過去の恋を終わらせられていない人を」
私の言葉に顔を上げた宮本は、訳がわからないとばかりに眉をひそめる。
これだけでは、まだ理解できなくて当然だ。
彼もまさか、こんな偶然があるとは思ってもみないだろうから。
私だって、最初に宮本を見たときは驚いたものだった。
「あなたと同じように、苦しみながら、必死に前を向こうとして、それでも過去を忘れられない人を、知っているわ。誰よりも明るく純粋で、ドジなところも愛らしくて、でも、たまに寂しそうに笑う人。あなたのほうが、彼女のことをよく知っているんじゃないかしら?」
一言一言、ゆっくり紡いでいくごとに、宮本の目が驚愕で見開かれていく。
そう、私は宮本の元カノの友人。むしろ、親友と言ってもいいくらいの関係だ。
宮本も彼女の口から聞いているはず。『大学でできた友だちのあーちゃん』のことを。
そして、その顔はやっと思い出したのかしら。私の、高橋 梓という名前を。
職場では誰もあーちゃんなんて子どもっぽいあだ名で呼ばないから、今まで気づきようがなかったんだろう。
「ねえ、いい加減に素直になってみたらどう? 本当は過去になんてしたくない……いいえ、できないんでしょう? 今もまだ、好きなんでしょう?」
私が問いを重ねても、彼の表情は変わらない。
けれど、迷うように揺れる瞳は、隠しようがなかった。
「違うのかしら、『むぅくん』?」
彼女のつけたあだ名で呼ぶと、宮本の表情が崩れた。
宮本の名前は、零。私とは違って、名前とはまったく関係のないあだ名。
いつも無表情かむっとした顔をしているから、むぅくん。
そんなふうに彼女が言っていたのを思い出す。
ねえ、私の大切な親友。
あなたの大好きなむぅくんは、今、泣きそうな顔をしているわよ。
あなたのことが、まだ好きなんだって、叫び出しそうな顔をしているわよ。
「俺は……」
宮本は、しばらく口を開いたり閉じたりを繰り返した。
何を言えばいいのか、何を言いたいのか。
自分が何を望んでいるのか、吟味するように。
「まだ……間に合うんだろうか。取り戻せるんだろうか。過去にしなくても……いいんだろうか」
ささやくような声で言いながら、自分の手のひらに視線を落とす。
男性らしく筋張った、大きな手。
そんなに大きな手なら、本当に欲しいものの一つくらいは、しっかりつかめるんじゃないかしら。
「やってみなければわからない、でしょう?」
「そう、か……」
宮本はかすかに表情を和らげる。
微笑みとも言えないくらいの、ほんの少しの変化。
けれど、私にはそれで充分だった。
彼の想いは、充分伝わってきた。
用意しておいたチャンスは、どうやら無駄にならずにすみそうだ。
「あのね、このあと七時から、彼女と待ち合わせをしているの。一緒にご飯を食べましょうって」
いきなり話を変えた私に、宮本は面食らった顔をする。
彼女、というのが誰を指しているのかは、話の流れでわかるだろう。
「でも私、用事入っちゃったのよね。断るにも、もうあの子も家を出ちゃったでしょうし。ねえ、私の代わりに行ってきてくれないかしら?」
「高橋……」
「待ち合わせ場所は南口改札前。お願いできる?」
宮本はほとんど考える様子も見せず、席を立った。
本当はさっさと行きたいんだろうに、野口さんを一枚、伝票に重ねるようにして置いた。
ブラックコーヒーとカプチーノで、ちょうど千円ピッタリだ。
こんなところも、律儀な彼らしい。
「ありがとう、高橋。恩に着るよ」
「今度おごってね〜」
お礼を告げて去っていく宮本に、私はひらりと手を振った。
恋のキューピッドなんて割の合わない仕事、誰が無償でなんてやってやるものか。
カプチーノ一杯分くらいじゃ、すまさないんだから。
「……すっきりした顔しちゃって」
急ぎ足で遠ざかっていく背中をウィンドウ越しに眺めながら、私は苦笑をこぼす。
あの調子なら、きっとうまくいくだろう。
何も知らない親友は、きっと腰を抜かすほどに驚くだろうけど。
今日の食事は、親友の誕生日の前祝い。
きっと、彼女にとって最高の誕生日プレゼントになったことだろう。
ようやく、肩の荷が下りた心地がした。
胸に去来した一抹の寂しさには、気づかないふりをする。
最初は、大切な大切な親友の恋を応援するためだけに近づいた。
打ち解けてみると、思っていた以上に接しやすいいい人で。
親友とのことを引きずっているのも、うかがい知ることができて。
親友のためだけじゃなく、彼のためにも、二人の仲を取り持ってあげなければ、と強い使命感を覚えた。
宮本と話すのは楽しくて、一緒に仕事をすると妙に息が合って。
もし、親友の元カレだと知らなかったら、恋に落ちていたかも……なんて。
そんな、どうしようもないことを考えてしまったりもして。
この気持ちは恋ではない。恋にはしなかった。
最初から彼が誰なのか知っていたから。
好きになってはダメなのだと、わかっていたから。
恋はしていないから、失恋もしていない。
悲しむことなんて、何もない。
でも、始まることもなかった恋のために。
一筋涙をこぼすことくらいは、許されるかしら。