3.恥ずかしすぎる“魅了”

 料理ができてよかった、とこの世界に来てからルミは何度も思っていた。
 料理や必要最低限の家事ができたから、ルミは知り合いのいないこの世界で、路頭に迷うことなくすんでいる。
 色々と仕込んでくれた施設の人たちに感謝しなくちゃいけない。
 そもそもこの世界には誰かさんに連れられてきたんだから、面倒を見てもらうのは当然かもしれないけれど。
 そんなに甘い世界じゃないことを、ルミはこの三ヶ月ほどで学んでいた。

 ここは魔界と呼ばれている、不思議な力を持つ者たちが住まう世界。
 ルミがいた世界とつながっていて、たまに行き来があるらしい。
 どうしてこんなところにルミがいるのか、というと、この家の主に引っ張りこまれたから、なんだけども。
 それもちゃんと理由があってのことだから、なるべくしてなったとも言うのかもしれない。



 ガチャリと、鍵の開く音がする。
 アケヒが帰ってきた。

「おかえりなさい」

 ルミはキッチンから動くことなく、声を張り上げる。
 玄関でお出迎えすることなんてアケヒは望んではいないだろうし、それくらいならさっさと飯を作れと言われるのが落ちだからだ。

「飯、まだなのか?」

 アケヒがキッチンに顔を出す。
 いつもはアケヒが帰ってくるころにはご飯の支度はすんでいるから、アケヒの疑問も当然だ。

「ごめんなさい、もうちょっと待ってて」
「別に、急がなくていい。
 怪我はすんなよ」

 ルミが謝ると、アケヒはぷいっと顔を背ける。
 ぶっきらぼうな優しさに気づけるようになったのは最近のこと。
 自然と微笑みかけたルミの表情がこわばったのは、アケヒから甘い香りがただよってきたからだ。
 アケヒに血をもらうようになってからは、五感が前よりも鋭くなった。
 それは必ずしもいいことではなくて、今回のように不快な思いをすることもある。

 ……今日は女の人に会ってきたのか。
 ルミの気分が沈んでいく。
 アケヒは淫魔だ。定期的に女性を抱くことは、ご飯を食べるのと同じこと。
 ルミがそれに文句を言ったりなんて、してはいけない。
 毎日のように、午後からふらりといなくなるアケヒ。
 その時間、アケヒが仕事に行っていようと、女のところに行っていようと、ルミには何も言うことはできない。
 ルミはアケヒの恋人でもなんでもなく、彼の家に住まわせてもらっている、ただの居候なのだから。

 雑念を振り払うように、ルミは料理を再開した。
 煮物はもう味はしみているし、野菜スープはあとは飲む前に温めるだけ。
 肉を焼こうと調味料を下の棚から取り出し、立ち上がろうとした瞬間、くらりとめまいがした。
 調理台に手をつくと、そこに置いてあった野菜が下に転がり落ちる。

「おい、平気か?」

 物音に気づいたらしいアケヒが、キッチンに入ってくる。
 顔を上げようとしたけれど、頭が重く、目の前がチカチカとして無理だった。

「だ、大丈夫……」
「そうは見えねぇな」

 頭を押さえながら答えたルミに、アケヒはため息をつく。
 また、いつものあれだ。昼過ぎから調子が優れず、今日の晩ご飯を作るのが遅くなった理由でもある。
 アケヒもそれをわかっているんだろう。呆れたような視線を投げかけてくる。

「血、足りなくなったら言えって、いつも言ってんだろ」
「自分じゃわからない……」

 力ない声でルミはそう返した。
 くらくらする視界に我慢できず目をつぶる。
 渇くのはいつも唐突で、ルミにはそのタイミングがいまだに読めずにいる。
 本当にわからないんだから、ルミにはどうすることもできない。

「わからないんじゃねぇよ。オマエがわかろうとしてねぇんだ」

 それを言われると、痛い。
 ルミには吸血鬼としての自覚が足りないんだろう。アケヒにも何度もそう言われていた。
 何度ものどが渇いて、何度もアケヒの血を飲んで、何度も自分が吸血鬼なんだと思い知らされて。
 それでもまだ、ルミは人間でいた自分を捨てきれないでいる。

「ほら、飲め」

 たとえば、こんなとき。
 前と同じように血の流れる腕を前に出されても、身体はそれを欲しがっているのに、心が拒絶する。
 嫌だ、飲みたくない、と思ってしまう。
 この拒否反応は、いつまで経ってもなくならない。
 ふるふる、とルミは首を横に振った。一人では飲めない、と知らせるように。

「……ルミ」

 名前を呼ばれて、ルミはアケヒと目を合わせる。
 アイスブルーの瞳が、ルミを映していた。
 その瞳を見ていると、だんだん頭がぼうっとしてくる。
 本能がむき出しになって、欲しいものをただ欲しいと思えるようになってくる。
 誘われるようにルミはアケヒの腕に手を添え、流れる血に口を寄せる。
 それはこの上なく甘いジュースのように感じられた。
 もっと欲しい、もっと欲しいと血を舐めるルミを、少しずつ戻ってきた理性が押しとどめる。

 アケヒの腕から手を離し、ルミはうつむく。
 目を合わせることで、アケヒはルミの本能に働きかける。淫魔の“魅了”だ。
 淫魔の目には不思議な力がある。その人の本能に訴えかけて、理性を手放させるような力。
 ルミはアケヒのその力を借りないと、血を飲むことができない。
 飲もうと覚悟を決めて口に含んだ血を、吐き出してしまったことがあるのだ。
 だからアケヒはルミに血を飲ませるときには、こうして淫魔の力を使う。

 アケヒの魅了で本能をむき出しにされたあとは、いつも恥ずかしすぎて、穴を掘って埋まりたくなる。
 それでも、アケヒはルミを思って術をかけてくれたのだ。
 一人では満足に食事を取ることすらできないルミのために。
 最初のときの口移しよりは、だいぶマシだ。

「……ありがとう」

 お礼は、自然と蚊の鳴くような声になった。
 きっと今の自分は真っ赤になっているだろう。

「感謝してる暇があったら、オレの手をわずらわせなくてすむように早く血に慣れろ」
「わ、わかってるもん」

 思わずそう口答えしてしまうのだけれど、いつになれば慣れるのか、それはルミにもわからなかった。
 血は、怖い。というよりもむしろ、ルミは自分の本能が怖かった。
 血が欲しいと思う自分が、怖くて、受け入れがたかった。
 身体はそれを求めているのだと、理解していても。

「まあ、慣れるまでは面倒見てやるよ。
 拾っちまったもんはしょうがねぇからな」

 アケヒはそう言って、ルミの頭をなでる。
 大きな手のひらが、ぬくもりを与えてくれる。
 魔界にアケヒしか頼る人がいないルミには、そのぬくもりに甘えるしかない。

 聞こえるか聞こえないかという声で、もう一度、ありがとうとつぶやいた。



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