25.過去とさようなら

 その夢は、最近見ていたものとは違っていた。
 やわらかな風の吹く、草原。
 魔界で育った五年間でも、人界で育った十二年間でも、また魔界に戻ってきてからも、一度も見たことのない、どこまでも広がる草原。
 そこに、二人は立っていた。

「母さま……父さま……」

 ルミに似た、つややかな黒髪に海の色の瞳の母。
 耳と尻尾の生えた、赤髪に灰色の瞳の父。
 二人とも、ルミに笑顔を向けていた。
 だから、ルミも何も気負うことなく、笑みを返すことができた。

「母さん、父さん。わたし……あたし、しあわせだったよ」

 生きていた二人には、言えなかったこと。
 たとえただの夢だとしても、伝えたいと思った。
 過去ではなく、今のルミの言葉で。

「あたしを生んでくれてありがとう。あたしを愛してくれてありがとう。
 今まで忘れててごめんね。もう、絶対忘れないから」

 思い出した記憶は、ほんの少し前まで忘れていたとは思えないほどに、鮮明にルミの脳に刻み込まれていた。
 きっともう、忘れようとしても忘れられないだろう。
 それでよかった。
 二度と、忘れたくなどないから。

「ありがとう、母さん、父さん。
 ずっとずっと、大好きだよ!」

 震える声で、かすむ視界で、ルミは叫んだ。
 笑顔でお別れしたいのに、涙がこぼれてきた。
 泣いてばかりで情けない。
 いつから自分はこんなに弱くなってしまったのだろうか。
 けれど、弱いルミも、アケヒが受け入れてくれたから。
 弱さを隠さずに、強くあれたらいいと思った。

 母も、父も、何も言わない。
 ただ微笑みを浮かべ、穏やかにルミを見ているだけ。
 夢なのだから、そんなものかもしれない。
 何も言葉をくれなくても、ルミは二人に愛されていたことを知っている。
 それだけで充分だった。

「それじゃ、あたし、もう戻るね。
 待ってくれてる人が、心配してくれてる人がいるの」

 じゃあね、と言うようにルミは手を振った。
 二人も手を振り返してくれた。
 だんだんと、両親が幻影のように薄れていく。
 これで、今はお別れなのだとわかった。
 今度は、何百年かあと。
 ルミが吸血鬼としての長い生を終えたとき。
 もしもあの世というものが存在しているなら、そこで二人にまた会えるだろう。
 できるなら、そのときはアケヒも一緒だといいと思った。



 意識がゆっくりと覚醒していく。
 もう、頭痛も吐き気もしない。熱も下がったようだ。
 完全に目が覚めると、ルミは自分がアケヒに抱きしめられていることに気がついた。
 悲鳴を上げそうになったが、逆に驚きすぎて声が出なかった。
 ルミのベッドに二人でくっついて寝ていたようだ。
 そんなに広くないので、アケヒはどこか窮屈そうに見える。

 そういえば、浅い夢から覚めたときは、代わりにミンメイがいた一度を除き、常にアケヒが傍にいた。
 ずっと、こうして一緒に寝てくれていたのだろうか。
 ルミが寂しくないように。ルミが一人で泣かないように。
 そう考えたら、また涙が出てきそうになった。
 アケヒは優しい。優しすぎる。
 勘違いしてしまいそうになるほどに。

「あ、アケヒ……?」

 この体勢はよろしくないと、ルミはひかえめに声をかける。
 アケヒは別に寝起きは悪くない。むしろすっきりと目を覚ますほうだ。
 かすかな物音や振動でも、きちんと起きるだろう。 
 ルミの予想どおり、アケヒはいくらもしないうちに、もぞりと反応を示した。

「……起きたのか」

 伏せ目がちの氷色の瞳にドキッとする。
 朝から色気がもれすぎていて、恋愛初心者のルミには目に毒だ。
 見惚れていると、なぜか顔が近づいてくる。
 キスをしようとしているのだ、と気づいて、あわてて押しとどめた。
 最近は、ルミの痛みをやわらげるためにキスするのが当たり前のようになっていたから、習慣になってしまっていたのだろうけれど。
 すっかり元気を取り戻した今、そんなことをする必要はない。
 何より、正気のときにキスだなんて、心臓が破裂してしまいそうだ。

「ちょ、ちょっとタンマ! もう大丈夫だから!」

 ルミは必死で大声を上げる。
 止められて不機嫌そうな顔をしていたアケヒは、ルミの言葉に目をぱちりとさせた。
 アケヒの口をふさいだ手をどけられ、また顔が近づけられる。
 今度こそ、逃げられない。
 そう思ってぎゅっと目をつぶったルミの額に、こつん、と軽い衝撃があった。
 おそるおそる目を開けると、すぐ目の前にアケヒの顔。
 どうやら額と額を合わせているようだ。

「熱は下がったみたいだな」
「う、うん。もういつもどおりだよ」

 近すぎる距離に、うるさく鳴り響く胸の鼓動を感じながら、ルミはそう答えた。
 額から伝わってくる体温はだいたい同じくらいだ。
 ずっと治まらなかった頭痛も、他の症状も今はない。
 何よりも、心がすっかり落ち着いている。
 もう、過去を思い出して涙を流すことはないだろう。

「あたし、どれくらい寝てたの?」

 何度も何度も浅い眠りを繰り返したせいで、体内時計がおかしくなっていた。
 つらくて、痛くて、怖くて、苦しくて。
 体感では一ヶ月以上経ったようにすら思えるが、きっとそんなことはないはずだ。

「今日でちょうど一週間になるか。
 ……ったく、寝すぎだろ」

 アケヒは顔を離して、はーっ、と大きなため息をつく。
 それは呆れや苛立ちなどではなく、安堵の吐息。

「ごめんね。それと、ありがとう」

 心配してくれていたのがうれしくて、自然と笑みが浮かんだ。
 面倒くさがりなのに、面倒見のいいアケヒ。
 ずっと傍にいてくれたことが、とても心強かった。
 アケヒの言葉に、アケヒのぬくもりに、アケヒのキスに、支えられた。
 夢の中で、両親と笑顔でお別れできたのは、アケヒのおかげだ。

「全部、思い出したよ。
 両親のことも、吸血鬼のことも、……何があったのかも、全部」

 アケヒの瞳をまっすぐ見つめながら、そう告げた。
 きっと、ルミの知らない、両親がルミに見せなかった事実もたくさんあるのだろう。
 それでも、最低限のことはわかった。
 しあわせな記憶も、つらく悲しい記憶も、今はすべてルミのものだ。
 絶対に、二度と手放さない。

「平気か?」
「うん。もう、過去のことだし。
 思い出せてよかったって、そう思うよ」

 安心させるように、ルミは心からの笑みを見せた。
 ずっと、心配をかけてしまっていたのだとわかるから。
 もう大丈夫なのだと、ちゃんと伝えたかった。

「ならいい。ま、大丈夫だとは思ってたけどな」
「そうなの?」
「オマエなら乗りきれるってわかってた。
 過去から逃げるようなタマじゃねぇだろ」

 ふっ、とアケヒは表情を和らげる。
 その微笑みは、ルミを信じていた、と言っているようで。
 うれしくてにやけてしまいそうになるのを、がんばってこらえる。
 心配しながらも、信じてくれていたのだ。
 ルミならば大丈夫だと、そう確信を持ってくれていたのだ。
 アケヒの期待を裏切ることがなくてよかったと思う。

「褒められてるのかな、それは」
「褒めてる褒めてる」

 素直になれずにつっけんどんに返すと、ははっとアケヒは笑い声をこぼす。
 ついで、くしゃり、と頭を掻き回された。
 大きな手に触れられて、鼓動が跳ねる。
 本当にアケヒはルミの平常心を奪うのが得意だ。
 体調を崩している間は、今よりももっと濃密な触れ合いをしていたというのに、ささいなことでも過剰反応してしまう。
 それだけアケヒのことが好き、ということなのだろうけれど。

「……あ! 朝ご飯!」

 はっと気づいて、あわててルミは身体を起こす。
 体調を崩す前は、いつもアケヒよりも早く起きて朝食を作っていた。
 もう元気になったのだから、今日からはまたルミが食事を作るべきだろう。
 ベッドから下りようと思っても、壁側に寝ていたルミはアケヒをまたがなければ下りられない。
 同じく上体を起こしたアケヒに、どいてほしいと視線で訴えかけてみる。
 アケヒは苦笑を浮かべ、ぽんぽん、とルミの頭をなでた。

「病み上がりだろ。今日はまだゆっくりしとけ」
「でも……」
「風呂でも入ってこい。その間に作っといてやるから」

 アケヒはベッドから下り、ルミを見下ろしてそう言った。
 声も口調も優しいのに、どこか有無を言わさぬ響きがあった。
 まだ、心配は継続しているということだろうか。
 思っていたよりもアケヒは心配性のようだ。

「……うん、わかった」

 仕方なく、ルミはうなずいた。
 この一週間、ずっと優しく優しくされ、底なしに甘やかされてきた。
 これ以上さらに甘やかされては、ダメになってしまいそうだ。
 なのに、アケヒの心配りがうれしくもあるのだから、どうしようもない。
 ルミを思っての言葉なら、どんなものだって聞き入れてしまう。


 結局ルミは、アケヒには敵わないのだ。



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