「今日はここまでにしよう」
青年のその声にルミは閉じていた目を開け、大きく息をついて全身の力を抜いた。
ハルウの屋敷で訓練を受けるのも、これで四度目になる。
まずは魔力を感じることが必要だと、ハルウはルミにいいと言うまで決して目を開くなと言った。
それからルミは訓練のたびに、視界を閉ざしたまま過ごすことになった。
おかげで今では身体中を巡る魔力の流れのようなものを感じることができるようになったのだけれど。
今度はそれを制御しなければいけないのだと、今日からは真っ暗な視界の中で、魔力を動かしたり押しとどめたりをくり返すことになった。
どれも感覚的すぎて、うまくできているかは自分でもよくわからない。
ハルウには飲み込みが早いと言われたので、それを信じてとにかくがんばるしかなかった。
ルミの魔力はまだかなり不安定なのだそうだ。
長い間、人界にいたことと、血を摂取していなかったことが原因だと思われる。
不安定な魔力がルミの気を余分に消費させ、血が足りなくなる。血を摂取しても、血に慣れていない身体には砂漠に水を撒くようなもの。消費された気によってさらに魔力が言うことを聞かなくなる。その悪循環の繰り返しなのだと言う。
だから、アケヒの血をもらいながら魔力を制御するすべを覚えることで、長期的に魔力を安定させていこうということになっていた。
記憶うんぬんに関しては、それからのほうがいいだろうというのがハルウの見解だった。
指南役のハルウがそう言うのなら、とルミも渋々それを了承した。
「疲れた……」
ルミはぐったりと部屋の端に置いてあった椅子に座り込む。
その正面の椅子にハルウも腰を下ろし、苦笑をこぼす。
「とにかく感覚をつかむしかない。
慣れるまではつらいだろうが、いざというとき魔力を扱えたほうがいい」
「そうだね。そのほうがアケヒも楽だろうし」
自身の魔力を完全に従えることができれば、本能もきちんと働くだろう、とハルウは言っていた。
ハルウにはどうやってルミが血を摂取していたのか話してある。
アケヒがいなければルミは食事すら満足に取れずにいた。
相変わらず血はもらうことになるかもしれないが、毎回傷を作ってもらい、魅了をかけてもらう必要がなくなれば、少しはアケヒの負担も減るはずだ。
それならどうしてもっと早く魔力の制御を覚えなかったのかというと、ちゃんと理由がある。
淫魔と吸血鬼では魔力の保有量が違うため、扱い方も異なるのだそうだ。
実は以前、試しにアケヒに教わったことがあったものの、そのときのルミは魔力を感じることすらできなかった。
そもそも魔力の扱い方というのは感覚的なもの。だからこそ感覚が近い種族でなければ教えることはできない。
同じ吸血鬼のハルウという協力者を得たことで、ルミはやっとスタートラインに立つことができたのだ。
「……一つ、聞いてもいいか?」
「何?」
妙に真剣な顔をしているハルウに、ルミは首をかしげる。
「ルミは……その……アケヒと、そういった関係なのか?」
そういった関係というものが、どういった関係を指しているのか。
十秒以上考えて、思い当たった答えに思わずルミは肘かけを力いっぱい叩いてしまった。
「どういった関係もありません!」
いきなり何を聞いてくるのだろう、ハルウは。
ルミとアケヒはキスすらしていない……否、服を引き裂かれ胸をもまれて額にキスをされたことくらいしかない関係だ。
何もないとは言えないかもしれないが、いかがわしい関係などではまったくない。
一方的に、ルミが片思いしているだけだ。
「そ、そうか。それもそうか」
「それもそうか、って……そりゃ、アケヒから見たらあたしなんて対象外なんだろうけど」
失礼なつぶやきに、ルミは泣きたいような気持ちになってそう口にする。
言葉にしながら自分でショックを受け、うなだれてしまう。
アケヒは大人の女性を好みそうなイメージがある。
それはいつも香ってくる甘く華やかな香りからのイメージであり、そのままアケヒの隣に似合いそうな女性のイメージでもある。
ルミはどちらかといえばスレンダーで、胸はないわけではないけれど、女性らしい魅力にあふれているとは言いがたい。何よりアケヒから見たらまだまだ子どもだ。
これではアケヒも手を出そうなどとは思わないだろう。
「いや、すまない。そういう意味ではないんだが」
あわてたようなハルウの声に、ルミは顔を上げる。
ハルウは黒い前髪を掻き上げて、困ったような表情をしていた。
ルミと目が合うと、ハルウはふっと笑みをこぼした。
「そうか……ルミは、アケヒが好きなんだな」
「悪い?」
「見る目があると思う。アケヒはいい奴だ」
挑むような思いで認めたルミに、ハルウは直球で返してきた。
今まで接してきてわかったことだが、ハルウは心を飾ることを知らない。
子どものように実直で、大人らしく筋を通す人だ。
沈んでいた心が落ち着いてきて、だんだんと恥ずかしくなってきた。
ハルウは、ルミの気持ちを否定したわけではない。
自分ばかり勝手に拗ねていたって、ただ子どもが意地を張っているだけじゃないか。
ハルウを見習って、もう少し大人になろう。
「先ほどの言葉は、ルミがどうこうといった意味ではない。
アケヒは面倒くさがりだからな。家にまでそういったことを持ち込んだりはしないだろうと思ったんだ」
言われてみればそのとおりだ、とルミは納得した。
家というのは、一般的に最も気が安らぐ場所。
そんな場所で一緒に暮らす単なる同居人と、気軽に身体を交えようとはしないだろう。
それこそ、恋人や夫婦でなければ。
アケヒのことだ。『めんどくせぇ』と言うのは間違いない。
「それって、あたしには見込みがないってこと?」
「どうだろうな。心を伴ったものなら、ありえるんじゃないか」
ルミの問いかけに、ハルウは意味深な笑みを浮かべてそう言った。
心を、伴ったもの。
それは、アケヒがルミのことを好きになれば、ということか。
そんなことが本当にありえるんだろうか。
ルミはアケヒに片思いしている。アケヒから想いを返されることを願っていないわけではない。
けれどそれが想像すらできないのもたしかだった。
「それが一番、難しいんだけどね」
ルミは眉をひそめ、ため息をつく。
正直、身体だけでも、と思ったことがないとは言わない。
アケヒは淫魔だ。ルミから頼めば、もしかしたら抱いてくれるかもしれない、と。
けれどルミにはそこまで身を投げ打つことはできなかった。
どうしても、気持ちが通じ合っていなければ嫌だと、思ってしまった。
ルミに意気地がないだけなのか、それが普通の思考なのかはよくわからない。きっと人によって違うだろう。
身体だけアケヒのものになれても、心を受け取ってもらえなければむなしいだけだ。
少なくともルミはそう思う。
ハルウの言葉は、心を伴っていれば面倒を抱えることになってもルミを抱くかもしれない、という意味だ。
逆に言えば、心を伴わなければルミを抱かないだろう、ということ。
それが本当なら、アケヒに好きになってもらわない限り、そういう関係にはなれない。
当たり前のことだと思うし、そうでなければルミも困るけれど。
少しだけがっかりしてしまった自分がいたことも、たしかで。
恋心というものは本当に複雑だ、とルミは頭を抱えたくなった。
アケヒに好きになってもらう方法がわかればいいのに。
そんなものは決まっているわけがないとわかっていても、思わず考えてしまう。
好きな人に好きになってほしい、と望むのは当然のことなんだろう。
厄介な相手を好きになってしまった、とは思うけれど。
アケヒだから好きなんだ、とわかっているから。
まずは彼の負担を減らすように、できることをするしかない、と心に決めるルミなのだった。