「へーへー。じゃ、早くオレを帰せよ」
「それだけは聞けないなぁ」
「なんでだよ!?」
美幸はダンッとテーブルに手をついて男に詰め寄った。
もう今回の件に関する話も聞いた。用事は終わったはずだ。
……いや、そもそもその話をするために美幸はとどめ置かれたわけではない。話の流れで聞くことになっただけだ。
では、男の目的はなんなのだろうか。
美幸がここでこうして、男と対面している理由とは。
「たしかに君は仲介役に適任だったけど、他にもちょうどよさそうな登場人物がいなかったわけじゃない。その中で君を選んだのは、完全に俺の趣味。君に会ってみたかったんだ」
にこり、と男は笑う。
それはやはり何を考えているのかわからない笑みで。
胡散臭さに美幸は眉をひそめる。
そんな顔で会ってみたかったと言われても、まったくもってうれしくない。
「君の物語は俺の一番のお気に入りだ。君の物語というよりも、君という主役が、かな」
「そりゃどーも」
反応に困って、美幸はそうとだけ返した。
褒められているのだろうけれど、他にどう答えればいいのかわからない。
「ねえ、美幸さん。俺と恋をしてみない?」
男は笑みを深めて、そう言った。
すぐには理解できずに、美幸は目を点にした。
おれと、こいを、してみない?
こいとはなんだっただろうか。池の鯉か? わざとという意味の故意か?
けれど十秒ほどで、美幸の頭は正常に言葉を理解してしまった。
「……寝言は寝て言え」
「それって照れ隠し? かわいいなぁ美幸さん」
「違ぇし! 照れてなんかねぇ!」
美幸はクスクスと笑う男を怒鳴りつけた。
照れてなどいない。断じて、照れてなどいない。
男は冗談を言っているだけなのだ。何を照れる必要があるのだろうか。
「大丈夫、わかってるよ。美幸さんは積極的にアプローチされると弱いんだよね」
「弱くねぇし!」
癇癪を起こす子どもを見るような目を向けてくる男に、美幸はさらに怒鳴る。
何もかもわかっていると言わんばかりの笑みが、美幸の神経を逆なでする。
今、確実に言えることがある。
この男と美幸との相性は、最悪だ。
言葉一つ、表情一つが、妙に癇に障る。
「弱いよ。だからクラウス王子にもほだされた。俺は全部知ってるよ」
男の的確な指摘に、美幸はぐっと詰まった。
男は美幸の物語を知っている。そのことがひどく悔しい。
反対に、美幸は男のことを何も知らない。だから、反撃の材料になりそうなものは思い至らない。
「プライバシーの侵害だっ!!」
「物語の主役の君たちに、そんなものがあると思ってる?」
「横暴だ!!」
「どうとでも。君に振り向いてもらうためなら俺はいくらでも知識を使って、知恵をしぼるよ」
それは、美幸がなんと言おうとあきらめないということだろうか。
なぜそれほどに男が美幸に執着するのかがわからない。
だって、美幸は。
「オレは物語の登場人物なんだぞ!?」
美幸は、自分が物語の中でだけ生きている存在なのだという自覚があった。リートやミーウェルミルシーもそうだろう。
その物語を楽しむ、上位世界があるのだということも、誰に言われるともなく理解していた。
物語の管理人というものは初めて知ったが、そう名乗る男は、美幸たち物語の登場人物にとって、神のような存在なのだろう。
美幸とは異なる理の中に生きる、上位世界に住まう人々。
たとえば、美幸にとって虫がどうでもいい存在であるように。
男にとって、美幸は目をかけるほどの存在でもないはずだ。
「そんなこと関係ないよ。君はもう作者の手を離れていて、魂が宿っている。普通の人間と変わらない」
「だ、だからって……」
わからない。理解できない。
男が嘘を言っているようには聞こえなくて、言葉を返せない。
美幸は混乱していた。
「信じられないなら何度でも言うよ」
男はそう言うと、ソファーから立ち上がった。
テーブルを回って美幸の前まで来たかと思うと、ひざまずいて美幸の手を取った。
振り払おうとしたが、男の力は意外と強く、離してもらえそうにない。
「俺は美幸さんのことが好き。ずっと君のことを見ていた。ずっと、君に会いたかった」
美幸を見つめる男の紫色の瞳は、真剣そのものだった。
刃のような鋭さを持ちながらも、美幸を炙るような熱をも秘めている。
目を合わせていられずに、美幸は視線をそらした。
「お前みたいな胡散臭い奴、オレは絶対好きにならない」
それは本心だったはずなのに、強がっているような響きを持った。
男の目を見て告げることができなかったからだろうか。
悔しい。腹が立つ。
どうしてこんな男に、美幸は競り負けているのだろうか。
逆らってはならないという直感を無視して、男を殴り飛ばしたかった。
「美幸さん、忘れてない? 俺はこの本棚の管理人。君の物語の管理人。君の性格も、趣味嗜好も、過去も、俺は全部知っているんだよ」
男の声はどこか楽しそうに弾んでいる。
それはまるでストーカーのようではないか、と思ったが、すんでのところで言いやめた。肯定されても否定されても恐ろしいような気がしたからだ。
圧倒的に美幸のほうが不利なのは理解している。
男が言っていることはたしかだろう。彼は美幸のことを、詳しすぎるほどによく知っている。
それに、美幸は舌戦となるとてんで弱い。クラウスにも毎度のように言い負かされたものだった。
見るからに、男は口がうまい。それは短い時間でも充分にわかった。
クラウスにほだされた過去があるのだから、この男にほだされる可能性がないとは言いきれなかった。
「だからって、好きになるかなんてわかんないだろ!」
それでも、今の美幸にはそう言うことしかできなかった。
先のことは誰にもわからない。
それは、物語の管理人だろうと同じはずだ。
「好きにならないかも、わからないよね?」
「ならない! つーか、好きとかそういうの、今はいらない!」
握られた手は払えないままに、美幸は立ち上がる。
そのまま男を睨みつけるようにして見下ろした。
失恋したばかりの美幸は、恋なんて当分したくないと思っていた。
こんな唐突すぎる告白、受け入れられるわけがないではないか。
「なら、待つよ。時間はいくらでもあるからね」
男も立ち上がり、心底楽しそうに笑う。
感情の伝わってくる、人間らしい笑みだというのに、美幸はげんなりとした。
そんなことをそんな表情で言ってほしくなかった。
厄介な奴に気に入られてしまった。
ため息をつく美幸に、男は思い出したように「ああ、でも」と口を開いた。
「引き延ばしてもいいけど、十年くらいで折れてね。高齢出産はリスクが高いから」
「なんの話だよ!!」
「あれ、わからない? 家族計画の話」
にやにやと嫌な笑みを浮かべながら男は言う。
わからない。わかりたくない。誰がわかってやるものか。
「いいから、さっさとオレを帰せーっ!!!」
辛抱できずに、美幸は最大音量で叫んだ。
男はそれに、あははははっと声を出して笑うだけ。
いつ帰してもらえるのか。そもそもちゃんと帰す気があるのかどうか。
待つと言われた以上、大丈夫だと信じたいところだが。
いまいち信用できないのが、悲しいところだ。
これは、エピローグのその先の、プロローグ。
美幸の物語が、これからどんな道をたどるのか。
それは、物語の管理人にもわからないことだ。
けれど、きっと、そう悪くもない結末へと向かうことだろう。
……たぶん。