(5):美幸の場合

「へーへー。じゃ、早くオレを帰せよ」
「それだけは聞けないなぁ」
「なんでだよ!?」

 美幸はダンッとテーブルに手をついて男に詰め寄った。
 もう今回の件に関する話も聞いた。用事は終わったはずだ。
 ……いや、そもそもその話をするために美幸はとどめ置かれたわけではない。話の流れで聞くことになっただけだ。
 では、男の目的はなんなのだろうか。
 美幸がここでこうして、男と対面している理由とは。

「たしかに君は仲介役に適任だったけど、他にもちょうどよさそうな登場人物がいなかったわけじゃない。その中で君を選んだのは、完全に俺の趣味。君に会ってみたかったんだ」

 にこり、と男は笑う。
 それはやはり何を考えているのかわからない笑みで。
 胡散臭さに美幸は眉をひそめる。
 そんな顔で会ってみたかったと言われても、まったくもってうれしくない。

「君の物語は俺の一番のお気に入りだ。君の物語というよりも、君という主役が、かな」
「そりゃどーも」

 反応に困って、美幸はそうとだけ返した。
 褒められているのだろうけれど、他にどう答えればいいのかわからない。

「ねえ、美幸さん。俺と恋をしてみない?」

 男は笑みを深めて、そう言った。
 すぐには理解できずに、美幸は目を点にした。
 おれと、こいを、してみない?
 こいとはなんだっただろうか。池の鯉か? わざとという意味の故意か?
 けれど十秒ほどで、美幸の頭は正常に言葉を理解してしまった。

「……寝言は寝て言え」
「それって照れ隠し? かわいいなぁ美幸さん」
「違ぇし! 照れてなんかねぇ!」

 美幸はクスクスと笑う男を怒鳴りつけた。
 照れてなどいない。断じて、照れてなどいない。
 男は冗談を言っているだけなのだ。何を照れる必要があるのだろうか。

「大丈夫、わかってるよ。美幸さんは積極的にアプローチされると弱いんだよね」
「弱くねぇし!」

 癇癪を起こす子どもを見るような目を向けてくる男に、美幸はさらに怒鳴る。
 何もかもわかっていると言わんばかりの笑みが、美幸の神経を逆なでする。
 今、確実に言えることがある。
 この男と美幸との相性は、最悪だ。
 言葉一つ、表情一つが、妙に癇に障る。

「弱いよ。だからクラウス王子にもほだされた。俺は全部知ってるよ」

 男の的確な指摘に、美幸はぐっと詰まった。
 男は美幸の物語を知っている。そのことがひどく悔しい。
 反対に、美幸は男のことを何も知らない。だから、反撃の材料になりそうなものは思い至らない。

「プライバシーの侵害だっ!!」
「物語の主役の君たちに、そんなものがあると思ってる?」
「横暴だ!!」
「どうとでも。君に振り向いてもらうためなら俺はいくらでも知識を使って、知恵をしぼるよ」

 それは、美幸がなんと言おうとあきらめないということだろうか。
 なぜそれほどに男が美幸に執着するのかがわからない。
 だって、美幸は。

「オレは物語の登場人物なんだぞ!?」

 美幸は、自分が物語の中でだけ生きている存在なのだという自覚があった。リートやミーウェルミルシーもそうだろう。
 その物語を楽しむ、上位世界があるのだということも、誰に言われるともなく理解していた。
 物語の管理人というものは初めて知ったが、そう名乗る男は、美幸たち物語の登場人物にとって、神のような存在なのだろう。
 美幸とは異なる理の中に生きる、上位世界に住まう人々。
 たとえば、美幸にとって虫がどうでもいい存在であるように。
 男にとって、美幸は目をかけるほどの存在でもないはずだ。

「そんなこと関係ないよ。君はもう作者の手を離れていて、魂が宿っている。普通の人間と変わらない」
「だ、だからって……」

 わからない。理解できない。
 男が嘘を言っているようには聞こえなくて、言葉を返せない。
 美幸は混乱していた。

「信じられないなら何度でも言うよ」

 男はそう言うと、ソファーから立ち上がった。
 テーブルを回って美幸の前まで来たかと思うと、ひざまずいて美幸の手を取った。
 振り払おうとしたが、男の力は意外と強く、離してもらえそうにない。

「俺は美幸さんのことが好き。ずっと君のことを見ていた。ずっと、君に会いたかった」

 美幸を見つめる男の紫色の瞳は、真剣そのものだった。
 刃のような鋭さを持ちながらも、美幸を炙るような熱をも秘めている。
 目を合わせていられずに、美幸は視線をそらした。

「お前みたいな胡散臭い奴、オレは絶対好きにならない」

 それは本心だったはずなのに、強がっているような響きを持った。
 男の目を見て告げることができなかったからだろうか。
 悔しい。腹が立つ。
 どうしてこんな男に、美幸は競り負けているのだろうか。
 逆らってはならないという直感を無視して、男を殴り飛ばしたかった。

「美幸さん、忘れてない? 俺はこの本棚の管理人。君の物語の管理人。君の性格も、趣味嗜好も、過去も、俺は全部知っているんだよ」

 男の声はどこか楽しそうに弾んでいる。
 それはまるでストーカーのようではないか、と思ったが、すんでのところで言いやめた。肯定されても否定されても恐ろしいような気がしたからだ。
 圧倒的に美幸のほうが不利なのは理解している。
 男が言っていることはたしかだろう。彼は美幸のことを、詳しすぎるほどによく知っている。
 それに、美幸は舌戦となるとてんで弱い。クラウスにも毎度のように言い負かされたものだった。
 見るからに、男は口がうまい。それは短い時間でも充分にわかった。
 クラウスにほだされた過去があるのだから、この男にほだされる可能性がないとは言いきれなかった。

「だからって、好きになるかなんてわかんないだろ!」

 それでも、今の美幸にはそう言うことしかできなかった。
 先のことは誰にもわからない。
 それは、物語の管理人だろうと同じはずだ。

「好きにならないかも、わからないよね?」
「ならない! つーか、好きとかそういうの、今はいらない!」

 握られた手は払えないままに、美幸は立ち上がる。
 そのまま男を睨みつけるようにして見下ろした。
 失恋したばかりの美幸は、恋なんて当分したくないと思っていた。
 こんな唐突すぎる告白、受け入れられるわけがないではないか。

「なら、待つよ。時間はいくらでもあるからね」

 男も立ち上がり、心底楽しそうに笑う。
 感情の伝わってくる、人間らしい笑みだというのに、美幸はげんなりとした。
 そんなことをそんな表情で言ってほしくなかった。
 厄介な奴に気に入られてしまった。
 ため息をつく美幸に、男は思い出したように「ああ、でも」と口を開いた。

「引き延ばしてもいいけど、十年くらいで折れてね。高齢出産はリスクが高いから」
「なんの話だよ!!」
「あれ、わからない? 家族計画の話」

 にやにやと嫌な笑みを浮かべながら男は言う。
 わからない。わかりたくない。誰がわかってやるものか。

「いいから、さっさとオレを帰せーっ!!!」

 辛抱できずに、美幸は最大音量で叫んだ。
 男はそれに、あははははっと声を出して笑うだけ。
 いつ帰してもらえるのか。そもそもちゃんと帰す気があるのかどうか。
 待つと言われた以上、大丈夫だと信じたいところだが。
 いまいち信用できないのが、悲しいところだ。



 これは、エピローグのその先の、プロローグ。
 美幸の物語が、これからどんな道をたどるのか。
 それは、物語の管理人にもわからないことだ。
 けれど、きっと、そう悪くもない結末へと向かうことだろう。

 ……たぶん。



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