あのあと、パンを惜しんで、っていうのが本当の本当に本音だったと知って、思いっきり脱力したっけなぁ。
私がそこにいる証みたいなものが欲しくて、近くの町へ買い出しついでに、職人さんに見てもらいながら湯飲みにお揃いの絵を描いた。
赤い花と黄色い花。毒であり薬でもある花と、私の手を治した油の花。ヴィーの瞳と、私の瞳。
運命みたいよね、なんて言いながら渡したらすごい嫌な顔をしたけど、ちゃんと使ってくれているのを見て泣きたいくらいうれしかった。単に、使えるものはなんでも使う精神だって、わかっていても。
赤い花を見て、ヴィーのことを思い出すなっていうほうが、無理な話だ。
あれから十年間、なんとかヴィーを振り向かせてみようとした。
湯飲み以外にもプレゼント攻撃はしたし(日用品なら一応は使ってもらえた)、デートにも誘ったし(結果はもちろん全敗)、快適に過ごしてもらうために家事もがんばったし(一人暮らししていたときとは比べものにならないレベルで)、特にヴィーの好きなパンは毎日のように焼いた(飽きられないように試行錯誤が大変だった)。
とはいえ、その、アレだけは故意ではなく酔った末の事故だ。誘うつもりなんてなかった。なかった、はず。
なし崩し的にずっとそういう関係を続けていたのだって、好きな人に求められたら誰だって拒めない、ってだけで、いやその、別に嫌だったわけではないんだけども。って私は誰に言い訳しているのやら。
涙ぐましい努力の日々は、結局、報われることはなくて。
唐突に終わりを告げられて、今はこんなところで一人っきり。私はいったい何をしているんだろう。
さっさと、忘れてしまえばいい。十年も抱いていた想いなんてきっととっくに咲く時期を逃してる。いつまでもぐじぐじしているなんて非生産的すぎる。赤い花を見てもヴィーなんて思い出さず、きれいだなぁって眺めていればいい。
……でも、そんなの、私じゃない。
この半年、毎日ヴィーを想った。頭から離れなかった。
いい加減やめようとしても無駄だった。心には逆らえなかった。
好きだって、まだ忘れられないって、彼を思い描くたび胸が破裂しそうだった。
今、私の心を取り出したなら、きっとあの花のように真っ赤な色をしている。ヴィーの色。十年前から変わらず、染め上げられたまま。
全然まったく、忘れられる気がしない。
ああ、ねえ、いいんじゃない?
どうせ今、ここには誰もいないんだし。
自分に正直になったって。
「ヴィーー!!!」
めいっぱい、叫んだ。
「ちくしょー!! 愛してるーーー!!!」
忘れようとして、忘れられなくて。
苦しくて切なくてつらくて悲しくて。それでも気持ちを捨てようとは思えなくて。
このままおばあちゃんになったって、私はヴィーのことが好きなんじゃないだろうか。
そんな、ありえそうな未来予想に、私はくすっと、笑って。
影が、見えた。
それを目で捉えると同時に、私は駆けだした。
一歩近づくごとに、はっきりとその影の形を、色を、認識する。
影が動くよりも先に、私はその影に飛びついた。
「ヴィー!」
サラサラの黒い髪が風になびいて。花のように赤い瞳はめずらしいことに大きく見開かれている。
形のいい唇が開かれて、言葉が吐き出されることなく閉じられる。
その口が、『アーシャ』と動いたように見えたのは、たぶん私の願望だ。
「迎えに来てくれたのね!」
「え、違うけど」
がっくし。
「……空気読んでよ……」
「ごめん?」
「いや、うん、謝られると余計に惨めになる」
わかってたよ、わかってたけどね。
ヴィーがそんな、少女小説みたいなことをするとは私だって思っていなかったよ。
でも、こんなときくらい、ちょっと夢見たっていいじゃない? 乙女の憧れじゃない? 実年齢いくつだっていうのは聞かないでください。
「……子ども、なんだけどなぁ」
ぽつり、とヴィーはつぶやく。
唐突なのはいつものことだけど、意味も意図もわからなすぎて首をかしげた。
「誰が? 私が?」
「百年以上生きてる僕から見たらね」
「手を出したくせに」
「それはまあ、据え膳だったし」
ケロリとヴィーは言う。
ほんと、そういうとこ、半年たってもぜんっぜん変わんないんだから!
「だったら受け取ったままでいてよ! 何も返すことないじゃない!」
「返してって言ったのは君のほうだよ」
「複雑な乙女心っていうのを理解しなさいよ!」
誰が、好きな人にもらってもらったバージンを返してほしいなんて本気で思うのよ!
私はただ、ヴィーのことをあきらめるためには、十年前に、ヴィーを好きになる前に戻るしかないと思っただけだ。
身体だけ十年前に戻ったって、心がそのままだったら意味がない。
本当にヴィーは、言葉を額面どおりに受け取るんだから。
言わなくても察して、って思うのがまず厚かましいっていうことも、わかってるけど。
さらり、と。
ヴィーの細いきれいな指が、私の髪に触れた。
背中を覆うくらいまで伸びた髪を一房手に取って、無表情のまま、瞳を細めた。
「……髪、伸びたね」
「おかげさまで」
髪が伸び始めたのはヴィーにバージンを返されたからだ。それくらいはヴィーも理解していると思いたい。
もう何年も私の髪の長さが変わっていなかったこと、ちゃんと気づいてた、よね……?
下手するとそこから説明しなきゃいけないんだろうか。あなたに抱かれていたおかげで老化が止まっていました、って? 何その羞恥プレイ。
「また汚れた綿毛って言う?」
「そんなこと言ったっけ?」
「忘れたの!? 私の心の傷よ!!」
「ごめん」
謝られたって過去の発言がなかったことになるわけじゃない。
たしかあれは押しかけ女房を始めて一年くらいのときだ。当時の私は今ほどタフじゃなかったから、それはもう、どん底まで落ち込んだんだから。
「今は、花の蜜みたいって思うよ」
「……頭でも打ったの?」
そんな、女性を褒めるときに使うようなたとえを持ってきて。
普通だったら喜ぶべきところなんだけど、相手がヴィーだと、うさんくさいとしか思えない。
「不用意に触れて、慣れて、気づいたらボロボロになってた。僕よりも君のほうが似てるよ」
「汚れた綿毛の次は、毒花……悪化してるのは気のせいじゃないわよね」
えーえーわかってましたよ、褒め言葉じゃないことくらい。
……もうさっきから何度目だろう、上げて落とされるの。そろそろ立て直すのが大変になってきた。
泣いていい? 泣いても許されるんじゃない、私?
「だって、君のせいで、僕はこんなに苦しい」
その、声が。
私よりも切実に泣き出してしまいそうな響きを持っていて。
顔をあげれば、赤い瞳が。
朝露を、宿していた。
「アーシャ」
はじめて。
はじめて名前を呼ばれた。
もう呼ばれ慣れたような、そんな気がするのは、何度も夢で見たからだろうか。
「アーシャ」
今にも雫がこぼれ落ちそうな、赤い瞳が私を映している。
縫い止められたように身体が動かない。
ヴィーの手が、私の頬に伸びる。
私よりも冷たい体温が、直に伝わってきた。
「な、なに」
声が情けなく震える。
同じくらいヴィーの声も震えていたから、気づかれないと思いたい。
「どこに、行こうとしていたの?」
「み、都に」
「遊びに?」
「うん」
「そっか……」
ほう、とヴィーは息をつく。
気が抜けたように、かすかな笑みすら浮かべて。
赤い瞳には安堵の色。そして春の日差しのような、優しい色。
誰だろう、これは。
私の知っているヴィーは、こんなに、こんなに。
表情を動かさない。感情を動かさない。私に、こんな、こんな目を向けない。
「アーシャならその心配はないってわかっていたけど、少し、気になって。この先には崖があるから」
私が誤って落ちないように?
いや、もしかしてもしかしなくても、ヴィーに振られた私が世を儚んじゃうんじゃないかって、そういうこと?
「それで、止めに来たの?」
思わず私は笑ってしまいそうになった。
まったく、心配性なんだから。
他でもないヴィーが、私に最強のボディーガード魔法をかけたのに。
崖から落ちたところで、どうせ傷ひとつなく守られるって、それくらい予想がつく。
……最強魔法をかけてまで追い出すなんて、そんなに私のことが邪魔だったのかな。そう、卑屈に思う自分もいた。
でも、今のヴィーを見れば、そんな悩みは吹っ飛んでしまった。
ただ単に、本当に純粋に、心配だっただけなんだね。
なら、そもそも最初から追い出したりなんてしなければよかったのに。
「あ……それとはまた別口というか」
ヴィーは視線を泳がせて、指で頬を掻いた。
そうして、語られたのは……
「実は、たまにアーシャの様子を見に来ていたんだ。いつも、アーシャの家や仕事場の近くに転移して、気配を隠して見ていた。でも、さっき行ったら仕事場にも家にもアーシャがいなかったから。アーシャから三十メートル離れたところに、っていう指定で飛んだら、一面花畑だったから隠れる場所がなくて……」
は?
はい?
え、……えっ!?