春の夜に輝く星の妖精のよう

 イーツミルグを継いで、四ヶ月が過ぎた。
 それは当然、エステルと婚約してから、二ヶ月ほど経ったということになる。
 最近ようやく要領よく仕事を回すことができるようになって、自由になる時間が増えた。
 前は無理にでも作っていたエステルとの時間を、今は定期的に取ることができるようになっていた。
 仕事で疲れた顔を見せて、優しいエステルに心配をかけてしまっていたから、余裕が出てきたのは喜ばしいことだ。
 心配してもらえるのも、疲れを癒してもらうのもうれしかったから、少しだけもったいない気もするけれど。

 今日も僕はシュア家の戸を叩いた。
 昨日の電話でエステルのほうから会いたいと言われたからだ。
 エステルがそんなことを言うのは、かなりめずらしい。
 最近は前よりも頻繁に会っているけれど、寂しい思いをさせてしまっていたんだろうか。
 見せたいものがあるから、とエステルは言っていた。
 それが本当でも、ただの口実でも、エステルが会いたいと言うならどんなに忙しかろうと駆けつけるだろう。
 できることなら毎日でも会いたいと思っているのは、僕のほうだ。
 婚約者となった今、そう遠くない未来にそれが叶う確約があるのだから、焦ることはないけれど。

 屋敷に足を踏み入れ、扉を開けてくれた使用人にお礼を言って、僕はエステルの部屋へと向かう。
 エステルの婚約者となる前から、アレクの友人として、卿家を継ぐ者として、数えきれないほど訪ねた屋敷。今さら案内が必要あるはずもない。
 エステルに会える、と思うと気が急いて、部屋までそれほど距離はないというのに自然と早足になる。
 いつも、どんなときでも、僕はエステルを求めている。
 エステルが僕へと向ける想いの何倍、何十倍もの強さで。
 彼女の放つ輝きを見たくて、彼女のくれる安らぎに触れたくて。
 エステルに関することで、冷静でいられた試しなんてない。

 部屋の前で、軽く息を整える。
 それから、トントン、と扉をノックした。

「エステル、入るよ」
「あっ……」

 声をかけると同時に、僕は扉を開けた。
 エステルはちょうど部屋の真ん中に立っていた。
 こちらに背中を向けていた彼女が振り返り、ワンピースの裾がふわりと広がるさまが、しっかりと脳裏に焼きついた。
 濃紺の、くるぶし丈のワンピース。普段はあまり着ない暗い色だけれど、重い印象になることなく、それどころかエステルのミルクティー色の髪を引き立てている。
 胸元はブラウス地で控えめなフリルで飾られていて清楚さを出し、スカートの前面は幅の狭いレース、バックスタイルは大きなリボンとパーティードレスのような大胆なレース使いで甘さと可憐さを演出している。
 何より、そのワンピースを身にまとったエステルは、気恥ずかしそうに頬を淡く染めていて。
 僕は扉を開いた体勢のまま、少しの間固まってしまった。
 そんな僕にエステルは不安を覚えたらしく、うつむいてスカートを指でいじり始めた。

「あ、あの! この服、リゼの家が契約を結んでいる仕立屋さんの新作なんですけど。わたしの身長や体型がちょうどよかったらしくて、試しに着てみて周りの反応を聞かせてほしいって言われまして。でも、いきなりガーデンパーティーでみんなの前に出るのはなんだか恥ずかしくて……だから、その……」

 早口に説明するエステルに、僕はだんだんと平常心を取り戻してくる。
 どうやら僕は感想を求められているらしい。
 エステルの元まで歩み寄ると、彼女はちらりと上目遣いに僕の顔色をうかがった。

「……似合いませんか?」

 期待と不安で揺れる、夕闇の色の瞳。
 色づいた頬が僕を誘っているように見えて、自然と手を伸ばしていた。

「すごく、似合ってるよ。かわいい」

 僕は安心させるように微笑みかける。
 頬に触れ、髪を梳いて、その髪の一房にそっと口づける。
 鮮やかさを増す頬はとてもおいしそうで、そこにもキスを落としたくなった。

「夜空の色のワンピースなんだね。白い繊細なレースは星をイメージしているのかな。エステルによく似合ってる」

 一般的な花と蔦だけでなく、そこにさらに不規則に小さな円形が描かれていて、それがいいアクセントになっている。
 個性のあるレースは、このワンピースのためにデザインされているのだとわかった。
 スカートの前身のレースと後ろのレースは、幅が違うだけでなくデザインも多少違っている。けれど、不思議と統一感はあるから考えて作られているんだろう。
 ここまで長い丈のワンピースというのは少しめずらしい。ドレスとワンピースの中間のようで、華やかさと淑やかさが見事に調和していた。

「テーマは、春の夜、らしいです」
「エステルにぴったりだね」
「そうですか?」

 エステルは不思議そうに小首をかしげる。
 ふわりと揺れる髪から、さわやかな花の香りがかすかに広がる。
 まるで、春の風が運んでくる可憐な小花の香りのようだ。

「春のあたたかさ、夜の優しさ、星の輝きの美しさ。思わず手を伸ばしたくなるような存在。ね? エステルにぴったりだ」
「……褒めすぎです」

 僕の言葉に、エステルは恥じらってまたうつむいてしまった。
 エステルは自分の魅力をきちんと理解していない。
 彼女の中に、前世の価値観が残っているからなのかもしれない。
 謙虚な彼女は、どれだけ僕が褒めたところで、その言葉をそのまま受け取ってくれることはない。
 歯がゆくもあるけれど、それもエステルの美徳の一つなのだと知っているから、僕はただ言葉を尽くすだけだ。

「エステルの魅力を引き出す、素敵な服だと思うよ。花嫁衣装も頼みたいくらいだね」
「き、気が早すぎます! それに、個人でやってる人だそうですから、そういうのは、たぶん、無理だと……」
「それは残念だね」

 本気混じりの言葉は、簡単に退けられてしまった。
 気が早い、と言いつつも、否定はされなかった。
 エステルはきちんと、僕が婚約者で、いつかはその日が来るということを理解して、受け入れてくれている。
 当たり前のことだけれど、それがどうしようもなくうれしい。
 僕と同じくらい、いずれ来るその日を心待ちにしていてくれているなら、もっとうれしいけれど。
 それはさすがに欲張りだろうと、多くを望みそうになる心を律する。

「ずいぶんこの服が気に入ったみたいですね」
「うん。エステルは何を着てもきれいでかわいいけどね。この服を着ているとまるで春の夜に輝く星の妖精のようで、一瞬たりとも目をそらせなくなる」

 両腕で囲って、離したくなくなる。
 そんなふうに言えば困らせてしまうだろうか。怖がらせてしまうだろうか。
 エステルへと一直線に向かう強すぎる想いは、日々募るばかりで歯止めが利かない。
 この想いがいつか、エステルを傷つけないようにと。そして、この想いをすべて、エステルが受け入れてくれるようにと。
 祈るような気持ちで、願うことしかできない。

「ねえ、エステル。恋に身を焦がす哀れな男に、妖精にキスを贈る名誉を与えてくれないかな」

 キスをしてもいい? と。
 そう尋ねるたびに、エステルは聞かないでと言う。
 聞かれるほうが恥ずかしいから、と。
 けれど、困ったように頬を赤らめるエステルを見るために、僕はこうして問いかけてしまう。
 困らせたいのか、優しくしたいのか、たまに自分でもわからなくなる。
 きっと、そのどちらもが、偽りのない僕の心。

 ほら、また。
 エステルは眉を八の字にさせて、赤い顔で僕を見上げてくる。
 もうすでに髪に口づけておいて今さら何を言っているのか、とでも言いたそうだ。

「……そんなの、聞かないでください。ダメなわけ、ないんですから」

 手持ちぶさたに胸元のフリルに触れながら、小さな声でエステルは了承してくれた。
 赤みを帯びた頬に手を伸ばそうとして、ふと気づく。
 どこにキスをするのか、僕は言っていない。
 窓から入り込む風に、かすかに揺れるスカートに視線を向ける。目にまぶしい白いレースにも。
 夜の色の生地に、星をイメージしたレース。
 僕にとって、エステルを象徴するもの。

 衝動に突き動かされるようにして、僕は膝を折った。
 腰を落として、手でスカートの裾をすくい上げ。
 そこにそっと唇を落とした。
 まるで、女王陛下への敬愛と服従の口づけのように。

「ジル……っ!」

 僕の行動に、エステルは驚愕の声を上げる。
 ちらりと見えた華奢な膝にうずくものを覚えつつ、無理やり視線を剥がした。
 そうして、何事もなかったかのように体勢を元に戻した。
 サクランボのように耳まで真っ赤に染まったエステルに、自然と笑みがこぼれる。
 どうやら、いたずら好きなのは妖精ではなく、僕のほうだったようだ。
 もっとも、ただ思うままに行動しただけで、いたずらのつもりはなかったのだけれど。
 エステルにとっては、どちらも同じようなものだろう。

「本当は、ひざまずいてつま先にキスしたいくらいなんだけど、さすがにそれはエステルが困りそうだから」
「……これでも充分、困ってます……」

 エステルは震える声でそうつぶやき、両手で顔を隠してうつむいてしまった。
 羞恥心が限界点を突破したらしい。
 これくらいでこの反応では、まだまだ先は長そうだな、なんて勝手なことを思った。
 永遠の約束があるかぎり、待つのは苦にならない。
 少しずつ、少しずつ僕を想うことに慣れて、僕への想いを深めていくエステル。
 その隣に立つ権利があるのは、僕だけなんだから。

「恥じらうエステルもかわいいよ」

 本心をそのまま告げると、キッとエステルに睨まれた。
 そんな顔もかわいらしくて、怖くもなんともない。
 嫌がられているわけじゃなく、ただ恥ずかしがっているだけだとわかるから、自重しようなんて気もわいてこない。

「……ジルのばか」

 そんな悪態まで、この上なく甘く響くのだから、もう僕は間違いなく手遅れだ。
 そうだね、エステルが好きすぎて、と。
 きっとそう言えばさらに恥じらうエステルが見られるだろう、なんてよこしまなことを考えて。
 これ以上困らせたら機嫌を損ねるかもしれない、と心配しつつも。
 甘美な誘惑に負けることは、わかりきっていることだった。






このワンピースを見て思いついたネタですが、本文では一部デザインを変えています。イメージがどうのというのも創作です。
もちろん、ワンピースの宣伝などではありません(笑)



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